空を泳ぐ影は南の空に消えていく。 垂直に切り立つ崖縁ぎりぎりに立って、ケインは遠ざかる姿を見送っていた。 世の理を司る神秘なる種族を、ケインはこの時初めて目にした。彼らが行き交う世界はこの島国とは比べものにならぬ程広く、多様で、驚きに満ちているのだ。それは幼い少年の好奇心を刺激してあまりあるものだった。 「ケイン、もうっ、待ってよ!」 弾む呼吸音と乱れた足音が近づいてくる。リアンが忙しく肩を弾ませる様に、ケインは無我夢中で町を飛び出したことにようやく気がついた。 「あ、ごめん」 「ケインは本当に足が早いんだから。ちっとも追いつけなかった」 「まーね。特に逃げ足は絶品だってブレンダに褒められる」 「それって威張ること?」 剣呑に声を潜めたリアンが、ふと心を持っていかれたように目を見開く。 「うわぁ、きれいなところ」 ケインに並び立てば眼下に海が一望出来た。深いタイコーズブルーから淡いエメラルドグリーンまで、宝石に似た輝きを宿しながら海原は緩やかに波打つ。濁りなきわたつみは懐の珊瑚礁や魚群を惜しげなく透かすため、二人はここからでも美しい海底の風景を思う存分堪能出来るのだ。 「……ねえ、この世界は神々の大戦で、神鳥と聖竜が守ったって知ってる?」 「それくらい知ってるよ」 ケインは軽く口を尖らせる。三つの子供でも知っている物語だ。 遥か古の昔、善き神々と悪しき神々が長きに渡る戦いを繰り広げた。創造神率いる軍勢と破壊神率いる軍勢は日夜問わず激突を繰り返し、凄まじい衝撃に世界は幾つかに砕けた。大地が割れ、海が裂け、空が散ってもなお戦は続き、数多の種が絶えかけた時戦局に異変が起きる。切り落とされた創造神の腕から生まれた不死鳥と竜が、白き雷を以って破壊神を冥界に叩き込んだのだ。 「それじゃアリアハンが二つの島だったってことは? 大きな川を挟んで西と東に分かれて、人は渡し舟で行き来してたんだって」 それは初耳だ。知らないとケインが首を振ると、リアンはやや得意げに鼻腔を膨らませた。 「西に破滅の神アトラスが降臨した時、町を潰された人達は東に逃げようとしたの。でも川は広くて泳ぐのは無理だし、船も数が足りなくて追いつかない。川岸が人で溢れそうになった時、降りてきたのが大地の女神ガイア。ガイアは火山を砕いて川を塞いでくれたの」 「……火山を砕く?」 突拍子もない話でケインにはいまいちピンと来ない。 「そう。火山から流れた溶岩が固まって、この川の先を埋めたの」 リアンは右手に広がる河川を見下ろした。地図で見る限り、悠々たる流れは島の中程で三つに分かれており、何れも海にまでは達していない。リアンの話が真実ならば、北西に伸びた川を塞き止める山脈こそが、溶岩による避難路ということになる。 「ガイアは人が逃げ切るまでの十日間、アトラスを食い止めて力尽きちゃったんだって。だから今はもういない神様が、アリアハンの一番の恩人ってことよね」 「へえ〜」 神話が彩る世界は胸が高鳴るような魅力に満ちている。冒険者となって飛び出せば、アリアハンでは体験し得ない、心弾む出来事がたくさん待ち受けているだろう。ケインは胸いっぱいに潮の香を吸い込んだ。 「早く旅に出たいな」 ケインの独り言を引き取ってリアンが頷く。 「うん。そして魔王バラモスを倒すの」 「倒すって、それは父さんの役目だろ」 「違う、あたしが倒すの」 リアンは天空の高みを見上げてはっきりと宣言した。 「あたし決めたの。勇者になるって」 ケインは唖然と片割れの横顔を見つめる。 勇者はオルテガでありそれ以外の者にはなり得ない。そう信じているケインにとって、リアンの言葉は晴天の霹靂だった。最強の勇者が魔王に肉迫しつつあるのに、彼女は一体何を言い出したのか。 「だってアリアハンの勇者は父さんだぞ。今試験受けたって落ちるよ」 勇者が国の象徴と目されて以来、一国から複数のそれが選出されることは少ない。国は時間と手間をかけて勇士を見出し、威信の全てを託すのだ。まして今は世界中がオルテガに期待を寄せている状況だ、アリアハンがリアンを勇者として認める可能性は限りなく低い。 「やってみなくちゃ分からないでしょ。