二つの希望が生まれた国<4>


「司祭様、少し年取ったね」
「そう? あたしは毎日朝と夕方に会ってるから良く分からないけど」
「一日に二回も教会に行ってんの? 何で?」
「何でって、決めたことだから」
「ふーん」
 ケインは理解出来ないという風に首を捻る。
 リアンは日々の決まりごとを幾つも作っていて、それを遂行しないと気が済まない性分だ。真面目で勤勉な彼女の人柄も、時と場合によっては融通の利かない頑固者と映る。ケインとリアンの気質を足して二で割れば丁度いいと、二人を知る者は口を揃えて言う。
 太陽が中天に差しかかるとほぼ同時、教会の鐘の音が空に広がった。昼食時を迎えた町は、それを合図として一時の静寂に包まれる。
「これからどうする?」
「家に帰る。あたしの用事は終わったし」
「えー、もう?」
 素っ気ない返答に兄が焦りを見せた。今戻れば逃亡者ケインが夕方まで仕置きを受けること必須だが、そんなのはリアンの知ったこっちゃない。口裏を合わせる了承はしていても、一日中遊び回る約束などしていないのだ。
「どっかで何か食べてかない?」
「嫌よ。今月のお小遣いはもう使い道決めてるから無駄遣い出来ないし」
「ちょっとくらいいいじゃん」
「ちょっとくらい、がたくさんになって取り返しのつかないことになるの。油断は禁物」
 兄の提案を跳ね除けるうちに我が家の屋根が見えてきた。赤い煉瓦作りの二階建ては、遠目にも目立って瀟洒だ。勇者オルテガが支える家庭は、アリアハンでは比較的裕福な方だった。
「あら、双子ちゃんじゃない」
 成す術のない現状にケインが頭を抱えた時、妙にあだっぽい女の声が二人の耳朶を打った。生き生きと振り返るケインにとって、それは救いの声に他ならない。
 声の響きに相応しく、妖美な女が二人を見て微笑んでいた。年は二十歳を半ば越えた頃か、緩やかに波打つ髪からも、星を宿した瞳からも、朱を刷いた唇からも女が匂い立つようだ。脳髄を麻痺させるような強烈な色香にやられたようで、ケインの面に締まりのない笑みが広がっていく。
 でれんでれんになった兄を冷ややかに一瞥してから、リアンはぺこりと頭を下げた。
「こんにちは、ルイーダさん」
「こんにちは」
 白い歯を見せて微笑むルイーダは、アリアハンで酒場を営む女主人だ。
 町外れの古倉庫を買い取った彼女が、改装したそれを酒場として開いたのは二年前の冬のことだ。濃艶な美女が切り盛りする店はすぐに話題となり、その日の仕事を終えた労働者や冒険者が足繁く通うようになった。深夜まで煌々と灯りを揺らす酒場に人気が絶えることはなく、風向きによっては酒気を帯びた笑い声が双子の家にも届いてくる。
「二人でお散歩?」
「教会からの帰りで、これから家に帰るところです」
「良かったら冷たいジュースでもどうかしら。珍しい果物が手に入ったのよ」
「ありがとうございます。でもあたし達……」
 家では母が昼食を用意して待っているはずだ。リアンの丁寧な辞退が終わらぬうち、半歩歩み出たケインが勢い良く頷く。
「ジュースいただきます!」
「……ちょっとケイン」
 リアンは眉を吊り上げてケインの袖を引いた。
「もうすぐお昼ご飯よ」
「大丈夫だって、ジュース飲んだってご飯くらい入るよ」
「そうじゃなくて、お母さんが待ってるでしょっ」
「うるさいなあ。だったらリアン一人で帰ればいいじゃん」
「な……」
 勝手についてきたくせに、ケインはそれきりこちらに背を向けて振り向きもしない。男なんて身勝手な生き物だと、リアンは思わず鼻息を荒くした。
「リアンはどうする?」
「あたしは……」
