氷雪の彼方と大地の女神<1>


 迷宮を抜けると、そこは氷雪の地だった。
 ロンダルキアには人の痕跡はおろか、生命の息吹さえなかった。白き凍土は萌芽を許さず、厚き雲は陽光を遮る。大地が、空が、風が……その世界を形成する全てが生あるものを頑なに拒んでいるかのようだ。
「わぁ……あたし、こんなにたくさんの雪を見たの初めて」
 感嘆するナナの髪を氷片混じりの風が吹き上げる。一瞬にして、ナナの表情が嫌悪に塗り替えられた。
「もう、嫌な風ね!」
 ナナは両手を擦り合わせ、はあと息を吹きかけた。揺れる吐息は雪にも増して白い。
「確かに冷たい世界だが、舞い落ちる雪の美しさはどうだろう。白き輝きは宝石にも負けぬ輝きを放っているではないか。そこで雪原と僕を称えるポエムを詠むとすると……」
「そんでルビス様の聖堂ってのは何処にあるんだ?」
 意気揚々と吟じ始めたコナンを、アレンが全く悪気なく遮る。
 コナンの刺すような視線に気づくことなく、アレンはさくさくと小高い丘に登った。遙か彼方に剣先の如く鋭い山脈が聳える他、これといって目につくものはない。足跡一つ刻まれぬ雪原が延々と広がり、吹き上げられた六花がそこここで寂しげに渦を巻くのみだ。
「見事な雪景色だな」
 アレンに肩を並べたコナンが、つと視線を落として眉を潜めた。傍らからひょっこり顔を覗かせたナナが尋ねる。
「どうかした?」
「……」
 コナンが無言で差し出した掌では、コンパスの針が独りでに回っていた。何者かの悪意に惑わされてでもいるかのように、時折止まって震えては又めちゃくちゃな方角を指し示す。薄ら寒くなるような光景だった。
「磁場がめちゃくちゃだな。大地そのものが狂っている」
「……大地が狂う?」
「大地だけじゃないけどね。アレンは感じない?」
 アレンの問いを引き取って、ナナが肩を竦めた。
「ここに吹いてる風は普通じゃない。あいつ等が……アトラス達が魔力を乗せた風よ。風は雲を呼んで、雪を降らせて、大地を凍らせてる。邪神の力に抑えられて、全てが思うように動けなくなってるって感じかな」
「……」
 アレンは改めて周囲を見渡した。
 木々は葉をつけたまま凍り、滝は氷柱と化して佇んでいる。大地は間断なく分厚い氷に覆われ、空は渦巻く雲に覆われて鉛色に濁っている。それらが描く光景は侘しく寂しげで、力尽くで捻じ曲げられた世界の悲鳴が聞こえてくるかのようだ。
「こんなとこじゃ何も住めないね」
「精霊神ルビス様が復活されれば大地もきっと大地も蘇る」
 元気付けるよう、コナンがナナの肩に手を置いた。ナナが頷くのを確認してから、芝居めいた仕草でつと空を見上げる。
「もうすぐ精霊神ルビス様にお会い出来ると思うと、詩の百編でも吟じられそうな勢いで心が躍る。世界のナイトたるこの僕が麗しき精霊神をお助けする……なんと感動的な光景か。一瞬の邂逅はこの世で最も美しい伝説となるだろう」
「……けどさあ」
 妄想など興味なしと耳を穿りながら、アレンは今更ながらの懸念に眉を寄せた。
「紋章を持ってる実感って全然ねぇよな。俺ら、ホントにルビス様に会えんのかな」
 精霊神ルビスの紋章は彼らの存在に馴染み、命に同化している。視認出来ぬ故に滲み出す不安だった。
「根拠のない自信に満ち溢れる君らしからぬ懸念だな。そのような心配は無用だ」
「……お前こそ自信たっぷりに言うのな」
「君は体を動かしていればいい。無駄に頭を使って知恵熱でも出されたら困る」
 取りつく島もない言い様にアレンはむっとした。コナンの鼻先にびしりと指を突きつけて威嚇する。
「だったらその自信の根拠を四百字以内で説明しやがれってんだ」
「四百字……何時かの仕返しか。まあいいだろう」
 コナンは半眼になり、小さく咳払いをし、一息で長台詞を吐き出した。
