闇の魔窟と稲妻の剣<2>


「これだけはやるまいと思っていた……だがこの状況では禁忌を犯す以外に術はない」
「コナン?」
 弾かれるように振り返ったのはナナだ。戦闘で紅潮した肌にそうと分かる焦燥が浮かび上がる。
「メガンテは使わないって約束したじゃない!」
「めがんて?」
 たどたどしく復唱しても、魔術の一種らしいということ以外アレンには分からない。だがナナの様子からして、それが不吉な結果を齎すものであることは見当がついた。
「お前、何する気だ?」
「約束破ったら、あたしコナンのこと絶対に許さないから!」
 二人が眦を吊り上げると、コナンはふっと前髪を掻き上げた。空気が凍るような緊張下、余裕綽々の表情が神経に障る。
「二人とも心配は無用。僕にはメガンテを使う気などこれっぽっちもないから安心したまえ」
「……へ?」
「僕の美しい命を犠牲にしてこの場を切り抜けても、それはたくさんの人々に癒えない傷を負わせることになる。それはあまりにも身勝手、あまりにも独断的。僕の美学に反する行いだ」
 優雅な手振り身振りを交え、コナンが美しく持論を展開する。芝居がかった表情に潜んだ彼の真意を察して、アレンはごくりと喉を鳴らした。
「コナン、お前って奴は……」
 ロトの剣を握る掌に知らず汗が滲む。
「ぶっちゃけそのメガンテとかいうの、使うのが嫌なだけなんだな」
「ほっとしたことはほっとしたけど……爽やかな笑顔で言われると何となくイライラするかなっ」
 二人の剣呑な眼差しに頓着することなく、コナンはばさりとマントを翻して邪神達を見据えた。
「さあ、ここは美しく華麗に且つ可及的速やかにピンチを切り抜けるとしよう」
「それはいいけどどーやって切り抜けんだよ」
「さっき言ってた禁忌って何?」
「生まれながらのナイトにあるまじき行為故、これだけは避けたかったが」
 ふっと翳した掌に業火が渦を巻いた。
「なりふり構わず逃げるんだ!」


 ベギラマとイオナズンが炸裂し、岩肌を切り崩して壁を作る。不意を突かれた邪神達は岩の牢獄に閉じ込められた。
「走れ!」
 土煙の中を末裔達が一丸となって駆け抜ける。コナンの言葉通り、この空間から脱出すればもう少し有利に戦えるはずだ。
「ベリアル!」
 アトラスの怒声が遠くから響く。間を置かず、それに応じるベリアルの声はぎょっとする程近くから聞こえた。
「大丈夫よ、逃がさないから」
 土埃の向こうからベリアルが現れた。風もないのに髪がうねり、ローブが翩翻と踊る。彼女を中心として恐ろしい力が放射状に吹き出しているのがはっきりと感じられた。
「一匹閉じ込め損ねたか」
 コナンの悪態に動じることなくベリアルが微笑む。
 ベリアルが両腕を緩やかに広げた。しなやかなかいなが作り出した空間に光が生じ、身を凍らせる冷気と闇が爆発する。
「!」
 まずいとアレンは本能の部分で思った。
 ロトの剣が唸るより早く光が蠢く。美しくも不吉な粒子が銀河に似た渦を巻いた瞬間、ずん、と大気が重みを増してアレンに圧し掛かった。
「なっ……」
 見えない掌で地面に体を押しつけられるかのようだ。片膝をつき、剣に縋って立ち上がろうとするがそれもままならない。凄まじい圧迫感に息をするのもやっとの状態だ。
「死者の念って重いでしょう?」
 ベリアルの睫が蝶の羽の如く瞬いた。
「あなたの座る地面の下にはたくさんの死体があるの。嘗てこの山に住んでいた妖精族……ルビスの眷属の死体がね。あたしが命令すれば腐った死体となって蘇るけど、それじゃムーンペタと一緒で芸がないじゃない?」
 ベリアルは楽しげに言う。お気に入りの玩具で遊ぶ幼女のように無邪気な微笑だ。
