闇の魔窟と稲妻の剣<1>


 ムーンブルクの南西に、鳥も通わぬ険しい山脈が聳えている。
 垂直に切り立った山骨には草一本根づかず、あらぶる烈風はそこに近づこうとするものを容赦なく叩き落す。吹き飛ばされた体は硬い大地に叩きつけられて砕け散り、風雨に散じて土に返るのを待った。死体を啄ばみにくる鳥も、腐肉を漁りにくる獣もいない。そこは一切の命の介入が許されない場所だった。
 旅の扉に飛び込んだ三人は、魔峰ロンダルキアの麓に投げ出された。亜空を抜けた肉体は感覚が乱され、踏み出す足が自分のものではないようだ。長時間の乗馬を終えた時のように胃がむかつき、頭がくらくらした。
「うえ、気持ち悪ぃ」
 呻きながら振り返ると、ごつごつした岩棚に旅の扉が渦を巻いていた。何もかも枯れ果てた土色の岩場で、それはひどく浮いた存在だ。美しい神秘の扉が自然と溶け込めるような風景はとうの昔に失われてしまったのだろう。
「さて、僕達はこれからどうすればよいのかな」
 山から吹き降ろす風は乾燥していて埃っぽかった。誘われるように見上げた頂は、灰色に濁った雲に覆われて様子が伺えない。
「巫女達は山窟を通って聖堂を目指したの。聖なる山気を浴びることで、世俗の邪を洗い清めたんだって」
「洗い清めたって……ここでかぁ?」
 アレンは岩肌にぽっかり開いた洞窟を仰ぎ、鼻に皺を寄せた。
 洞窟から漂う微風は湿っていて、苔と水と濡れた岩の臭いがした。内部に満ちた闇は見通しが利く程淡いが、これまで探索してきたどの迷宮よりも近寄り難い。
 そこはあまりに禍々しく、陰気で、そして不穏な空気に満ちていた。嘗て巫女達が辿った道は汚され、命を拒む迷宮と化したのだ。突破するにはかなりの労力を必要とするだろう。
「陰気臭ぇ洞窟」
「爽やかな洞窟などお目にかかったことがないが」
「ま、そりゃそーだけどさ」
 軽口を叩きながら踏み入った途端、鈍色の冷風がひやりと頬を撫ぜた。
 コナンとナナがふと歩みを止めた。後ろに続く足音が途絶えたのを知り、不審に思ったアレンが振り返る。
「どしたのお前ら。顔真っ青だぞ」
「……すっごく嫌な雰囲気。洞窟なんて何処もじめじめしてて大嫌いだけど、ここは最悪」
 ナナが自らを抱きしめるようにして震える。
「死せる魂が大地に縛りつけられている。さまよう魂の悲鳴が風の音に混じって聞こえてくるようだ」
 ここで死んでいった命の怒り、悲しみ、憎しみ、そして生者への嫉妬が二人に纏わりつく。アレン一人何も感じていないところをみると、魔力に関係する特別な感覚なのだろう。
「……」
 アレンは改めて周囲を見回した。見上げる天井は高く、馬車が数台並んでも疾走出来るほど道幅に余裕がある。捻じ曲げられた断層が壁一面に面妖な筋を描き、落下した鍾乳石がそここで不気味な影を揺らめかせている。ふと背筋に悪寒を覚えたのは、ひやりと流れ行く冷気のせいばかりではあるまい。
 神の道を作り変える敵の力に、三人は意識せず表情を引き締めた。遠くない日に訪れるだろう決戦を思えば、緊張と戦慄が項を駆け上がる。
「お前ら大丈夫かよ?」
「いささか気が滅入るが特に支障はない」
「うん、最初はびっくりしたけどもう大丈夫」
 若干の虚勢を感じぬわけでもなかったが、二人の頬には赤みが戻りつつあるようだ。魔物と遭遇しても先手が取れるよう、アレンは柄に手をかけたまま先頭に立って歩き出す。
 捻じ曲げられた洞窟は地盤が脆くて崩れやすい。安易に踏み出すと忽ち足元が陥没し、何処とも知れぬ空間に放り出されてしまうのだ。
「いてっ」
「うわっ」
「きゃんっ」
 何度目か床を踏み抜いて、末裔達は仲良く落下した。まずアレンが落ち、次にコナンが重なり、最後にナナが尻餅をつく。
「いったぁ〜い……もういやっ、何なのこの洞窟っ」
「実に屈辱的だ。ここを抜けるまでに一体何度このような無様な目に遭うのだろう。僕のガラスのように繊細な心が耐えられればいいが……」
「いいからお前らさっさと下りろよっ」
 落とし穴が厄介なのは、現在地がまるで分からなくなることにある。丁寧に地図を取っていても一瞬にして全てが無駄になってしまうのだ。
「計画的に物事を進められないのは、いらいらして美しくない」
 コナンが腹立たしげに手帳を捲る。磁石を取り出して方位だけは確認したが、ここがどの階層でどこに位置するのか皆目見当もつかない。
「二階から落っこちたから一階じゃねぇの?」
「二階層突き抜ければ地下一階だ。僕の卓越した能力を以ってしても、この洞窟の攻略はなかなか困難だな」
 自信家のコナンにしてそんな台詞を吐くのだから、この迷宮は手強いのだ。不機嫌そうな顔を横目で見やりつつ、触らぬ神に祟りなしとばかりアレンは彼との距離を置いた。
