隔離されたロンダルキアで朝日を浴びることは適わない。不吉な暗雲が陽光を遮断してしまうため、そこは何時でも寒々とした暗がりに包まれている。陰気な闇と冷気の中での目覚めは、決して爽やかなものではなかった。 シスターの先導によって回廊を歩く合間にも、染み入る冷気のせいで末裔達の手足は悴んだ。妖精族から借りた厚手の防寒具でも防ぎ切れぬ程、聖地を侵略する寒波は凄まじい。恐らくそう遠からぬうちに、三柱神の魔力は聖地の全てを凍らせてしまうだろう。彼らに残された時間はそう長くない。 「この先にルビス様がいらっしゃいます」 シスターが指し示したのは緩やかに渦を巻く旅の扉だった。海と空を混ぜ合わせたような青色が鮮やかに眩しい。 「この扉の先に広がる時流がルビス様をお守りする最後の門番。悪意ある者が飛び込めば、時の狭間に放り出され永久をさまようと言われております」 「……」 三人は顔を見合わせた。誓って精霊神ルビスへの悪意などないが、確実に時流に認められる保障には繋がらない。何かの弾みで狭間に追いやられる可能性を否定しきれないのが現状だ。 「けど行かなくちゃどーしょもなんねーし」 「このまますごすご引き下がったところで僕達に未来はない」 「大丈夫、ルビス様は絶対あたし達を受け入れてくださるわ」 末裔達の言葉にシスターは微笑み、半歩引いて道を譲る。アレンは神秘なる光の渦に歩み寄った。 「時流はあなた達のこれまでの行いを全て探ります。ですが疚しいことがなければ恐れる必要はありませんよ」 「はい」 腹は決まっている。迷いは何もない。踏み出すことに躊躇いは感じなかった。 真っ青に染まった視界は、次の瞬間漆黒に塗り替えられた。暗闇にちかちかと光の瞬く様が星空のようだと思った瞬間、アレンは抗い難い力によって粉々に粉砕されるのを感じた。砕けた体は光の粒子となって集結し、球体を形成し、彗星の如く尾を引きながら闇を走り始める。 (……何だこれ?) 声は出ないが意識ははっきりとしていた。戸惑いはあるが恐怖は感じなかった。何かに導かれるような気がして、アレンは一心に闇を貫き続ける。 一体どれ程の距離を走破したのか。柔らかな女の声が静寂を破るのには、何の前触れもなかった。 「ご覧になってあなた、アレンが笑っていますの」 信じがたい思いで視線を向けた先には、幼い頃に他界した母の姿があった。天蓋のついた揺籃を覗き込みながら、まだ二十を超えて間もないだろう父と微笑み合っている。 「笑うとあなたにそっくり」 「それはいいな、俺に似て強くて逞しい子になるぞ」 「……女性好きなところは似て欲しくありませんわ」 慌てふためく父を母が笑いながら見守る光景は、あっと言う間に後方に流れて見えなくなった。アレンの動揺などお構いなしと言った風情で、新たなる光景が彼の周囲に展開される。 「竪琴さんは勇者ロトと会ったことがあるんですよね? ロトってどんな人なんですか?」 ぶかぶかの鎧を纏った少年が切り株に腰掛け、膝に乗せた銀色の竪琴に話しかけている。ややあって竪琴の弦がひとりでに震えた。 「どんなって……何処にでもいるような普通の小僧だよ。特に強そうでもねーし、特に頭良さそうでもねーし。仲間のねーちゃん達の尻に敷かれっぱなしだったな」 「でも大魔王ゾーマを倒したんですよね、凄いなぁ、憧れます!」 興奮して空を仰いだ拍子に、大き過ぎる兜がずるりとずれた。憧憬に頬を紅潮させる姿は、立派な鎧にそぐわぬ程幼い。 (曽祖父ちゃんだ……) 「僕も勇者ロトみたいな強い戦士になりたいんです」 「そうだなあ。早く強くなってお姫様を助けてやんな」 「はい!」 少年が握り拳を固めると同時、ふっと曽祖父の姿が掻き消えた。陽光さんざめく爽やかな森の光景が一変、おどろおどろしい闇に塗り替えられる。 たいまつの炎が揺らめく中、四人の若者が身構えていた。一人は剣を携えた女戦士、一人は杖を構えた女魔法使い、一人は見覚えのある女僧侶。 (魔女さん?) 三人を背後に従える形で、青く輝く鎧に身を包んだ少年が立っていた。兜の影が落ちて顔の造作まで読み取れないが、鋭く閃く双眸はアレンのそれと同じ色をしている。 ゆらりと、彼らが見据える先で闇が笑った。人間の小ささを哀れむかのように、ぬっと両腕が突き出された。偽りの優しさに満ちた抱擁が齎すものは、救われぬことのない死だ。 「小さき人間よ。何ゆえもがき、生きるのか?」 甘く優しい声に、周囲のたいまつが一斉に震え上がった。 「滅びこそ我が喜び。死にゆく者こそ美しい」 一歩、一歩、闇の中からそれが進み出てくる。禍々しき闇の衣を、自らが発する魔力の波動に翩翻と翻しながら、それは雷鳴に似た笑い声を響かせた。 「さあ、我が腕の中で息絶えるがいい!」 はっと我に返った時、アレンは二本の足でしっかりと床を踏み閉めていた。 夢から覚めた気分で周囲を見渡せば、コナンとナナの姿がある。どちらも心なしか顔が青白い。 「……何だよ今の?」 「シスターは時流を渡ると言っていた。恐らくあれらは全て過去の出来事だ」 「あたし、ローラ姫を見た。あとあたしとおんなじ赤い目をした、黒い髪の女の子。