闇の魔窟と稲妻の剣<3>


 凍れる床の冷たさがひしひしと染みてくる。冷え切った肉体が意識の覚醒を促してくるのに気づいて、アレンは強張る舌を動かした。
「う……」
 声帯が震えて音が出た。それに刺激を受けた目蓋が持ち上がる。青い瞳が闇の中、猫のそれのように爛々と光った。
「つつつ」
 アレンは全身の疼痛に歯を食いしばった。ずきずきとこめかみが痛み、むかむかと吐き気が込み上げる。鉛のように重たい頭を右手で支えながら、アレンはどうにか上半身を起こして周囲を見回した。
「……ここ何処だ?」
 そこは妖精族の眠る空間ではなく、高い天井が両脇に聳える通路のど真ん中だった。邪神達の気配もなければコナンとナナの姿もない。一体何が起きたのかアレンにはさっぱり分からない。
 ベリアルの作り出した闇を切った瞬間、ロトの剣が嘗てない激しい衝撃に震えたのは覚えている。二つの力が爆発し、放射状に吹き上げた波動を食らったところで記憶はふっつりと途絶えていた。
 のろのろと立ち上がった時、アレンは握り締めたままだった剣の重量に違和感を覚えた。何気なく手許に目を落とし、驚愕に思わず息が止まる。
「あ……」
 ロトの剣はその刃の大半を失っていた。斜めに折れた刃の断面からは、清浄な光がはらはらと零れ落ちている。散り行く桜の花びらを髣髴とさせる、美しくも儚い輝きだ。
 遙か古の昔……ロトの時代から何千何万という魔物を屠っただろう刃は、粉々に砕けたのか何処にも見当たらない。柄だけ残された剣はそれでも凛としていて雄々しく、伝説の武具と呼ばれるに恥じぬ姿だった。
「お前が俺らを助けてくれたのか?」
 懐疑的に呟き、呟いた瞬間それが確信に変わった。ロトの剣はその存在を以って末裔達を闇の波動から救ってくれたのだ。根拠はない。証拠もない。けれどそれは疑いのようのない事実としてアレンの中にすとんと収まった。
「そっか……」
 竜王の城で入手して依頼の付き合いだった。予想以上の喪失感がずっしりと圧し掛かってきて、アレンはそんな自分に戸惑いを隠せない。
「変なもんだな。俺はずっとお前のこと借りもんだと思ってた。お前はロトの剣であって、俺の剣じゃないってさ」
 柄に埋め込まれた真っ赤な宝玉が、アレンの表情を映し込む。我ながらしょぼくれて冴えない表情だった。
「でもさ。それじゃ何で、俺はお前とずっと一緒に戦ってきたんだろうな」
 五百年前に比べて遙かに鋳造技術が発達した今、コナンの持つ光の剣を初めとして、殺傷能力の高い武器はあまた存在する。新しい剣を入手しようと思えば……金銭的な問題は横に置いて……入手出来る状況であったにもかかわらず、積極的に代替を探さなかった理由は何なのか。アレンはここにきて初めて、自らの心の深淵を覗き込むことになった。
 じっくりと考えるのは今でも苦手だ。だがこの疑問を解消しない限り、アレンは自分がこの場から一歩も進めないような気がした。時間をかけてしんどい作業を行った結果、吐息と共に力のない声が落ちる。
「やっぱガキなのかな、俺」
 これまで子供だ未熟だと戒厳されても、口を尖らせるしかなかった彼にして殊勝な台詞である。周囲に仲間がいない分、素直に気持ちを認められたのかもしれない。
「お前が今まで使ったどんなのより、いい剣だってことは最初から分かってた。でもお前はロト伝説を作った剣だから……それを認めるのが癪だったんだ」
 ロト伝説に対する反抗心が、素直に剣を受け入れることを良しとしなかった。つまらない意地を張り続けて真意に気づかぬなど、呆れるほど幼い行為である。
 今ならすんなり認められる。掌に良く馴染み、重さ長さとも申し分なく、体の一部のように的確に動いたロトの剣は申し分のない武器だった。喪失や別離によって気づく事実があることを、アレンはこの時初めて知った。
「お前はいい相棒だったよ。ロトも曽祖父ちゃんもそう思ってると思う」
 アレンの言葉に応えるかのように、ロトの剣から最後の魔力が零れて消えた。
「今までありがとな」
 アレンはロトの剣を地面に突き刺した。剣そのものが伝説の墓標の如く、闇と光を纏って佇む。それは五百年に渡って世界を守り続けてきた勇者の剣が、ようやく安息を得た瞬間でもあった。