精いっぱいがんばって、でもそれでも認定されなかったら、あたしは戦士として魔王バラモスを倒しにいくつもり」 黒い瞳が真っ直ぐにケインを射抜いた。吹き抜けていく潮風に長い髪がさらさらと踊る。 「戦士でも基本的なギルドの援助は受けられるから旅には困らない。それに勇者以外が魔王バラモスを倒しちゃだめとも言われてないし」 「そりゃそうだけど……」 「魔王バラモスを倒してこその勇者でしょ。あたしがなりたいのは本当の勇者……お飾りの英雄なんかじゃない」 リアンのここ最近の行動理由がようやく理解出来た。彼女が魔術書を読み漁っているのは剣術が不要になったからではなく、どちらも必要になったからだ。勇者認定の試練には魔術を扱うものも幾つかある。 「だって父さんが」 「だからあんないい加減な人頼りにならないんだってばっ。あたしが先に魔王を倒して見せるわ」 父に対するリアンの口振りは何時にも増して辛辣だ。ケインは軽い苛立ちを覚えて妹を睨んだ。 「あの人あの人ってさ、何で父さんのことそんな風に言うんだよ」 「決まってるでしょ、大嫌いだから」 心持ち視線を落とし、だが躊躇いなくリアンは答える。 「何で?」 「何でって……、お母さんに寂しい想いをさせてるからに決まってるじゃないっ。魔王退治が大事な使命なのは分かるけど、だからって二年も家に帰らないなんてどういうことなの? お母さんのことなんか何も考えてないのよ! 最低!」 リアンの言い分がケインには分からない。母アリシアは何時も快活で明るく、少なくともケインの前で悲しげな振る舞いを見せたことはなかった。父に対する母の言葉はやや厳し目ながらも愛情に満ちていて、聡いリアンがそれを勘違いするとも考えにくい。 「母さんが寂しそうとか、俺は思ったことないけどな……」 「男の子には分からないんでしょ」 リアンは頑として譲らない。父への反発は日々強くなり、彼女の心に様々な感情を引き起こしているようだ。 「……ケインはあの人のこと、どう思ってるの?」 「どうって、かっこいいしスゴイなあって」 「ふうん……。そんな風に憧れてるんだったら、自分も勇者になりたいなって思わないの?」 「まっさかあ。俺が勇者なんかになれっこないじゃん」 「そんなこと分からないじゃない。やる前から諦めちゃうんだ」 リアンが大仰に肩を竦めた時、陽光がさっと翳った。 反射的に空を仰いだケインの視界に、巨大な影が飛び込んでくる。 「リアン!」 ケインはリアンに体当たりした。一瞬前までリアンの頭があった地点を黒い物体が通り過ぎていく。獲物を捕らえ損ねた鋭い爪が、憎々しげに空を掻いた。 「おおがらす……」 柔らかい子供の肉を狙う魔物が三羽、二人の頭上を大きく旋回していた。しわがれた声が澄んだ初夏の大気を淀ませる。 ケインは頭上に注意を払いつつ、素早く地面に視線を這わせた。叢に大人の腕程の太さの枝が一本転がっている。武器というには頼りないが、何もないよりはましだ。 ケインが枝に飛びつくのとほぼ同時、リアンが掌を空に翳して叫んだ。 「メラ!」 指先から火の玉が迸り、双子の隙を伺っていたおおがらすに命中した。ぱあっと羽毛が飛び散るものの、致命傷には程遠いダメージだ。 「……い、今の魔術?」 現状も忘れ、ケインは唖然と妹を見やる。彼女が実際に魔術を扱えることに、ケインはこの時まで気付きもしなかったのだ。日々の弛まぬ研鑽は彼女を確実に強くし、二人の距離を広げている。 「驚くのは後にして! また来る!」 大きく鳴き交わすと、おおがらすは急降下と急上昇を繰り返し始めた。早くも双子の能力を見極めたか、攻撃範囲外ぎりぎりの位置で二人を挑発しては、傷を受けることもなく再び空に悠々と舞い上がる。 大きく枝を振り下ろす都度、或いは火を生み出す都度、二人の体力は確実に奪われていった。このままではそう遠くないうちに力尽きて動けなくなることだろう。おおがらすはそれを狙っているのだ。 「……このままじゃやられちゃう」 早くも息を弾ませるリアンが呟いた。魔術を連発した彼女の頬は不自然なまでに白い。 魔術は術者の魔力、独自の詠唱、精霊の助力を組み合わせた奇跡の技だ。 魔術の源たる魔力は、術者が生命力を体内で変換して作り出す。魔術変換能力と呼ばれるそれは魔術師必須の能力であり、遺伝によって受け継がれる素質でもある。 