氷雪の彼方と大地の女神<3>


 精霊神ルビスの砦を守る城壁には、四つ角に円筒形の見張櫓が聳えている。教会の品位を損なわぬよう頑強ながら優美な形をしているが、そこここに無造作に設置された石像の存在が、装飾にしては不自然で何処か薄気味悪い。
 双アーチ型の門を潜った瞬間ふっと冷気が和らいだ。外部で猛威を振るう邪神の悪意も聖地を汚すことは出来ぬようだ。悔しげな烈風の唸りが遙か空の高みから聞こえる。
「あの人達が助けてくれたのね」
 入り口からまっすぐに伸びた道の先、教会の前は幾つもの人影があった。老いも若きも男も女も、みな背中に煌く一対の翅を持っている。嘗て勇者ロトが助力を得た精霊神ルビスの僕もまた、背に美しい光を宿していたと言われている。
 人垣の中から一人の男が歩み出た。精霊神ルビスの聖印を刻む法衣を纏っているところからして、この教会の主だろう。数歩遅れて美しいシスターがそれに続く。
「良くぞロンダルキアまでお越しくださいました。五つの紋章が揃う日が来ることを、私達は待ち望んでおりました」
 男は目礼し、背後のシスターに頷いた。促されたシスターは柔らかな微笑みを浮かべたまま、アレンの傷ついた手を取る。
 柔らかな感触にアレンが戸惑う間もなく、光が弾けてぐずぐずに崩れていた皮膚が再生された。精霊神ルビスの慈愛を受けた妖精族は、声を発することもなく神秘の力を発動することが出来るのだ。
「応急処置です。まだ無理はならさぬように」
 アレンが今度こそ真っ赤になるのに微笑んで、男は言葉を続けた。
「私達妖精族は、ルビス様が大地と同化された場所で長年聖堂をお守り申し上げておりました。ですがハーゴンがこの地に現れて以来一人、二人と力尽き……今や残された者が細々と抵抗を続けております」
 アレンの視線がふと幼子と合った。少女は肩を震わせ、母親の背にさっと隠れてしまう。同族の死を目の当たりにしてきた瞳は怯えきっていた。
「数多の同胞は邪神の魔力に凍らされたまま、ルビス様の復活を待ち望んでおります。一族の悲願が果たされる時、彼らの魂も安らぎを得ることでしょう」
「凍らされたって……」
 ナナが城壁を見上げて絶句する。あちこちに点在する氷像は、妖精族の変わり果てた姿なのだ。
「……もっと早くに訪れるべきでした」
「そのお言葉をいただけただけで十分です」
 シスターがコナンの言葉に柔らかな微笑みを浮かべる。彼女が軽く一歩引くのに合わせるよう、妖精族の人垣が左右に割れて道が生じた。
「ここにいらっしゃるまでさぞかし苦労されたでしょう。どうぞお体を暖め、傷の手当を」


 三人が通されたのは、暖炉が赤々と燃える居心地のよい部屋だった。
 床一面に柔らかな獣毛が敷き詰められ、壁を取り囲むレンガが、暖炉からの熱を伝えてペチカの役割を果たしているようだ。窓は三重にガラスが重ねられ、外からの冷気を完全に遮断している。
 血と汗を流し、汚れた服を着替え、暖炉の前に座るとようやく人心地ついた。
「アレン、手を見せて」
 ナナはアレンの手を取り、妖精族が調合した薬草を塗った。血が通うように、指先にじわじわと温もりが広がっていく。
「ルビス様の聖堂は明日案内してくださるそうだ」
 二つのコップを手にコナンがやってきた。湯気を立ち上らせるそれが二人の前に差し出される。
 アレンは傷が癒えたばかりの手でそれを受け取った。ふうふうと息を吹きかける間ももどかしく温かいミルクを啜る。冷え切った臓腑に仄かな甘さと温もりがじわじわと染みた。
「今から行ってもいいんじゃね?」
「今日は無理よ。アレンの手、まだ完全じゃないもん。明日になったらもう一回か二回、回復魔術をかけないと」
「今夜はゆっくりと休もう。君の手のこともさることながら、僕とナナの魔力ももう限界だ」
 三人は暖炉の前に座り、飲み物を啜りながらしばし炎が揺れる様を眺めた。赤に、橙に、金色に煌きながら伸び縮みする炎を眺めていると、心がここではない場所へ飛んで生きそうな錯覚に陥る。肉体と魂が分裂するような奇妙な錯覚だった。
