火の迷宮と水の巫女<5>


  肌を焦がす風の熱さも今は感じない。岩の縁に手をつき、ぎりぎりまで身を乗り出してマグマを見下ろしながら、アレンはごくりと喉を鳴らした。
 溶岩に呑まれたとあってはさしものナナも助かるまい。それは沸騰する岩石であり、燃焼する大地なのだ。彼女な肉体など断末魔を上げる間もなく蒸発してしまっただろう。
「……」
 アレン奥歯を噛み締めたのと、溶岩が大きくうねったのはほぼ同時だった。
 マグマはまるで意思あるもののようにざわめき、一斉に外壁に向かって引いていく。大量の溶岩が壁際に移動した結果、中央部分にぽっかりと擂鉢状の穴が穿たれた。
「おい、あれ!」
 穴の底にはナナの姿があった。水の羽衣が清浄なる飛沫を放ち、炎の脅威からテパの巫女たる少女を守っている。
「ナナ!」
 コナンの声にナナがぼんやりと顔を上げた。水に現れた顔から間抜けな落書きは消えている。夢から覚めたような表情からして、まだ彼女自身状況を良く飲み込めていないようだ。
「ええと……」
 共に落ちた神官長は一瞬で溶けてしまったのだろう、影も形も見当たらない。邪教徒が手にしていたいかづちの杖を握り締めたまま、ナナはのろのろと立ち上がった。
 ナナが一歩踏み出す度、溶岩は漣に似た音を立てて左右に分かれる。テパの神殿に満ちた溶岩にとって、巫女は絶対的な権力者であるようだ。
「……何かあいつ、悪い奴みたいじゃねぇ?」
「確かに、物語に出てくる敵役のようだな」
「見ろ、何と恐ろしい光景だ」
「あの娘、やはり只者ではないな」
 溶岩を従えたナナはさながら煉獄の支配者だ。アレンとコナンは勿論、邪教徒達までもが興味津々で迫力に満ちた光景を見守っている。
 岩壁に行く手を遮られたナナが、再び顔を上げた。ぼうっと呆けていた顔が、見る間に激しい怒りに満ちて引き締まる。
「あんた達、さっきは良くもあたしをぐるぐる巻きにしてくれたわね!」
 赤い瞳が溶岩に負けじとばかりに燃え上がる。怒り狂った彼女の視界からアレンとコナンの存在は完全に抹消されているようだ。
「ちょ、ちょっと待て!」
「僕達まで巻き込まないでくれ!」
 高々と翳したナナの掌にイオナズンが輝くのを見て、アレンとコナンは弾かれるようにその場から逃げ出す。
「イオナズン!」
 アレンとコナンが岩陰に飛び込むと同時に、地下迷宮に爆発音が響いた。


 溶岩を湛えた穴の底では、アレンとコナンには手助けのしようがない。手を伸ばしても到底届かないし、ロープを投げ入れても燃えてしまう。ナナが独力で岩壁を攀じ登る以外合流する術はなかった。
「も、もーだめ」
 息も絶え絶えに縁まで辿り着いたナナは、アレンによって安全地帯に釣り上げられた。揺るぎない足場に安堵しながらくたくたと崩れ落ち、幾度となく荒い呼吸を繰り返す。
「大丈夫か?」
「うん、ありが、と。お水、もら、える?」
 アレンから手渡された水嚢の中身を、ナナは一気に喉に流し込んだ。生温い水をここまで美味しく感じる機会もそうそうあるまい。
「正直もうだめかと思った。無事で良かったよ」
「水の羽衣って凄ぇな。溶岩に落っこちても火傷もしねぇんだからさ」
 アレンの言葉通り、ナナには火傷どころか髪一筋焼けた形跡もなかった。ドン・モハメの織り成した奇跡の衣は、炎と熱から完璧な形で巫女を守り抜いたのだ。
「美しいばかりの羽衣ではないんだな」
 安堵を浮かべていたコナンの表情が、そこでふと訝しげに曇った。彼の視線を引きつけて止まぬのは、ナナの腰帯に差し込まれた杖だ。
「あいつが使っていた杖、使えそうだから持ってきたの」
 翡翠色の竜を掲げたそれからは、絶えず強力な風の力が滲み出している。卓越な職人の技による魔術品だ。
「邪教徒の持ち物なんてホントは使いたくないけど……でもこの杖は役に立つと思うの。これからロンダルキアに行くのに、魔力を温存出来るならそれに越したことないでしょ」