 唇に笑みを刻むルイーダは美しい。大輪のハイビスカスにも似た圧倒的な華やかさは、リアンが生涯努力しても手に入れられるものではない。少女特有の案外冷めた目線で、リアンは己が容姿の凡庸さを認識していた。
「……あたしも行きます」
 何となく反抗心が頭を擡げ、気付いた時リアンは首を縦に振っていた。へらへら嬉しげなケインの横顔を恨みがましく見上げる。
「……お調子者。ケインはそのうちあの人みたくいい加減な男になるんだわ、最低」
「ん? 何か言った?」
「別に、なーんにも!」
 ぷいと横を向くと、リアンはルイーダの後について歩き出した。


 聳え立つルイーダの酒場には何処かしら近寄り難い雰囲気がある。退廃的且つ気だるげな大人の空気が、見えない手となって年端の行かぬ子供達を牽制しているかのようだ。
 重たそうに見えた木戸は、ルイーダの細腕が触れただけで滑らかに動いた。ほとんど音を立てず開いていく扉の向こうから、二人には馴染みの薄い匂いがふっと吹きつけてくる。煙草と酒と化粧が入り混じったそれは、まだ見えない世界の欠片だ。
 高い位置にある窓から陽光が差し込む。交差する淡い光の筋の下には、幾つもの丸テーブルと椅子が並べられていた。夜の帳が落ちれば、そこに収まり切らぬ人々が音高く酒盃を打ち鳴らすのだろう。本番までの小休止とばかり、酒場はひっそりとしたまどろみに沈んでいる。
「そこに座って」
 双子は勧められるまま椅子に座った。カウンター前のスツールは脚が高く、慣れない二人は試行錯誤しながらどうにか尻の収まる位置を探す。
「ルイーダさん、お店は何時から開くの?」
 カウンターの向こうでルイーダは手際良く果物を剥いている。彼女に手にあるそれは鶏卵に似た形をしており、果肉は鮮やかな山吹色だ。ここらで採れる果物ではない。
「五時よ。でもそのうち一日中開けることになると思うわ」
「……一日中?」
 顔を見合わせる二人の鼻腔を甘い匂いが掠める。細かく切った果物を圧縮すると、少しとろみのある液体がガラスの器に滴り落ちてきた。
「あたしね、ギルドマスターの資格を取ったのよ。ここは来月からルイーダの酒場兼冒険者の登録場になるの」
 二人は黒すぐりに似た瞳をぱちくりとさせ、目の前の美しい女の顔を見つめた。
 魔王バラモスによって魔物が活性化する昨今、冒険者の需要はうなぎのぼりだ。魔物退治であったり旅の護衛であったりと、ギルドには依頼が連日山の如く押し寄せる。ギルドマスターは仕事内容と報酬を良く吟味し、能力に見合った冒険者に紹介し、時には情報の供給やパーティ編成等の手助けもする。適材適所を素早く的確に見抜く能力が求められるのだ。
 先代のギルドマスターが逝去して以降、アリアハンのギルドは国の管理下にあった。だがお役所が絡む状況では仕事内容もおのずと制限され、依頼者にとっても冒険者にとっても窮屈な環境が長く続いていたのだ。閉塞感漂う中誕生した美しきギルドマスターは、冒険者達にとって希望の星に他ならない。
「はいお待たせ。私の故郷の果物よ、召し上がれ」
 よく冷えたグラスにとろりとした果汁が注がれている。一口流し込むと、濃厚な舌触りと甘さが口腔内に広がった。これまで味わったことのない不思議な風味だ。
「美味しい。これ、何て果物ですか?」
「マンゴーよ。私が生まれた国では良く採れるのよ」
 微笑むルイーダの豊かな胸元で、ピンクゴールドの花飾りが揺れる。肉厚な花弁を持つ大輪の花もまた、彼女に故郷を忍ばせるものなのだろう。
「あなた達も冒険者になる時はここにいらっしゃいね。旅の資金になるような、良い仕事を紹介するわ。仲間は……お姉さん達がいるからいいわね」