 コナンとナナを探して、アレンは洞窟を彷徨った。しっとりと湿り気を帯びた闇に人の気配はない。
「仕方ねぇなあ、あいつら。こんなとこで迷子になりやがって」
 迷子は自分の方だという認識はアレンにはない。
 耳動を震わせるのは、何処からか吹き込む風の音だけだ。アレンは可能な限り足音を殺し注意深く気配を探った。単独行動は一瞬たりとも気の休まる時がなく、何時しか掌に粘ついた汗が滲み始める。
「一人で動くの久しぶりだな」
 そう呟いた後、アレンは小さく苦笑して言い直した。
「……一人で動いたことなんてほとんどねぇけどな」
 アレンが一人旅をしたのはローレシアを出発し、サマルトリアから勇者の泉に向かう途中までの短い期間だ。それからは何時だって彼の側には仲間がいた。
 背中を任せられる仲間がいない今、全てに間断なく注意を向けなくてはならない。一定の水準で保たねばならぬ緊張は予想以上に神経を削り、肉体を疲弊させる。
 ベリアルとの一戦で食らったダメージも大きかった。コナンやナナなら一瞬にして癒すことの出来る怪我も、アレンには薬草を当てて痛みを取り除くのが精いっぱいなのだ。
「俺一人だったらとっくにくたばってたのかな……」
 その時異変に気づいて、アレンは足を止めた。辺りをきょろきょろと見回して知らず顔を顰める。
「ここ、さっきも通らなかったっけ?」
 洞窟など何処も似たような風景だが、右上方に突き出した狐の形の岩に見覚えがあるような気がした。
 アレンは短刀を抜いて手近な岩に振り下ろした。黒くて脆い岩肌に白い傷跡を刻み込んでそれを目印とする。短刀を腰の鞘に戻した瞬間、そのうなじにぴりぴりとした殺気が迸った。
「来やがったな」
 アレンは舌打ちし、心もち腰を落としながら振り返る。
 厚い闇の向こうから魔物が近づきつつあった。メイジバピラス、シルバーデビル、キラーマシーン、フレイム、バーサーカー……数は五匹。単身で、しかも武器のない状態で相手に出来る魔物ではない。
 一瞬逃げることも考えたが、振り切れる可能性が低いことを察して歯噛みする。魔物の中には強靭な脚力を誇るシルバーデビルがおり、背中を見せたその瞬間に間合いを縮められることは確実だ。シルバーデビルの巨大な牙は、人間の肉体など容易く噛み千切る威力を持つ。一撃で急所を突かれればそれで全てが終了だ。
「やるしかねぇな」
 腹を決めると、アレンは獣めいた咆哮を上げて魔物の群れに突っ込んだ。
 フレイムの吐き出す炎を掻い潜ると、勢いのままキラーマシーンに体当たりし、よろめく魔物から剣を一本奪い取った。振り返り様にフレイムを両断し、返す刃でバーサーカーの胸を抉る。跳躍するシルバーデビルの牙を屈んでやり過ごし、頭上を通り過ぎていく無防備な腹に剣先を突き立てる。降り注ぐ血の雨を潜り抜け、詠唱に専念するメイジバピラスへ突進する。
「ラリ……」
 間一髪、魔術が完成する直前、刃がメイジバピラスの腹を裂いた。制御を失った魔力が岩を切り崩すのを尻目に、深く心臓を抉って止めを刺す。胸板を蹴り上げながら引き抜いた剣を、アレンは背後に迫る殺気へ叩きつけた。
 柔らかい肉を薙ぐはずだった刃が、ぎぃんと音を上げて弾かれる。
「なっ」
 メタリックボディがぬめるような光沢を放った。からくり仕掛けの人形に魔族が取りついたメタルハンターは、直接攻撃に対しても魔術攻撃に対しても恐るべき防御力を誇る。
 慌てて間合いを置くより早く、アレンの肩を灼熱の衝撃が襲った。
「……!」
 左の肩口に突き刺さったのは銀色の矢だ。至近距離からボウガンで打ち込まれたそれは、肉に深く食い込んでいる。
 メタルハンターの六本の腕が矢継ぎ早の攻撃を繰り出した。縦横無尽に動く刃がアレンの皮を裂き、血を散らす。決定的な一撃だけは免れているがそれも時間の問題だろう。攻撃を避ける動きが次第に鈍くなってきている。
 ふらりとよろめいた足が、転がっていたメイジバピラスに引っかかった。
 仰向けに倒れたアレンの喉下に剣先が迫る。アレンは膝が胸板につくまで足を折り曲げ、反動をつけて靴底をメタルハンターの胸板に減り込ませた。予期せぬ反撃を受けた魔物の体が岩壁にまで飛んで崩れる。
 アレンはメタルハンターに馬乗りになり、唯一の弱点である目へ剣を突き刺した。