偽りの故郷と伝説の少年<1>


 末裔達が精霊神の守りを得た翌日、ロンダルキアを覆っていた不吉な雲は一掃されていた。空は無限に澄み渡り、この隔離された地も確かに世界の一部であると実感することが出来る。
 陽光が降り注ぐのは実にハーゴンが現れた日以来のことであるという。人々は空を仰ぎ、手を広げ、体全体で優しい天の温もりを受け止めていた。
「まだ弱弱しくとも、精霊神ルビス様のお力を感じます。何とお礼を申し上げればよいのか……」
 シスターが潤んだ瞳を末裔達に向ける。素早く一歩進み出たコナンが、その澄んだ眼差しを独り占めした。
「お礼を言われるのはまだ早いでは? 僕達はこれから陽光以上のものを取り戻しに行くのですから」
「破壊神の加護を得たハーゴンは恐るべき存在です。どうか十分にお気をつけて」
「あなたがもう一度その微笑みを見せてくれるのなら、僕はどんな奇跡を起こすことも出来るでしょう」
 妖精族だろうが人間だろうが、コナンの女性に対する態度は変わらない。この一貫性は大したものだとアレンもナナも思う。
「朝と夕べに、あなたの無事を祈らせて頂きます」
「ありがとう。これで太陽と星を仰ぐ度、僕はあなたを感じることが出来る」
 頬を染めるシスターの影から、幼い少女が末裔達を興味津々と見上げている。恐怖に震えていた彼女の瞳にも、降り注ぐ光のせいばかりではない明るさが戻りつつあるようだ。
「ハーゴンの根城はここから西の山脈を迂回した先にあります。嘗てはただの岩山だったものを、彼は一夜にして城と作り変えました」
 そう語る神父の声は硬く、抑えきれない怒りが滲んでいた。天変地異さながらに聖地が捻じ曲げられた過去は、妖精族にとって恐怖と憎悪の対象だ。
「暗雲を従え、瘴気を纏い、歪んだ尖塔を剣のように天に閃かせるその姿……初めて城を目の当たりにした時、決して相容れぬ命の存在をそこに感じたものです」
「三本の剣が空を突き刺す大地か……聞いていた通りだな」
 コナンの独り言を耳聡くナナが拾う。長い睫が不思議そうに二度上下した。
「聞いたって、誰から?」
「雪原が囁いたんだよ」
 それ以上の追求から逃れるよう、コナンは妖精族に頭を下げて踵を返した。唐突な出立にやや慌てた素振りで、挨拶もそこそこに済ませたナナが続く。二人の足跡を踏み締める形で結界を潜りながら、アレンは今一度妖精族を振り返った。
 シスターの法衣を握り締めた少女と視線が合う。
 希望を託す存在と認識したのか、少女はアレンに向かって小さな手を振る。思いを受け止めた証として、アレンは軽く手を上げて微笑んだ。


 吹雪が止んだとは言え、これまでの積雪が消えてなくなるわけではない。
 妖精族の砦を離れるにつれ雪は深さを増し、遂にはアレンの腰の高さに到達した。全身を使って雪を掻き分けるだけで体力の大部分を削り取られてしまう。体力無尽蔵のアレンでさえ次第に息が上がり、動きが鈍くなっていた。
 永遠に続くかと思われた雪原行軍は唐突に終わりを告げた。緩やかな丘を登った彼らの眼下に巨大な建築物が姿を現したのだ。
「……え?」
 だがそれは神父から聞かされていた光景とかけ離れたもので、三人は思わず足を止める。
 濃紺の尖塔を頂く王城を中心して、強大な城下町が放射状に広がっていた。正門から城に伸びたメインストリートは行き交う人や馬車でごった返し、活気に満ちた喧騒を空に響かせる。商店街や住宅街は昼時の穏やかな賑わいを見せ、未来を担う子供たちが所狭しと駆け回る。荒削りだが力強い、若い王国の姿がそこにあった。
 思いもよらぬ風景にアレンはあんぐりと口を開いた。城を指差して口をぱくぱくさせるものの、なかなか言葉が出てこない。
「ねえ、この城ってひょっとして……」
「ローレシア城……何故ここにローレシア城があるんだ?」
 実際に訪れたことはなくても、コナンとナナはローレシア城を書物や絵画で知っている。何といってもローレシアは彼らの宗家、ロト三国の発祥の地なのだ。
「嘘だろ……」
「アレン」
 青褪めたアレンをナナが気遣う。幾ら馬鹿でサルで能天気なアレンでも、生まれ故郷をこんな状態で見せ付けられた衝撃は大きい。
「家出してる間に引っ越されたら、俺、帰るとこ分かんなくなっちゃうじゃんっ」
「……この状況でアレンが心配するのってそういうことなんだ」
「家出放蕩息子には見切りをつけたんだろう」
「えっ」
 親に反抗して家出しておきながら、いざ見捨てられたとなるとショックを受けるのだから身勝手なものである。
「まあそれは冗談として」
 仰け反るアレンに冷たい一瞥をくれてから、コナンは頤に拳を当てた。
「常識的に考えてこれは幻か精巧な作り物だ。二年にも満たない期間で、ローレシアの町と城が丸ごとロンダルキアに移住するとは考えにくい」
「幻術だとしたら、あたし達の魔力でも弾けないほど強力ってこと? ルビス様にもご助力頂いてるのに……」
「向こう側についているのも神だからね」
 コナンは城を見下ろし、皮肉っぽく眉を持ち上げ、改めて二人の仲間を振り返った。
「さて、どうしますかお二方?」
「行くに決まってんだろ。びっくりさせやがって、ハーゴンがこん中にいるんならぶっ飛ばしてやる」
「あたし、一度お母様の生まれ故郷を見てみたかったの。この旅が終わったらローレシアとサマルトリアをゆっくり見て回ろうと思うけど、取り敢えず今は幻でもいいわ」
 ロトの末裔達は緩やかな丘を下った。聳え立つ外壁に沿ってしばし歩き、開放された街門を潜って町に入る。
 果たして、町の風景はアレンの故郷そのものだった。
 幼友達とかくれんぼした裏地も、競い合って木登りしたリンゴの樹も、城へ続く緩やかな坂道も。頑強な跳ね橋も、軋みながら開いていく城門も、その向こうに聳える王城も、存在する全てがローレシアと同じだった。
 門が開け放たれるや否や、怒涛のように城内の人々が流れ出てきた。圧倒的な人の渦に巻き込まれ、末裔達はなす術もなくもみくちゃにされる。
「よくぞお戻りになられました」
「歓迎の宴の準備は整っております」
「さあ、まずはこちらで宴の身支度を」
 喜びに満ちた台詞がそこここから上がる。息継ぎもなく繰り出される歓声から察するに、彼らは三人の帰還を前以て知っていたようだった。
「本日太陽が中天に達するより早く、王子がお帰りになるとの予言が昨日齎されていたのです」
 兵士らはみな酩酊したように瞳を潤ませ、頬を上気させていた。尋常ではない雰囲気を感じ取り、アレンは意識せずごくりと喉を鳴らす。
「……予言?」
 アレンが眉を潜めて尋ねると、顔馴染みの兵士が得意げに頷く。
「ハーゴン様の予言が絶対の真実を齎すことがまたもや証明されました」
「ハーゴン様がいらっしゃれば怖いものなどありません。未来の全てを見通されるのですから」
「ローレシアはこれまでにない発展を遂げることになるでしょう」
 兵士らは口々に、敵であるはずのハーゴンへの賞賛を口にし始める。悪夢に放り込まれたかのような感覚に、アレンは呆然とするばかりだった。