「祈りと同様、行き場のない魂の叫びもあたし達の糧になる。命は何時だってこうしてあたし達を支えてくれるの」
 呼応するかのように、ばちばちと闇の力が弾ける。
「だからあたしは人間が好きよ。人間のたくさんいるこの世界も愛してる」
「……のアマっ……」
 アレンの怒声は喉に絡み、微かな呻き声にしかならない。
「苦しいのね、かわいそうに。でもあなたはまだいい方よ。魔力を持つ人達は影響が強くて今にも死んじゃいそうだわ」
 アレンは動かぬ首を必死に巡らせた。コナンはアレンと同じように膝をついているが、ぐったりと項垂れたまま碌に口も利けないようだ。ナナに至ってはうつ伏せに倒れたままぴくりとも動かない。一瞬で意識を失ったようだった。
「……」
 アレンは改めて光の渦を見た。緩やかに回転するそれが魔力を放ち、この洞窟に満ちた死者の想いを操っているのは分かる。至極単純に考えれば、あれを破壊すれば重圧は消えるはずだ。
「バカなことを考えない方がいいわ」
 ベリアルが幼子の悪戯を咎める口調で囁いた。
「人間が破壊出来る力じゃない。幾らあなたが丈夫でも近寄るだけで体がずたずたになるわよ」
「……やって見なくちゃ分かんねぇだろ」
 アレンはロトの剣を杖代わりにし、懇親の力で立ち上がった。抗おうともがけばもがくだけ、体を押圧迫する念の強さが増すようだ。体内の骨がきしみ、内臓のひしゃげる音が聞こえるかのようだった。
「……アレン」
 背後から殆ど音を成さぬコナンの声がした。
「ベリアルの……言ってることは本当だ。腕力と体力だけが取り柄……の君が……対処出来るものでは……」
「動けねぇ奴は黙って見てろ」
 ぐいと持ち上げた顎から汗が滴り落ちた。
「ローレシア王家の人間がどれだけ丈夫かあの女に教えてやる」
 全身の筋肉を振り絞り、アレンはじりじりとベリアルに近づいた。
 怨念がアレンに食らいついた。透明な牙が皮膚を引き裂き、あぎとが肉を食み、舌が流れる血を啜る。全身を貫く激痛に、食いしばった歯の合間から唸り声が漏れる。
 尤も肉体的な痛みよりも厄介なのは、内面に流れ込んでくる闇だった。それはアレンの中に一杯に満ち、魂と意識を塗り替えようとする。自我を保とうとするだけでも体力の大半が失われた。
 一歩、二歩、三歩踏み出す。攻撃範囲にまで後一歩というところで、遂にアレンはその場にがくんと膝をついた。
「……はっ」
 肺が限界にまで縮まり、心臓がぎりぎりと痛む。巧く呼吸が出来なくて、アレンは何度も大きく肩を喘がせた。
「だから言ったのに、バカね」
 ベリアルは憐憫の溜息をついた。
「でもあたしはあなたみたいな単純馬鹿、結構好きよ。だからせめて楽に死なせてあげるわね」
「……くしょう」
 強まる圧力にがくんと項が落ちる。目線が地表に向いた瞬間、アレンはロトの剣が淡く輝いていることに気づいた。
 不意に、誰かがアレンの腕に触れた。誰かがアレンの肩を叩いた。誰かが倒れそうな上半身を支え、誰かが柄を握る拳に手を添える。
 朦朧とする意識の中で、アレンはたくさんの人々に囲まれているのを感じた。何処かで会ったような気がするものから、まるで覚えのないものまでその気配は様々だ。
 がんばれと、声なき声がアレンに囁いた。
 アレンはぐったりと伏せていた顔を持ち上げた。生気を失いかけていた瞳が太陽の血筋の輝きを取り戻す。
 震える指がロトの剣を握り締めた。かちんと音を立てて剣先が持ち上がるのを見て、ベリアルがはっと息を飲む。
 アレンは痛みと重圧を振り切って立ち上がった。驚愕と恐怖に強張ったベリアルに向かって踏み出し、不吉な渦に力いっぱいロトの剣を叩き込む。
 光と闇が激しく激突する。相反する二つの力は互いに一歩も譲らぬまま食い合い、凄まじい衝撃を伴って爆発した。