偽りの故郷と伝説の少年<4>


 花の香が鼻腔を掠めるのに気づいて、アレンはゆるゆると目蓋を持ち上げた。
 一つ瞬きをしてから、アレンは視界いっぱいに広がる空の眩しさに顔を顰めた。風渡る空はからりと晴れ渡り、綿雲一つ浮いていない。三柱神の蹂躙など微塵も感じさせぬ美しき青空だった。
「……あ……れ?」
 アレンは起き上がり、きょろきょろと周囲を見渡した。
 白い花畑が見渡す限り延々と広がっている。山も森も大地の起伏さえなく、ただ真っ平らな平原に、可憐な花が咲き乱れてふわふわと風に揺れているのだ。
「……俺、何でこんなとこで寝てんだっけ?」
 呟いた瞬間、アレンは自らの体を抉った刃の感触を思い出した。痛いというよりも熱い衝撃が走り抜けた一瞬後、信じられない程大量の血液が吹き出した。鮮血に染まった奇妙なオブジェがにやりと笑った光景を最後に、記憶はぷっつりと途切れている。
「アンジーの奴、腕上げたなぁ」
 見事な太刀筋を思い返しつつ、アレンは立ち上がった。ぐるりと見渡す視界に人影はない。
「あいつら何処入ったんだろ?」
 アレンは適当に見当をつけた方向へ、コナンとナナを探して歩き始めた。
 進めど進めど変化は起こらず、ただ愛らしい花畑が続く。どんなに歩いても不思議と疲労を感じることはなかったが、単調な風景は飽きが来るものだ。しばし歩を進めた後、アレンは溜息と共に踏み出す足を止めた。
「ロンダルキアの洞窟みたいにぐるぐる回ってんのかな……」
 だとすると独力で脱出するのはほぼ不可能だ。滲んでもいない額の汗を思わず拭ったその瞬間、コナンのものでもナナのものでもない声が背後から響いた。
「あー、いたいた。やっと見つけた」
 やや呆れた表情で駆けてきたのは、輝く頭環を頂いた少年である。
「この状況で歩き回るなんて、君みたいに元気な人も珍しいよ」
 黒髪を逆立てた少年が笑った。太陽の血筋を示す青い瞳をした少年は、今に伝えられる勇者の血筋の始祖だ。
「ロト……」
「ロトって呼ばれるのは擽ったいんだけど……ま、いいか」
 微笑を苦笑に変えて、ロトは改めてアレンの顔を見上げた。
「俺の子孫ってだけで君達には苦労させたね。俺にもっと余力があれば、君達に辛い想いをさせることもなかったんだけど。ザラキを防ぐのにあんなに力を使うとは思ってなかったんだ」
 アレンは首を振った。死してなお世界を守ろうと奮闘する少年を責める気にはならない。
「おまけに三柱神の降臨で、あちこち変な影響が出ててさ。そっちを抑えるのに精いっぱいで、なかなか君達の助けにまで手が回らなかった」
「三柱神ってやっぱ強いか?」
「勿論」
「やつらの親玉も?」
「強いよ。何しろ相手は神様だ」
 アレンは知らず唇を噛み締めた。神の加護を受けたとは言え、所詮は人の子に過ぎぬ身だ。世界に影響を与える神と剣を交えて勝機は見出せるのかと、柄にもなく弱気になってしまう。
「俺も思ったよ。本当に俺なんかが魔王に勝てるのかなって」
 アレンの懸念を読み取ったかのようにロトが頷く。伝説の勇者らしからぬ台詞にアレンは瞠目した。
「お前も不安だったのか?」
「不安だったし怖かった。旅に出る前も出た後も、俺は何時でも迷いっぱなしだった」
「じゃあ何で旅に出たんだよ?」
「そうだなあ。父さんみたいになりたかったとか、約束を守りたかったとか、女の子にもて……とっとっと、何でもない。えーと、とにかく旅立ちの理由ってのは色々あったけど……」
 ロトは、遙か時空の彼方を探るように虚空を仰いだ。
「勇者になるように育てられたからってのが正直なとこかな。俺に期待してくれた人達をがっかりさせたくなかったんだ。けどどう考えても、俺に勇者の適正があったとは思えないな。みんな見る目がなかったんだよ」
 彼は外見のみならず、その思考法も性格もアレンが思い描いていた勇者像とは随分違う。目の前の英雄は、本当に何処にでもいるような平凡な少年だった。
「勇者らしくなくて失望した?」
「いや、んなことねぇけど……」
 アレンは改めてロトを眺め、頤に手を当てて唸った。
「何かお前、凄ぇ普通だな」
