「王子っ」 「なりません、アレン様! 国王陛下はハーゴン様との……」 「どけっ!」 群がる兵士達を押し退けて、アレンは謁見の間に通じる扉を力任せに蹴った。落雷を髣髴とさせる衝撃音が響き渡る。 「親父!」 ゆっくりと開けていく空間に激しい怒号が木霊する。 謁見の間にも変わったところは見られない。垂木からぶら下がる太陽に似せたシャンデリア、整然と聳え立つ巨木のような大理石の柱、色鮮やかなステンドグラスで彩られた丸天井。 扉から真っ直ぐ進んだ位置には王座があり、少し白髪が増えた父が腰掛けている。父王はアレンを認めると、様々な感情を綯い交ぜにして目を細めた。 「ようやく戻ってきたか」 アレンはそれに応えず、抜き身の剣をぶら下げたまま辺りを見回した。即刻叩き切ってやろうと意気込んで来たのに、ハーゴンの姿は何処にも見当たらない。 「親父、ハーゴンの野郎は何処行った?」 「この馬鹿者が、口を慎め!」 ローレシア王は太い眉を吊り上げて息子を一喝する。 「勝手に城を飛び出して二年近くも行方不明になった挙句、やっと戻ったかと思えば挨拶より先にハーゴン様への暴言か。一対誰に似たのやら、情けなくて涙が出る」 久々に耳にする父の説教には、懐かしさよりも先に嫌悪を覚えた。ハーゴンに対する敬称が堪らなく不快だ。 「情けねぇのは俺の方だっての!」 これは幻だ。悪趣味な偽りだ。そう頭では理解していても感情が言うことを聞かない。滾る血の熱がアレンからどんどん冷静さを奪っていく。 「何が大神官様だ! ハーゴンはなぁ、邪神を引っ張り込んでゾーマになるとか抜かしてる野郎だぞ。んな奴と仲良くご歓談なんて気でも狂っちまったのかよ!」 「私は至って正常だ」 アレンの刺すような視線を真っ向から受け止めながら、王は平然と頷いた。 「王たる者は常に国を最優先に考えねばならん。我ら王族は国を守るために生まれ、国を守るために死んでいく。私は国王として、ローレシア存続のためにハーゴン様に従うことを選択したのだ」 すっと背筋に冷たいものが走る。父はハーゴンの所業を全て認めた上で、その教えを受け入れようとしているのだ。剣を閃かせることも矛を掲げることも忘れ、唯々諾々と敵に叩頭しようというのだ。 「あんな奴の下で生きてけるわけ……」 「人は環境に順応できる生き物だ」 王はいきり立つ息子を宥めるかのように、淡々とした口調で続けた。 「時代と共に全てが移り変わるのだ……価値観、常識、正義、道徳。人は時代の波の中でそれを見極め、見極められぬものは波間に消えてゆく。私はローレシアの民が溺死することを望まぬ」 口を開きかけるアレンを、王は目で遮った。これほど冷たく感情のない父の眼差しをアレンは知らない。 「ローレシアはムーンブルクと同じ轍は踏まぬ。国を滅ぼすなど王として最も恥ずかしく愚かなことだ」 「国王陛下!」 それまで無言だったナナが悲鳴に似た声を上げた。 「今のお言葉を取り消されて下さい! わたくしの父は……」 「国を滅ぼした。気の毒だがそれが現実なのだ、ナナ姫」 「……」 末裔達は立ち尽くした。水を浴びせられたかのように、背中は嫌な汗でびっしょりだ。 「親父」 これが現実か幻か、そんなことすら考えられぬ程アレンは混乱する。 アレンは無意識のうちにエドマンドの姿を求めた。親子二代に渡って尽くしてくれた老人の諫言なら、王を聞く耳を持つだろう。彼はアレンにとって祖父のような存在であり、王にとって父にも等しい存在なのだ。 だが常に王座の傍らに控えていた老人の姿はない。ぽっかりと開いた空間を凝視するアレンの思惑に、王は逸早く気づいたようだった。 「エドマンドなら半年前に死んだ」 「え」 後頭部を殴られたような衝撃が走る。口うるさい老人の叱責が、一瞬耳元を掠めたような気がした。 「お前が飛び出して以来、エドマンドは生きる張り合いを失ったように老け込んだ。