 清濁併せ呑む覚悟を決めたナナは清々しい。彼女にそんな表情をさせるのは投げ遣りな覚悟でも諦めでもなく、未来に邁進しようとする強さだ。
「ではそのことに関する懺悔は僕が引き受けよう」
「お説教は手短にお願い」
「分かっている」
 コナンの手を借りてナナが立ち上がる。三人は再び足並みを揃え、地下迷宮を奥へ奥へと歩き始めた。
 幾つにも分かれる道は次第に数を減らし、遂には単調な一本道となった。次第に壁の感覚が狭まる道の先には、珊瑚と思しき白い扉が聳えている。
 だがそこまでの道程には溶岩がぼこぼこと気泡を吹き上げている。立ち上る熱風が渦を巻き、狭い通路は耐え難い暑さだ。水の加護を持たぬアレンとコナンは立ち入ることも出来ない。
「こっからどーすんだよ」
「まずあたしが入ってみる」
「お前一人で行ったってしょうがねぇだろ」
「ルビスの聖堂に続く道は溶岩に守られ、巫女とそれが認めた者のみが通ることを許される……モハメさんはそう言ってたでしょ。あたしが認めてるんだもん、アレンとコナンもこの道を通ることが出来ると思う」
 ナナは炎の川に足を踏み入れた。溶岩は独りでに左右に分かれ、ナナのために安全な道を確保する。
 規則的に絡み合う珊瑚がナナの眼前に聳えた。体重を掛けるようにして押したものの、それはびくとも動かない。
「あたしはルビス様にお会いして、ハーゴンに太刀打ち出来る加護を賜らなくちゃならないの。ムーンブルクの仇を討ってからじゃないと、あたしは新しい国のために歩き出すことも出来ない」
 ナナは扉に縋り、訴えた。
「……でもあたし一人じゃ無理なんだ。アレンとコナンがいないとこの旅は終われないの。だからお願い、三人一緒にここを通して」
 次の瞬間扉は幻のように掻き消えた。ぽっかりと生じた穴から祝福を帯びた風が放たれ、狭い道を吹き抜けていく。風に撫でられた岸壁は水晶に化け、溶岩は清水へと変じた。
 吹き上げられたナナの髪が金の光を失って紫の艶を取り戻していく。神殿の巫女としての役目を終えた証なのだろう。
「すげーっ」
「これは神秘的で美しい演出だ」
 一瞬にして変貌を遂げた水の道にアレンとコナンは飛び込んだ。水は冷たく、火照った体を心地良く冷やしてくれる。巫女に認められた二人もまた、ルビスの聖堂へ続く道を許されたのだ。
「やったなナナ!」
「うんっ」
 巫女としての役割を果たしたナナは誇らしげだ。今この瞬間、彼女は惨劇の日に生き残った意味を一つ消化した。恐らくナナは生涯こうして、生きる意味を模索しながら生きていく。それは彼女に課せられた義務であり役目なのだ。
「お、見てみろよ。中もすげぇぞ」
 ナナが開放したその先には、ローレシアの城下町さえすっぽりと収まりそうな空洞が広がっていた。星砂が敷かれた道先には水晶の神殿が聳え、その傍らにささやかな墓標が五つ並んでいる。陸に戻らなかった巫女達はここで命を終えたのだ。
「ルビスの巫女って六人じゃなかったっけ? 一つ足りなくねぇ?」
「当然だ。自分で自分の墓は作れないだろう」
「そっか。でもさ、ひょっとしてまだ生きてんのかもしんねーよ」
「……まさか。何時の時代の話だと思っている?」
「神殿に入ってみましょ」
 ナナが先頭を切って階段を上がり、アレンとコナンがその背後を守る。
 神殿内部は踝までの水が満ち、三人が踏み出す度音もなく波紋が広がった。何気なくその動きを目で追っていたアレンは、静寂の中に佇む人影を発見して歩みを止めた。ぱしゃん、と一際大きな水音が響いた。
「あれがテパの巫女じゃねぇ?」
 小高く盛り上がった台座で一人の女が祈りを捧げていた。ゆったりとした水の羽衣を纏い、水飛沫煌くベールを目深に被っているため細かな容姿は分からない。だがその神秘的な雰囲気からして、巫女であることは間違いないようだ。
「あのぉ、すみません」
 呼びかけても、巫女から応えは上がらなかった。