「……俺は一人旅でもいいんだけどな。だってブレンダ達と旅に出ても、家にいるみたいで全然実感沸かなさそうだよ」
 ごくんとジュースを飲み下してケインが溜息混じりにぼやく。それを聞き咎めたリアンが眉を寄せた。
「何言ってるの、一人でなんて戦えるわけないでしょ」
「でも父さんは一人旅だろ」
「一人で旅に出るから、あの人は何年も帰って来れなくなるの」
 ぷいと横を向くリアンとむっと眉を顰めるケイン。そんな二人の様子を眺めていたルイーダが声を上げて笑う。
「あなた達を見てると妹を思い出すわ。あたしもよく、妹とそんな風に喧嘩してたっけ」
 ルイーダは今から十年程前にふらりと現れた余所者だ。彼女が何処からやってきたのか、何をして来たのか知る者はいない。ルイーダはたんぽぽの綿毛のように気まぐれにアリアハンに根を下ろし、以来ここで生活を営んでいる。
「ルイーダさんに妹がいるんですか」
 興味津々のケインにリアンは絶対零度の眼差しを向けた。どうせルイーダの妹も美人なのかなとかおっぱい大きいのかなとか、下らぬ妄想に胸を弾ませている違いない。
「あたしはあなた達と同じ双子なのよ。小さな島国に生まれたんだけど退屈でね。家業を継ぐのも面倒だったから、真面目な妹に全部押しつけて家出してきたの」
 ころころと笑うルイーダは何処までも屈託なかった。
 思わず肩を竦めたリアンだが、それでも恐らくルイーダの妹は姉を嫌っていないだろうと感じる。苦笑しながらもわがままを聞き入れる姿勢が、ふと自分に重なる気がした、
「あなた達が旅に出たらミランダに会うかもしれないわね。その時はよろしくって伝えておいてね」
 ルイーダがぱちりと片目を瞑るタイミングで、花の首飾りが今一度揺れた。


 酒場を一歩出た途端、この季節にしては強い暑気が二人を包んだ。途端滲み出す汗を拭いながら、ケインは改めて酒場を振り返る。ジュースの甘味に加えて、ルイーダの胸の谷間が印象的な空間だった。
「あっ」
 唐突にリアンが空を指差し、ケインも弾かれるように目線を上げた。一瞬の沈黙を置いて、黒い瞳がまんまるく見開かれる。
 天空の遥か高み、ぽっかりと綿埃のような雲が浮かぶ地点を、悠々と泳いでいく影がある。新緑色の鱗を輝かせながら風を従える姿は美しくも力強い。
「……何だあれ」
「竜、かな……?」
 半信半疑で呟くリアンとは対照的に、ケインはその瞳をきらきらとさせる。
「竜? 俺、初めて見た!」
 大地の神の目となって世界を監視するのが竜だ。彼らは人との接触を嫌い、人里に近寄ることを潔しとしない。このような王都から竜を見上げるなど、奇跡に等しい確率での出来事だ。
「かっこいいなあ、何処に行くんだろ!」
 幼い好奇心を剥き出しにしてケインが駆け出した。標準よりも小柄な体は風と同化し、あっという間に町の外に飛び出してしまう。魔物避けの結界の有効範囲を示す街門も、神秘の存在に心奪われた少年の抑止力にはなり得なかった。
「ケイン!」
 後を追って駆け出したリアンは、街と外界の手前で思わず立ち止まった。
 日頃から街の外に出てはいけないと硬く言いつけられている。魔物の凶暴化が著しく、本来なら大人しい魔物すら積極的に人間に襲いかかってくるような情勢だ。アリアハンに生息する魔物は然程強くないが、幼い子供にとっては十分な脅威となる。
「……」
 だがリアンが躊躇ったのはほんの一瞬。すぐに唇を引き結び、彼女は彼の後を追う。そのように危険な世界なら、尚のこと片割れを一人で行かせるわけにはいかない。