命を源とする以上、魔術の使用にも限界がある。生命維持に必要な力まで変換しようとすれば、危機を察した肉体は早急に意識の喪失を促すのだ。これ以上魔術を使えば、恐らくリアンは気絶してしまう。 「リアン、森まで走れ!」 妹の肩を強く押して、ケインは駆け出した。 舞い降りてくるおおがらすの足を二度、三度と払いのける。棒で打ちつければ一旦は引くものの、魔物の執拗な追跡が止むことはない。仲間の声を聞きつけてやってきたのか、二人を狙うおおがらすの数は何時しか十を越えていた。 「きゃっ」 足が縺れたかリアンが転んだ。無防備に晒された背に魔物の鋭い爪が迫る。今おおがらすを払ったばかりのケインにはどうすることも出来ない。 「リアン!」 小さな背中に爪を食い込ませようとしたおおがらすが、不意に弾かれたかのように上昇した。 空高く舞い上がったおおがらす達が、ぎゃあぎゃあとけたたましく鳴き交わしながら森の方角へ逃げていく。何処かしら悲壮な声の響きが、不吉な予感を伴って二人の耳道にこだました。 「リアン、大丈夫か?」 「う、うん……」 リアンの無事にほっとしたのも束の間、周囲の異変を感じてケインは体を硬くする。 風が止み、海が沈黙した。雲が滞り、鳥が息を潜めた。音が消失した空間に、先程までと変わらぬ陽光が燦々と降り注ぐ。言い表せない危機感が二人の中で急速に膨らみ始めた。 「……何だか怖いね……」 立ち上がったリアンがぎゅっと手を握ってくる。繋がる指先に力を込めることで、ケインは彼女と不安な気持ちを共有した。 「……早く帰ろう」 「うん」 何処かで何かが起きつつあるのを本能で感じながら、二人は城下町を目指して歩き出した。草原を越えた先にある城は玩具のように小さい。そこに到達するまでの距離がとてつもなく長く感じられた。 一歩、二歩、三歩目を踏み出したその時、周囲の風景が激しく縦にぶれた。 地震だと悟るより早くケインは地面に投げ出された。強か打ちつけた肩の痛みを感じる間もなく激しい横揺れが始まり、痺れる手で必死に草を握り締める。 世界が壊れるのだと、ケインは圧倒的な恐怖の中で思った。このまま全てが壊れ、崩れ、分解して無に帰すのだ。昨日が今日に移り変わったように、滞りなく続くはずだった明日はもう来ないのだ。当たり前が失われていく絶望に幼い魂は凍りつく。 「……」 無意識に天を仰ぐ仕草は祈りのそれに似ていた。だが救いを求めて見上げたはずの空の変貌に、少年は新たな恐怖を覚えることとなる。 澄み渡ったそこに、ケインは爆発した光の軌跡を認めた。拡散する光の筋は 赤、青、緑、黄、銀、紫に淡く点滅しながら、緩い放物線を描いて水平線の彼方へと沈んでいく。理解の範疇を超えた不可思議な光景だ。 永久に続くかと思われた激しい揺れはやがて少しずつ小さくなった。今際の際の痙攣にも似た振動を感じつつ、ケインはゆっくりと体を起こす。 「いたっ……」 何気なく腕を動かすと、肩にずきんと鈍い痛みが走る。思わず身を竦ませたその時、何処からともなくか細い声が聞こえた。 「助けて……」 「リアン?」 肩の痛みも忘れてケインは立ち上がる。握っていたはずの手は何時の間にか離れており、温もりを失った指先が氷のように冷たい。 「リアン? リアン、何処だ?」 妹を探して歩き出したケインは、恐る恐る崖下を覗いた瞬間、体内の血が凍りつくのを覚えた。 切り立った絶壁、僅かな岩のでっぱりにしがみついたリアンがいた。地震の影響で地盤が脆くなり、こうしている間にも剥落した土くれが遥か眼下の水面に飲み込まれていく。 穏やかだった海は鈍色に染まり、白い牙を剥いて激しく逆巻いていた。あれに飲み込まれれば人の子など一堪りもない。 「落ちちゃう」 何時も強気なリアンの瞳が恐怖に揺れている。 ケインは腹這いになり、崖っぷちぎりぎりに身を乗り出して手を伸ばした。荒海から吹き上げる風は暴力的に強く、まともに目も開けられない。刺すような痛みに顔を顰めながら、ケインは喉奥から唸り声に似たものを発した。 「リアン……」 必死に差し伸べたケインの指先が、もう少しでリアンのそれに触れようとした時。 力尽きた腕が岩肌を滑り、少女は狂った海原に飲み込まれた。 |