「おいってば! ……聞こえねぇのかな」
「……でも、呼んでる」
 呼ばれているような気がして、ナナはふらふらと台座へ続く階段を上がった。
 近づいても細い背中は振り向かない。数秒間躊躇った後、ナナは微動だにしない彼女の肩にそっと手を置いた。
 瞬間、巫女の体はさらさらと輝く粒子となって崩れた。踊るようにナナを取り囲んだそれは床に蟠り、ゆったりと銀河に似た渦を巻き始める。それはこの世の何処かに通じる神秘の入り口だった。
「この人はここでずっと旅の扉を守ってたんだって」
 光の渦に視線を落としたままナナが呟いた。一瞬にして流れ込んできた彼女の記憶のせいで軽い眩暈が止まらない。気の遠くなるような長い間、一人ここで祈り続けてきた彼女を想いに胸が痛くなった。
「役目を終えたからもう眠るって。ルビス様のことをお願いって言ってた」
「君に全てが託されたとういうわけか」
 ナナは唇を引き結び、しっかりと頷いた。
「これを潜るとロンダルキアの麓よ」
 ロンダルキア……嘗て神がおわした場所。花が咲き、蝶が戯れ、妖精族が暮らした神の山。今はハーゴンによって蹂躙され、氷に閉ざされた不毛の地に成り果てているという。
「俺らもう少しでルビス様に会えるんだな」
「麗しき大地の女神。お会いする瞬間を思うと今から心が躍る」
「変なポエムでルビス様を困らせんなよ」
「変なポエム? ……君の冗談は何時も面白くないな。いや、冗談にもなっていないというべきか」
 アレンはうんざりと舌を出して、何の躊躇いもなく旅の扉に飛び込んだ。仄かに輝く渦がアレンを飲み込んだのを確認してから、コナンがそれに続く。
 ナナは目を瞑って大きく息を吸う。清浄なる空気をいっぱいに溜め込んでから、決戦の地へと飛び込んだ。


 祈りの声が止まった。
 薄い目蓋が持ち上がり、竜の加護を受けた瞳が現れる。形の良い唇が皮肉な笑みを象った。
「……来たか」
 何処かしら楽しげな呟きを掻き消すように、けたたましい足音が響き渡る。ゆっくりと首を巡らせた先には、予想通り険しい顔をした少年の姿があった。
「おい、今……!」
「麓に旅の扉が生じた。そこから覚えのある人の気配が三つ、この地に侵入したようだな」
「何呑気なこと言ってやがる。シドー様が降臨なさる聖地にルビス教徒が入り込もうとしてんだぞ!」
「そうまで腹を立てるのなら始末してくればよい」
「へ?」
 気炎を上げていたアトラスが、拳を振り上げたままの体勢で固まった。どんぐり眼が二度きょときょとと瞬く。
「……行っていいのかよ。お前今まで、散々俺にロンダルキアから出んなって……」
「不完全な状態で挑む度に怪我をされては堪らんからな。お前達の肉体の修復は楽な作業ではない」
 裳裾を捌きながら祈祷台を下り、ハーゴンはアトラスに対峙した。降臨した時は一抱え出来る赤ん坊だったアトラスも、今やオリジナルに引けを取らぬ体格にまで成長している。瞳の色以外、ローレシア王子と寸分違わぬ容姿だ。
「そもそもお前達が破壊神シドーに先立って降臨したのは、ルビスの聖地をシドーの聖地に作り変えるためだろう。ふらふら出歩く暇などなかったはずだ」
 ハーゴンによって氷に閉ざされたロンダルキアの地は、三柱神によって更なる変貌を遂げていた。空には暗雲が垂れ込め、大地には命が封じられ、魔力を孕んだ風が止むことはない。破壊神シドー降臨の地は、ハーゴンの祈りと三柱神の尽力によって確実に整いつつあった。
「聖地は神々の力を強める。お前達が先の戦で失った力と体を取り戻す日も遠くないだろう」
「へえ、そいつは楽しみだな。この体も嫌いじゃねぇがやっぱ窮屈でさ」
 アトラスはにやりと笑って顎の辺りを撫ぜた。
「んじゃお許しも出たことだし、俺は奴らの始末にいってくる。太陽の血と星の血を手土産にしてやっから、楽しみに待ってな」
 ハーゴンはそれには答えず、小さく肩を竦めただけだった。