「あたし達、とうとうロンダルキアに来たのね」
 ナナがカップを両手で包み込んだ。
「何だかいろんなこと思い出しちゃった。ムーンペタを出て、砂漠を越えて、ルプガナに着いて。ラダトームに行って、竜王に会って、それから紋章探しが始まったのよね」
 そうして改めて振り返ると、なんとたくさんの場所を訪れて、なんとたくさんの人々と知り合ったことか。これから先の人生でこれ程たくさんの出会いと別れが繰り返されることはないだろう。
「ローレシア出て二年かあ。あんま実感ねぇけど、もうそんなに経つんだな」
「二年か。人が成長するには十分な時間だな」
「んだよ、俺が成長してねぇっていいたいのかよ」
「そのような意図はない。もしそう聞こえたのなら、それは受け止める側の問題だ」
 澄ました顔でコナンが傾けるカップの中身はコーヒーだ。アレンはミルク、ナナはココア。それぞれの好みに応じるコナンの母親スキルも格段の成長を遂げている。
「コナンは自分が成長したって自覚があるの?」
 コナンはふっと前髪を払う。旅立った頃から全く変わらぬその仕草は、生まれ持った彼の本質なのだろう。
「サマルトリアに帰る気になっただけでも、僕にとっては大いなる変化だな……それを成長と呼ぶかどうかはともかくね」
「帰らない気だったのかよ?」
 アレンは目をぱちくりさせた。帰らぬ覚悟での出奔となれば、お気楽気分で家出してきたアレンとは深刻度が違う。
「帰る必要がないと感じていた。僕がいなくなったところで、王位継承者にはニーナがいるから特に問題はない。伯父上の問題が片付いた後、そのまま旅に出るのも悪くはないと思っていた」
「今は違うの?」
「旅を終えた僕の目線で、もう一度サマルトリアを見てみたい。その後の生き方はそれから決めても遅くないだろう」
 こんなにも素直に心境を語るコナンを見るのは初めてかもしれない。彼の表情はさっぱりとしていて一点の曇りなく、アレンは何だか安心した。
「あたしは変わったかな。旅に出た時はハーゴンを倒すんだ、ムーンブルクを建て直すんだって、そればっかり考えてた。今でも勿論、それは変わってないけど……」
 ナナが首を傾げると、オレンジ色を映した巻き毛がとろりと揺れた。
「旅が終わった後は、ムーンブルクをそっくり作り直そうと思ってたの。同じところに橋を架けて、同じところに噴水を作って……って。でも今は違う」
 ナナはきょろりと瞳を動かした。竜の力を受け継ぐ瞳は、燃え盛る炎に似た鮮やかな赤だ。
「あたしは新しいムーンブルクを作るんだ。ベラヌールみたいな運河を引けば荷物の運搬に便利だし、ペルポイみたいな地下を構えればいざって時に避難出来るでしょ。いろんな国でいろんな知恵を見たんだもん、活用しない手はないと思うの」
 ナナが父の国の再生に拘ったのは退行の一種だったのかもしれない。思い出を再現させて、その中でまどろんでいたいという願望が彼女にそんな夢を描かせたのだ。
 だが今の彼女は違う。思い出に区切りをつけて、前進する力を手に入れた。新しいムーンブルクは新しい女王の統治下で、これまでとは違った発展を遂げることだろう。
「アレンは自分が変わったと思う?」
「え、俺?」
 唐突に話題の矛先を向けられて、アレンはきょとんと瞬きをした。
「ええっと……」
 腕を組み、天井を見上げ、二年前の自分を思い出してみる。十六歳の自分は茫漠たる時の向こうにおぼろげに霞んで見えた。
「俺、どっか変わったか?」
「良く食べ良く眠り良く動くのは前と同じだ」
「人の話聞かないのも変わらないよね」
「行動がサルめいているのも変化はない」
「お前ら喧嘩売ってんのかよ」
 アレンが憮然と唇を尖らせた時、戸板のない入り口にシスターが姿を見せた。末裔達の顔を見回して微笑みを浮かべる。
「夕飯の支度が整いましたのでどうぞ」
「やった、飯だってよっ」
 それまでの会話などさっぱり忘れ、アレンは喜び勇んでシスターの後についていく。何時もと変わらぬ風景にコナンは肩を竦め、ナナは苦笑いしてから立ち上がり、アレンの後を追った。