氷雪の彼方と大地の女神<2>


 やがて吹雪の向こうに、ぼんやりと建造物の影が浮かび上がってきた。
「城……いや、教会か?」
 それは恐ろしく巨大で、恐ろしく美しい建物だった。分厚い城壁に守られた神の住処は染み一つない白亜の大理石で作られ、雪にも負けぬ輝きを誇る。十字を頂いた三本の尖塔は矛先の如く閃き、悪しき神々を威嚇するかのよう。悪意を孕んだ風雪が絶え間なく吹きつけているにもかかわらず、至るところに施された細かな彫刻にさえ破損の形跡は見られない。邪神に汚されたこの大地で、精霊神の象徴は些かの気後れも見せず毅然と佇んでいるのだ。
 三人は誰からともなく足を止め、神の建物を見上げた。
「あそこからルビス様の聖堂に行けるの」
 まだそこまで随分な距離があるにもかかわらず、温もりを帯びた慈愛が三人を包み込む。魔力の類には鈍感なアレンでさえ、神の息吹を感じて安堵を覚えた程だ。
「もう一踏ん張りだな」
 体力気力共にそろそろ限界だ。安息地を求めて鉛のように重たい一歩を踏み出した時、凄まじい殺気が項を焼いた。
 アレンは体を倒すようにして横に飛んだ。ブーツの先端を掠めた巨大な拳が、轟音と共に大地を抉る。硬い積雪が曇天にまで吹き上げた。
 舌打ちしながら稲妻の剣を抜く。腰を低く落として身構えながら、アレンは突如現れた魔物を睨み上げた。
「……何だこのでっけぇの」
「巨人族……サイクロプスだ」
 仰ぎ見るような高さから、黄色く濁った瞳がぎろりとちっぽけな人間達を見下ろす。
 青銀の肌はつやつやと金属の輝きを帯び、そこらの武器では傷をつけることも出来まい。巌のような筋肉は隆々と盛り上がり、そこから生み出される破壊力の凄まじさは想像に難くない。事実サイクロプスが拳を打ちつけた雪原には、アレンでもすっぽり埋もれそうな穴が穿たれている。
 サイクロプスの他には人型をした青い炎が三匹と、銀色の猿が一匹。総勢五匹の魔物がぐるりと周囲を囲んでいる。
「サイクロプス、ブリザート、シルバーデビルか。厳しいな」
 コナンが右手に剣を、左手にベギラマを宿らせながら唸った。寒さに強張った体、そこここで痛む傷、尽きかけている体力と魔力。未知の敵と戦うのに当たって、彼らのコンディションは最悪だ。
「逃げられないかな?」
 教会には強い結界が張られているようだから、敷地内に逃げ込めば魔物は追って来られまい。ナナに倣ってそこまでの距離を目測し、アレンは顔を顰めた。
「ちょっと厳しくね?」
 一息に走るには目的地まで距離がありすぎた。加えてこの足元の悪さでは途中で追いつかれてしまう可能性の方が高い。
「殺られる前に殺れということだ」
「そっか。そうね。それじゃ……イオナズン!」
 ナナの放ったイオナズンがサイクロプスの胸を直撃した。血液が雨の如く降り注ぐ中、ブリザートの一体が不吉な輝きを帯びる。嘗て邪教の神官だったもの……炎の亡霊となって蘇った魔物には、死の魔術を繰ることが出来るのだ。
 ザラキの波動を感じたコナンがブリザートを振り返る。薄い唇には、すぐさま勝ち誇った微笑みが浮かんだ。
「遅い」
 コナンに宿る存在は術の完成に時間を必要としない。呼吸のようにごく滑らかに、その唇から最期を告げる言葉が零れる。
「ザラキ」
 二匹は仕留めたが、一匹はザラキを振り払った。こうっ、と奇妙に喉を唸らせ、仇討ちとばかりに生き残りが吹雪を吐き出す。ただの雪礫ではない、魔力の結晶が肌を突き破り、神経まで損傷させる厄介な代物だ。
「ベギラマ!」
 寸でところで張った炎が氷片を飲み込んだ。タイミングを合わせて飛び出したアレンが、戸惑うブリザートを深々と抉る。刺し貫いたまま発動させた風が、肉体を粉々に噛み砕いた。
 背後から飛びかかってきたシルバーデビルの肩に、アレンは振り向き様刃を叩き込んだ。腕をもがれて吹っ飛ぶ魔物を、間髪入れず黒い光が包み込む。一瞬の沈黙を置いて、存在を食い散らかしたザラキの光が花火のように散った。
「あと一匹!」
 サイクロプスを始末せんと反転したアレンの耳朶を、ばきん、と奇妙な音が打つ。
「ばきん?」
 得体の知れないものが空から降ってきて、アレンは慌ててその場から飛びのいた。新雪に足を取られて仰向けに引っ繰り返る。