「話は少々ずれるが君はヤマタノオロチについて聞いたことがあるだろうかそうその昔僕達のご先祖様である勇者ロトが戦ったといわれる八つ頭の蛇のことだ僕は昔からこの話を聞くたびに不思議に思っていたことがある八つの首を持つならその股は七つであるはずなのに何故ナナマタノオロチではなくヤマタノオロチと呼ばれるのだろうとねそこで聡明且つ知的好奇心旺盛な少年だった僕は書庫に篭りそれについてじっくりと調べてみたその結果分かったことはヤマタのマタは股ではなく俣つまり八つに分かれたものという意味であるということだったなるほどと納得すると同時に紛らわしいネーミングはあまり美しくないと当時の僕は感じたものだこの場合初めからハチガシラオロチとでもしておけば誤解を生むこともなかったろうにとさてここから本題だ僕が精霊神ルビス様にお会い出来ると言い切る根拠はこの僕がそう信じているからだ信じる心は何にもまして清く正しく美しい」
 アレンは指を突きつけた体勢のまま、瞬きも忘れて硬直する。淀みなく流れ出た台詞の半分も理解できなかったが、それを認めるにはあまりに悔しい状況だった。
「分かってもらえただろうか?」
「……し、仕方ねぇな。そういうことなら納得してやる」
「それは良かった」
 たらたらと汗を流すアレンに、コナンが鷹揚に頷いた。


 踏み出す都度、靴底の雪がきゅっと軋んだ音を立てる。
 雪原を滑る風は少しずつ、だが確実に彼らの体温を奪っていく。分厚い皮の手袋も丈夫なブーツも寒風を防ぎきれぬようで、まず手足が冷たくなった。指先から侵入した冷気は毛細血管に染み入り、血流に乗って体内に広がっていく。
「ぅえっくしょんっ」
 アレンが派手なくしゃみを放ち、ずっと鼻を啜った。
「めちゃくちゃ寒いなぁ、ここ」
 運動が生み出す熱より外気が攫っていくそれの方が明らかに大きい。これだけ歩けば汗の一つも掻きそうなものだが、以前として体は冷えたままである。
「おいナナ、ルビス様の聖堂ってまだなのか?」
「もう少しだとは思うんだけど」
 アレンに数歩遅れるナナが息を切らせつつ答える。
 ナナの中にはルビスの巫女から受け継いだ記憶が眠っている。聖堂の正しい位置も把握出来ているはずなのだが、変わり果てた聖地の雪景色が彼女を混乱させているらしい。北を指し示す彼女の仕草は、らしくもなく弱気だ。
「きゃっ」
 一際強い風が三人の間を通り抜け、天に上った。攪拌された雲が渦を巻き、大量の雪を生み出す。あれよあれよと言う間に、雪礫を孕んだ烈風がごうごうと音を立てて吹き荒れ始めた。
 半刻も経過した頃、雪原には三つの雪だるまが佇んでいた。円陣を組む雪だるま達は、横殴りに吹きつける雪のせいでどんどんと体積を増していく。
「さ、寒い……」
 一番大きな雪だるまがかちかちと歯を鳴らす。
「あたし達、このままじゃ結構まずいんじゃ……」
 二回り小さい雪だるまが緊張を帯びた声で呟く。
「ロトの末裔、最終決戦を目の前にして凍死、か。伝説の幕切れとしてあまりに情けなく、不本意極まりない」
 中間の大きさの雪だるまが歯噛みする。
「今更ながら重装備で臨むべきだった。山を舐めるなとの先人の教えを軽んじたのはうかつだ」
「ペルポイでミンクのコート買ってって言ったのに、コナンってば光の剣に夢中で全っ然聞いてくれないし」
「過ぎたことは忘れたまえ。僕達は未来に向かって進まなければならぬのだから」
 何時ものように前髪を払うコナンだが、凍りついたそれは微動だにしない。
「……」
 ナナは目を顰めて周囲を見渡した。せめて風をやり過ごす岩陰でもあればどうにかなる。
 しかし右を見ても左を見ても、視界に飛び込んでくるのは雪礫ばかり。降り積もる雪のみならず、地表に積もっていたそれまでもが吹き上げられて宙を舞い、三人の周囲を厚い壁となって覆っている。風が止まぬ限り状況は絶望的だ。
「……あ」
 吹雪の中に揺れる灯りを見たような気がして、ナナは思わず声を上げた。手庇を翳して雪を払い、もう一度その方向に目を凝らす。
「ねえ! あそこに明かりがついてる!」
 アレンとコナンにも微かな瞬きは視認出来た。吹き荒れる雪壁の向こうに揺らめく光は、まさに希望の灯だ。
「あそこがルビス様の聖堂か?」
「多分そう。良かったぁ、方角合ってて」
「んじゃさっさと行くぞ、このままじゃ凍死しちまう」
 あそこまで行けば吹雪を凌ぐことが出来る。俄然やる気を出した雪だるま達は、再び黙々と歩き出した。