お前のことばかりを心配しながら、流行風邪をこじらせて逝ってしまった」 「……」 「お前と言う奴は、何処まで不孝者なのだ」 沸騰した体内の熱が急速に冷めていく。一時の怒りが奪い去られると、立っていることすら億劫になる虚無感がアレンを襲った。 圧しかかる絶望に抗いながら、アレンは今一度目の前の父を見つめた。 父は口煩くはあったが、誰よりも強くて誇り高い人物だった。敵に跪くことで国を保持しようなどと考える男ではなかったはずだ。この卑劣な男が父親であるという現実が、ただただ悲しく腹正しい。 いっそ切り捨ててやりたいと沸騰する心とは裏腹に、しかし剣を握ったままの腕は微動だにしない。 一歩踏み出せない理由は明快だ。彼は血を分けた父親だからだ。躊躇なくたった一人の肉親を屠れる程、アレンは強い人間ではない。 どんな人物と成り果てても、培ってきた親子の情はそう簡単に捨てられない。心の何処かでは認識していた繋がり、だが素直に認められなった父子の絆を、アレンはこの時はっきりと認識した。 「さて……」 王は背凭れに体を預け、押し黙った末裔達を順繰りに見回した。 「コナン王子。今宵はローレシアでゆるりと休まれ、明日にでもサマルトリアに発たれるがよい。サマルトリアも先日ハーゴン様の教えを受けたばかり、王子の無事なお姿をご覧になれば、陛下もさぞかし安心されることだろう」 コナンはゆっくりと目を眇めた。薄い唇が微かに開いたが、結局そこから言葉が紡がれることはなかった。 「ナナ姫。ローレシアに縁ある姫を娘として歓迎しよう。ムーンブルク再建にローレシアは尽力を惜しまぬ。ハーゴン様の祈りの下、ムーンブルクは以前にも増して素晴らしい王国として蘇るはずだ」 ナナの瞳は怒りのあまりからからに乾いた。炎に似た双眸を伯父に向けたまま、その体は石像のように硬直している。 「そしてアレン」 鷹を思わせる父の眼差しが真っ直ぐにアレンに向けられた。 「お前の勝手も今日で終わりだ。これからはこのローレシアでより学び、より鍛え、サマルトリアにもムーンブルクにも負けぬ国を作るがいい」 「……」 すっかり大人しくなった息子に、王は満足そうに頷いた。 「お前もそろそろ十八、国王となるまでに体裁を整える必要がある。まずは妻を娶り、子を作れ。ハーゴン様の導きに従いローレシア王家を末永く繁栄させよ」 辺りが唐突に闇に包まれた。はっと振り返った先もまた、光一片見出すことの出来ないぬばたまの闇。果てが知れぬほど深い闇の中から、かつんかつんと甲高い靴音が響いてきた。 小さな顔と、豊かな胸元と、白い二本の腕が浮かび上がった。 微笑みを浮かべて歩いてくるのはアンジェリカだ。その表情はこの上ない喜悦と幸福に輝いているが、瞳はどんよりと濁っていて何処を見ているのか分からない。 先ほどの鎧姿とはうってかわり、彼女は豪奢な花嫁衣裳と長く裾を引くベールを身につけていた。銀の光沢を放つドレス、胸元と耳朶を飾る大きな宝石、結い上げた髪に乗せたティアラ、それらは全て闇に浸したような漆黒だ。 アンジェリカの右手に握られるのは竜の大剣。それは王の最大の守り手の証として、王家の花嫁に受け継がれていく剣だ。 対して左手に握られるのは奇妙な動物を象ったオブジェ。しゃれこうべに巻きついた不気味な彫像からは、時折はらはらと月の色をした光が零れ落ちる。禍々しい波動が陽炎のように揺らめくのがアレンにもはっきりと視認出来た。 「……」 逃げろと喚く本能と裏腹に、肉体は凍りついて動かない。混乱の極みにあるアレンの頬を、一筋の汗が伝い落ちていく。 「アレン様」 アレンの名を呼ぶ声が、妖しく秘めやかに闇に零れる。 アンジェリカは微笑んだまま剣を掲げた。右腕がしなやかに閃き、鮮やかに剣を繰る。 アレンの胸から背にかけて、漆黒の衝撃が走り抜けた。 |