「伝説ではかっこいい勇者けど、あれは俺のいい部分を誇張して伝えられてるもの。現役時代の俺より君達の方がよっぽど勇者らしい。だから大丈夫だよ」
 そう頷く少年の顔を見ていると、淡雪が溶けるように不安が払拭されていくのだから不思議なものだ。
 多分彼はこうやって、生きている間にたくさんの人間を勇気付けたのだろう。何の変哲もない少年ががむしゃらに生み出していく一つ一つの結果に、当時の人々は希望を見出した違いない。予想だにしなかった勝利が奇跡と呼ばれ、幾つもの奇跡が結晶化して伝説となったのだ。
「さてと。君には早く元の世界に帰ってもらわなくちゃ。もたもたしてると手遅れになる」
「お前、この幻から抜け出す方法知ってんの?」
 一瞬きょとんとした後、ロトは首を横に振った。
「ここは幻じゃなくて精霊界だよ。死にかけた魂がやってくる、あの世とこの世の境目だ」
「……死にかけた魂?」
 次はアレンがきょとんとする番だ。胸を貫いた刃の冷たさや、飛び散る血の赤さを思い起こすうち、どうにも否定出来ない一つの事実が浮かび上がってくる。
「死にかけたって……俺?」
「大当たり〜」
 ロトは手袋を嵌めた手を大袈裟に打ち鳴らした。冴えない拍手音が神秘の空に吸い込まれていく。
「君は今、大怪我をして生きるか死ぬかの瀬戸際を彷徨ってる。魂は肉体を離れて、どちらの世界を行こうかと漂っている状況なんだ」
「大当たり〜、じゃねぇよ! こんな中途半端なとこで死ねっか! 何とかしろ!」
 アレンは怒りに任せて少年の胸倉を掴み上げる。地面から持ち上げられたロトは暴れるわけでも振り解くわけでもなく、両手を翳してどうどうとアレンを宥めた。
「だから連れ戻しにきたんだ。絶対に君を死なせはしないから、安心していいよ」
「……」
 興奮は一気に沈静し、アレンは気まずい思いでロトから手を外した。ごめんと小さく口で呟くと、ロトは気にするなとひらひら手を振る。何処までも捕らえどころのない少年だ。


「あの、さ」
 しんと落ちた沈黙を破るよう、アレンはロトに尋ねる。心底に沈殿する行き場のない不安が、ぶつぶつ途切れながらも言葉となって落ちた。
「あのローレシアって結局何なんだ? 幻なのか? 現実なのか? 本当のローレシアだとしたら、親父や城の奴らはおかしくなっちまったのか?」
 ロトは真正面からアレンを見据えた。彼の眼差しは大空のように穏やかで、そのくせ何をも見透かしてしまいそうに鋭い。
「それに答える前に聞きたいことがある。君は変わってしまったローレシアを見てどんな気持ちになった?」
「……」
 ローレシアはアレンにとって絶対的な保護者だった。父のように力強くて母のように温かく、アレンがどんなに外でやんちゃをしても、愛情に満ちた小言と共に優しく迎え入れてくれる場所。気が向いた時に戻れば、ローレシアは以前と変わらぬ姿でアレンを包み込んでくれるはずだった。
 だがそれが子供じみた思い込みであったことを、アレンは痛烈に思い知らされた。
 強かった父の変貌。祖父とも慕う老人の死。親しい人々の狂気に満ちた言動……責任を放り出したアレンを迎えたのは、彼の知っているローレシアではなかった。変わり果てた故郷に、アレンが安らげる場所など残されてはいなかった。
 あの日父の言いつけ通り、大人しく国に留まっていれば侵食する狂気を阻むことが出来たかもしれない。せんかたない後悔がじくじくとアレンの心を苛む。
「泣きたくなった」
 唇が勝手に紡いだ言葉で、アレンは正しく自分の気持ちを理解した気がした。
「退屈だった日常は、君にとってかけがえのない宝物だったんだよ」
「……うん」
「平和な故郷とか、君を愛してくれる人とか、穏やかな毎日とか。傍にあることが当たり前だったから、それがどんなに大切か気付く機会がなかったね。じゃあそれに気付いた君にとって、ローレシアって何だろう?」
 アレンは太い眉をきゅっと寄せて考えた。あまり働きのよろしくない脳から、懸命に一つの言葉を絞り出す。
「……俺が生きていく場所かな」
 自らの言葉に鼓舞されるよう、アレンは大きく頷いた。だが前向きな意思を帯びた表情は、即座に迷子の子供に似た心細さを帯びる。