 アレンを苛立たせたのは、人々が口にするハーゴンの名とそれに付随する熱狂的な陶酔だった。彼らは精霊神ルビスから破壊神シドーに信仰の対象を移し、大神官ハーゴンを現人神のように崇めているのだ。
「どうなってんだよ、これ?」
 喜びに沸く兵士達を振り切り、アレンは共に逃げてきた二人を振り返った。抑え難い感情がふつふつと胸に込み上げる。
「彼らは恐らく真実ではない。幻だ」
「落ち着いて、アレン。ここで焦ったらハーゴンの思うツボよ」
「……ふざけやがって」
 故郷を貶められる怒りをアレンはこの時初めて知った。荒ぶる感情に任せるまま、靴音高く王宮へと足を進める。
 ローレシア城の回廊は庭に面した壁が総ガラス張りになっており、そこから燦々と日光が降り注いでいる。まるで春のように心地よい陽気だ。
 白と黒のマーブル模様が美しい大理石の上を、彼らは無言で歩き続ける。回廊を進むことしばし、アレンがゆるゆると力なく足を止めた。
「……ここ、ホントに幻なのか?」
 彫刻や柱の意匠のみならず、匂いや空気の感触までもが生まれ育った城と同じものなのだ。ハーゴンの魔力の凄まじさは理解しているつもりでも、魔術知識のないアレンにはそのレベルが具体的に把握出来ない。魔術といえどもここまで精巧な風景を作り出すことが可能なのかと、疑問点はどうしてもそこに行き着く。
「先程も言っただろう、この巨大な城と町が二年に満たない期間でローレシア大陸からロンダルキアに移ることは不可能だ」
「けどさ」
「……あたし達がローレシアに飛ばされたって可能性はないのかな」
 きょろきょろと辺りを見回しながらナナが不安げに言う。魔術師たるナナが疑問に思う状況なのだから、アレンが不審に思うのも無理はない。
「じゃあここはやっぱり本物ってことか?」
「それだと僕達をわざわざローレシアに飛ばす理由が分からない。……いや、これが幻だと仮定しても、何故それがローレシアなのかも分からないな」
 コナンが眉間に深い皺を刻んだ。
「サマルトリアでもムーンブルクでもなく、何故ローレシアなんだ?」
 コナンはあれこれ推測を始めるが、結局想像の域を出ないことに気付いたようで溜息をついた。今必要なのは推論ではなく客観的な事実だ。
「とにかくこの城を片端から調べてみよう。罠なら叔父上が何か仕掛けてくるはずだ」
「……」
 アレンは唇をへの字に曲げて頷いた。
「親父に会って話しを聞く」
「異論はない。それが一番手っ取り早い」
「伯父様にお会いするの初めて」
 コナンとナナはアレンに頷き、周囲を伺いながら再び用心深く足を踏み出す。
 二人に続こうとした時、アレンは覚えのある気配を感じて動きを止める。魔物との戦闘に勝る緊張感を覚えながら、恐る恐る後ろを振り返った。