「んな難しい顔をしなくたって、適当に歩いてりゃそのうちどっかに着くだろ」
「無意味な体力の浪費は死を招くと忠告しておく」
「大丈夫だって。ホントに心配性だな」
 三人が落ちたのは四方の壁が視認出来ない程広い空間である。濁った色をした靄のようなものが、ゆっくりと地表を徘徊していた。
「早くここを出よう。とかく不快な洞窟だが、この空間は特に瘴気が強いようだ」
「だな」
 がらんとした地下空洞には、アレンでさえ感じられる程の強い瘴気に満ちていた。重たい念が四肢に絡みつくかのようだ。
「ねえ、あの坂。上に行けるんじゃないかな」
 ナナが指差した先には、緩やかに起伏した土の山が天井まで聳えていた。山の頂がほんのりと明るいのは、上階から差し込む光に照らされてのことだろう。
 落ちたのなら上ればよい。三人が上階を目指して歩き出そうとしたその時、ふっと周囲の闇が濃くなった。


 ざくざくと土を踏みしめる足音は三つ。
 浅黒い肌をした少年が近づいてくるのを見て、アレンは舌打ちと共に剣を抜いた。剣先の向こうで、楽しげに口の端を持ち上げるのはアトラスだ。
「俺は人間って奴を見くびってたみたいだ。こいつ等がここまで来られる程強ぇとは思ってなかったからな」
「彼らは僕達の代替として選ばれた人間だ、それぐらいの力はあるだろう。そうでなくては困る」
「勇者ロトの末裔……この世界の伝説を継ぐ人達だものね」
 末裔達はぐるりと三柱神に取り囲まれた。彼らの放つ気が、圧迫感を伴って三人に襲いかかる。
「……出迎えを頼んだ覚えはないが」
「俺らだって好き好んで来たわけじゃねーよ」
 コナンの皮肉に満ちた台詞にアトラスが答えた。
「けど俺らの聖地を汚されるわけにはいかねーからな」
「あんたみたいな奴のこと、盗人猛々しいっていうのよ。ロンダルキアはルビス様の聖地なの、そこにあんた達が入り込んでるの。その辺分かってる?」
「可愛くねーなぁ……ま、俺は気の強い女は嫌いじゃねーけどな。俺がローレシア王になったら後宮に迎えてやろうか?」
「あたしは頭の切れるマッチョなイケメンが好みなんだってばっ。アレンの影じゃ色々なところで夢が見れない!」
「ナナ、お前俺に喧嘩売ってんのかよっ!」
「俺はそいつよりいい男だと思うぜ」
 余裕たっぷり微笑みながら、アトラスがすらりと剣を抜き放った。黒曜石のような刃に稲妻が絡みつき、ばちんと巨大な破裂音を奏でる。それを合図として戦いの火蓋が切って落とされた。
 ベリアルの掌が目も眩む白光を帯びると同時に、ナナの振り翳す杖が唸る。少女達に召還された六精霊が大気を大きく震わせた。
「イオナズン!」
「イオナズン!」
 二つのイオナズンが虚空で激突し、絡み合い、弾け飛び、凄まじい爆風を周囲に巻き起こした。間髪入れず二度三度と激突するイオナズンを掻い潜り、アレンはアトラスに猛進する。
 刃と刃が激突する度、白と黒の火花が散り、光と影が交錯した。アレンは突き、流し、振り上げ、振り下ろしとあらゆる攻撃手段を試みるが、そのどれもが後少しのところで受け止められてしまう。
 アレンは敢えて脇を緩めた。喜び勇んで急所に食らいついてきた剣の動きに合わせて右足を引く。一瞬無防備に晒されたアトラスの腹目掛けて、アレンは力いっぱい膝頭を叩き込んだ。
「がっ」
 よろめいたアトラスの頬に、続いて思い切り拳を叩き込む。血の筋を宙に踊らせながら、アトラスはどうっと仰向けに倒れた。
「人間にしちゃなかなかの力だ。お前が俺のオリジナルでよかったと思うぜ」
 起き上がるアトラスにさしたるダメージはないようだ。笑いながら口元を拭う仕草には余裕さえ感じられる。
「影の分際で生意気な口叩くんじゃねぇよ」
 憎まれ口を叩いたところでアトラスの泰然とした態度は崩れなかった。器はアレンでも中身は別人格、オリジナルほど単純な頭ではないということだ。
「……何か強くなってねーか、こいつら」
「この空間に満ちた瘴気が邪神達のエネルギーになっているのかもしれない。ここは恐らく、彼らに最も有利な場所で僕達に最も不利な場所だ」
 邪神から注意を逸らさぬままコナンが頷く。
「ここに落ちたのも彼らの罠だったのかもしれないな」
「じゃあどうすんだよ。このままだったら俺らの負けじゃん」
「……」
 やや間を置いてのコナンの返答に、アレンは小骨が引っかかるような違和感を覚えた。その声は何時も通り淡々としていて冷静で、それでいてコナンらしからぬ寂しげな響きが込められていた。
「……こうなったら最後の手段を使うしかないようだ」