あの子は誰なのかな……」 「恐らく僕達に連なる人々なのだろうな」 旅の扉を潜り抜けた三人が佇むのは、四方を青い壁に囲まれた小部屋だった。。半透明の床の隅には階下へ下る階段がある。 「わ、これ水だ」 好奇心旺盛なアレンはうきうきと壁に触れ、指先から伝わる感触に歓声を上げた。水は流れることもなく滴ることもなく、一枚の壁となって周囲を取り囲んでいる。凍っているわけでもないようで、触れればその指先は沈み、柔らかな波紋が壁の際にまで伝わった。 「不思議な神殿ね。光が差し込んできてとってもきれい」 水壁を通して注ぐ光がゆらゆらと三人の髪や頬に落ちかかる。母の手の感触にも似た優しい陽光だった。 「階段も水で出来ているのか」 「沈んじゃっても大丈夫かな?」 「おもしれー」 時流を渡った衝撃も何処へやら、アレンは大喜びで階段に足をかけた。水はしっかりとアレンの体重を支え、砕けたり散ったりする気配はないようだ。足先から淡い波紋が広がり、それがゆらゆら揺らめきながら壁、天井へと伝って光の漣を描いていく。 階下には似たようなフロアがあり、そのまた下にも同じ作りの部屋が広がる。無言で七つの階段を下った結果、彼らはそれまでとは違った様相の部屋に出た。 一歩踏み入った途端、三人の鼻先を大地の匂いが掠めた。水に上下四方を囲まれた部屋であるにもかかわらず、そこは花と木と緑の香りに満ちているのだ。 「木が生えてる」 アレンが部屋の中心に聳える大木を指差した。 幹も枝も葉もたわわに実る果実までもが、透き通ったクリスタルのようなもので出来ていた。一見精巧な作り物のようだが、吹き抜ける微風に枝が揺らぐ様は生きた樹のそれなのだ。 ナナが室内をきょろきょろと見回した後、改めて大木を見上げた。 「きれいな樹」 「僕の溢れんばかりの文学的才能を駆使しても、この木の美しさを湛えるポエムを生み出すことは不可能だな」 「凄ぇなぁ」 恐れ知らずのアレンが早速幹に触れた。 するとアレンの指先から赤色、青色、銀色、金色、そして桃色の光が迸って幹の中に散じた。五つの光の玉が透明な幹の中で踊るように飛び交う。 「あの光ってもしかして……」 「紋章に違いない。僕達も触ってみよう」 「うん」 コナンとナナが歩み出し、アレンと同じように幹に掌を押しつけた。二人の指先から流れ出た五色の光がやはり幹に吸い込まれていく。 ざわり、と梢が歓喜の声を上げた。 次の瞬間幹が幹の色に、葉が葉の色に、果実が果実の色に染まった。鮮やかな色を取り戻して堂々と聳える大木は、嘗て見上げた世界樹を髣髴とさせるような神秘的な佇まいだ。 「……あ」 幹に触れたままの掌から、何かがアレンの体内に流れ込んできた。優しく柔らかく、それでいて逆らえない命の波動がアレンの中をいっぱいに満たしていく。一瞬視界がぐにゃりと歪み、頭がくらくらとした。 「……どうしたの、アレン。大丈夫?」 「何か眩暈がした……」 慣れぬ感覚にアレンが額を押さえる。反射的にへの字に結んだ口が勝手に開き、小鳥のような美声を紡いだのは次の瞬間のことだった。 「よくぞここまで辿り着きました。ロトの血を引く子らの訪れを、わたくしは心より歓迎します」 ぎょっと目を見張るコナンとナナだが、一番驚いたのはアレンである。何しろ自分の意思に逆らって、肉体が勝手に動くのだ。 「ル……ルビス様ですか……」 青ざめるコナンにアレンがにっこりと頷く。やんちゃ坊主そのものの顔に浮かぶ上品な笑みがあまりにも似合わない。コナンとナナはその場に卒倒しそうになった。 「な、何勝手に人の体使ってんだ! 幾ら神様でもやっていいことと悪いこと……!」 激昂した傍から太い眉が悲しげに歪む。おずおずと開く唇から消え入りそうな声が漏れた。 「……ごめんなさい。少しの間だけ、あなたの肉体を借りることを許して下さい。わたくしの肉体を作るのが一番なのだと思うのだけれど、邪神に汚されたこの地では、わたしは意識を保つだけで精一杯なのです」 アレンが胸の前で両手を組み合わせてしょんぼりと項垂れる。ゆるゆると首を振りながら、ナナが心底嫌そうに数歩後ろに下がった。 「すっごく気持ち悪いわアレン……いっちゃってる人みたい……」 「俺だって好きでやってんじゃねーよっ」 「ルビス様!」 コナンが滝のように涙を流して訴えた。 「何故ナナ……もしくは僕に乗り移って下さらないのですか! そうすればせっかくのルビスさまとの美しき邂逅が、こんな気持ちの悪い思い出になることはなかったのです!」 「どういう意味だよっ!」 「あなた達は魔力反発が大きいし、精神構造が複雑だから無理に入り込むと心が壊れてしまうかもしれないの。その点……」 「アレンは中身が単純だから入りやすかったんですね」 「まあ」 ルビスはナナを咎めるように緩く頭を振ったが、決して否定しなかった。 体が勝手に動いてコナンとナナに向かい合う。アレンは必死に抗おうとするが、魂の力は圧倒的に精霊神が上で逆らえない。 はんなりと微笑むアレンから、コナンとナナが微妙に視線を逸らす。何も悪いことをしていないのに何故このような仕打ちを受けるのかと、アレンはちょっぴり悲しくなった。 |