 ばさばさと音を立てて、立ち枯れの大木が天を貫く。胸元からしとどと血を流しながら、サイクロプスが引き抜いた大木を振りかざしたのだ。
「こいつ!」
 舌打ちと共に突っ込むものの凍った枝に行く手を阻まれる。箒に掃われる塵よろしく飛ばされ、アレンは頭から雪中に減り込んだ。
「考えなしに突っ込むからそうなる」
 コナンの氷の眼差しを浴びながら、アレンはむくりと体を起こす。
「近づかなくちゃ切れねーだろ!」
「近づくにも方法というものがあるだろう。真っ直ぐにしか走れない猪か君は」
「馬鹿にすんな、俺は走ってる途中でちゃんと曲がれるもんね!」
「もー! この忙しい時に喧嘩しないでよ!」
 ナナが放ったイオナズンが、サイクロプスの大木を弾き飛ばす。サイクロプスは手に残った破片を投げ捨てると、再び新たなる得物を手にした。凍れる木を武器とするなら代替は幾らでもある。
「きりないわよこんなの」
「コナン、お前偉そうにふんぞり返ってないでどうにかしろよ!」
「よろしい、どうにかしよう」
 無表情のまま頷くと、コナンはふいと体を沈め、掌を凍りついた大地に押しつけた。ありったけの魔力を掌に留め、それを全て火の精霊に呼応させる。
「ベギラマ!」
 大地に潜り込んだ熱が堆積していた雪を一瞬にして蒸発させた。轟音と共に水蒸気が立ち上り、白い壁となってサイクロプスを包み込む。奇妙な水の感触に右往左往するサイクロプスの姿が、影絵の如く浮かんだ。
「どうにかした。あとは君の仕事だ」
「おっしゃ!」
 霧中に突っ込むと同時に跳躍し、全体重を乗せた一撃でサイクロプスの左腕を肩からを切断する。絶叫を上げる魔物の胸に二度目のイオナズンが炸裂し、とうとう向こうの景色が覗ける程の巨大な穴が穿たれた。
「よっし!」
 絶対的な勝利を確信して気を緩めたため、思わぬサイクロプスの動きに誰もが出遅れた。
 ぐらりと傾ぐサイクロプスの一眼が命の輝きを帯びた。残された掌が拳を作り、渾身の力で振り上げられる。呆気に取られて立ち尽くすナナの上に濃い死の影が落ちた。


 ナナは反射的に目を瞑って身構えた。
 だが数秒経っても彼女の自我は保たれたまま、痛みも衝撃も襲ってこない。はっと顔を上げたナナの頭上では、拳が不自然な位置で止まっていた。
 ナナとサイクロプスの合間に滑り込んだアレンが、素手で巨大な拳を支えていた。さしもの彼も耐えかねる重量のようで、体の骨と言う骨、関節という関節が悲鳴を上げている。さしものアレンでも、この一撃を生身で阻止出来たのは奇跡のようなものだった。
 受け止めた際の衝撃で手袋はおろか掌の皮まで裂けたようだ。流れる血で青い衣がみるみる変色していく。
「はや、く」
 どけろ、という言葉は、苦痛の呻きに紛れて聞こえない。
 我に返ったナナがアレンの肩越しに杖を突き出した。このままの状況ではナナは逃げ果せても、余力のないアレンが押し潰されてしまう。詠唱を紡ぐ時間が何時もの何倍にも感じられてもどかしい。
「イオ……」
 最後の発動詞にこぎつけた瞬間、突如の眩暈に目の前が真っ白くなった。限界を感じた肉体が魔力還元を拒否し、警告を促したのだ。洞窟を抜け、雪原を渡ってきた彼女には、もうこれっぽっちの余裕も残されていなかった。
 霞む視界の中、アレンの血の赤さだけが妙に鮮やかだ。ぐらぐらする頭を抱えて二度目の詠唱を強行するナナの頭上を、一筋の銀光が通り過ぎたのはその時だった。
「え?」
 鈍い音を立てて、それはサイクロプスの一つ目を抉った。間髪入れず、立て続けに空を渡った光が魔物に突き刺さる。全身のあちこちから血を吹き出しながら、今度こそサイクロプスの体はどうと大地に沈み込んだ。
「何……?」
 呆気に取られたまま、ナナは光が降り注いできた方角を振り返った。
 教会を取り巻く外壁にほっそりした人影が幾つも並んでいた。いずれも色の淡い髪を冷風に靡かせ、皮の防寒具を纏い、銀色に光る弓を番えている。彼らが人でないことを示すよう、その背からは陽光を思わせる透き通った翅が生えていた。
「あれは……」
「妖精族か?」
 それは精霊神ルビスの眷属。女神に従い、ロンダルキアの大地に古くから住むという妖精族に他ならない。