「けど、あんな風に変わっちまったら……」
「あれは全部幻だよ」
 そう告げるロトの声は、幼子を宥めるように優しかった。
「本体の影から作ってるから、とても精巧だけど現実じゃない。ローレシアの人達は、今も変わらない気持ちで君のことを待ってるよ」
 生まれ育った故郷は変わりなく、そこに住む人々は健在なのだ。そう安心した瞬間、道中感じたことのなかった望郷の念が胸の奥から溢れ出た。
「今の君になら、やるべきことは分かると思うな」
「生きてローレシアに帰る。そんで、親父や爺に怒鳴られる前にただいまって言うよ」
「うん」
 旅立ちの時とは違うアレンの返答に、ロトは満足そうに頷いた。
「元気な笑顔は何よりの手土産だと思うんだ。俺は家族にその手土産を渡すことが出来なかったから……だから君達には絶対に無事に故郷に帰って欲しいんだ」
「え?」
 言葉の意を問うより早く、ロトの表情が別人のように険しくなった。青く閃く流星に似た双眸で、遙か彼方を見つめる。
「……まずいな。君を迎えにきた」
「俺を? 誰が?」
「あの世の使い……職務に忠実で融通が利かない光の使者だ。一度働き出したら、精霊界に彷徨う魂を全て捉えるまで収まらない」
 ロトが睨みつける水平線が金色の輝きを帯びた。姿の見えない、けれど圧倒的な力を持つ何かが、凄まじい速度でこちらに迫ってくるのが感じられる。本能的な恐怖がアレンの項を撫で上げた。
「俺が代わりにいく。時間稼ぎくらいにはなるはずだ」
 囁くロトの声は緊張を帯びて硬かった。
「君は光と反対方向に思い切り走るんだ。今、コナンとナナが必死に君を治療してる。生命を維持出来る状態になれば、肉体は君を呼び戻すはずだから」
「ちょっと待てよ。代わりって……お前はどうなるんだよ」
「天の園にいく」
 ピクニックにでも行くような気楽さで、ロトは片目を瞑った。
「最後まで手助け出来なかったのは残念だけど君達なら大丈夫。この世界を守ってくれるって俺は確信したよ」
「けど、それじゃお前が」
「俺はもう死んだ人間。とっくの昔に天の園に行くはずだった魂。それにここだけの話、精霊家業も楽じゃないんだ。ルビスも復活したことだし、俺はそろそろ休ませてもらうことにするよ」
 最善を尽くした人間の笑顔は空のように晴れやかだ。間際にこんな表情の出来るロトの生き様と強さを、心底羨ましいとアレンは思った。
「後は頼んだよ、アレン。俺の血を引いた太陽のロト。星と月と力を合わせて、あの世界を破壊神から救って欲しい」
「分かった。俺が……俺達がどうにかする」
 それは自分自身に対する宣言だ。戦いに勝利し世界を守り、生きて故郷に帰る。遠い祖先の願いはまたアレンの望みでもあるのだ。
「俺、ガキん頃からロトが大嫌いだった。顔も知らねぇ先祖なのに、いちいち俺のやることに絡んできてさ。ロトが俺の先祖じゃなかったら気楽なのにってずっと思ってたんだ」
「今も嫌われているのかな」
「そうだな、やっぱあんま好きじゃねぇな。これからだって俺がヘマする度にロトロト言われんだろうし」
 アレンは鼻に皴を寄せた後、にやりと笑った。
「でもお前のことは嫌いじゃないや。お前みたいな勇者にだったらなってもいいなって思うよ」
「……君は君のあり方を極めればいいよ。もし不安なことがあっても、それはコナンとナナがフォローしてくれる。君達は三人一緒で誰よりも強い勇者なんだから」
 アレンの言葉が嬉しかったのか、ロトは頭を掻きながら言葉を続けた。
「心と力を支え合えるように、君達は同じ時代に生まれて巡り会ったんだ。旅の後別々の道に進んで、それぞれの大事な人と新しい世界を築いても、君達の絆に入り込めるものはいないよ」
 そう言って、ロトはぽんとアレンの肩を叩いた。少年の掌には、彼が受け止めてきたたくさんの想いと願いが生きている。その全ては今を生きるアレンに継承された。
「さあ走るんだ。コナンとナナが君を待ってる」
「そんじゃまた何時か……天の園でな」
「あんまり早く来ちゃだめだよ」
 アレンは頷き、ロトに背を向けて全速力で駆け出した。