VALENTINE









暁に想う



 心地良いまどろみの中から意識がゆっくりと浮上してくる。
 目蓋を持ち上げると、愛しい人の寝顔がすぐ傍にあった。人の温もりを感じながら目覚める朝は、満ち足りた一日が始まりそうな嬉しい予感がする。
 鳥の羽のように伏せられた長い睫に、挨拶代わりの口づけを落とす。体を起こしベッドを滑り降りようとしたところで、柔らかい声が背中にかかった。
「おはよう」
 羽根枕に頬を埋めたまま、彼女が黒い瞳を細めて微笑んでいた。夜明け前の闇を纏った容貌が白く滲む。
「……おはよう」
 身を屈めて囁き、彼は彼女の寝乱れた髪に手を伸ばした。絹糸の如く滑らかなそれは、指に絡むことなくさらさらと滑り落ちていく。
「また黙っていなくなるつもりだったのね」
「気持ち良さそうに寝ていたから、起したくなかったんだ」
「夜明けまでは時間があるはずよ。だからもう少し傍にいて」
 白いかいなが彼の首に巻きついた。互いの吐息が感じられる距離まで二人の顔が近づく。
「駄目だよ、もうすぐ人が起きてくる。見つかったら大変だ」
「見つかったって構わない」
 そうも行かない身の上だと彼は苦笑する。彼は継承権を放棄したとはいえ一国の王子であるし、彼女は大貴族の姫君である。婚約も交わさぬうちから関係を持ったと知られれば、社交界は蜂の巣を突いたような騒ぎになるに違いない。
「無茶を言わないで。また来るから」
 幼子をあやすように顔を覗き込んでも、彼女はぷいと視線を逸らしてしまう。
 彼は困った微笑みを浮かべつつ、彼女の腕を優しい力で振り解く。わがままには従わぬ意思表示として身を起すと、彼女はようやく諦観の溜息をついた。
「悪いことをしてるわけでもないのに、どうしてこそこそしなくちゃいけないのかしら。貴族なんかじゃないところに生まれたかったわ」
 言ってから、彼女は大変なことに気づいたという風に瞬きした。
「だめだわ。貴族に生まれなかったら、あなたと会えなかったかもしれないもの」
 気の強い彼女が素直な一面を見せた瞬間だ。彼は今一度彼女を見下ろし、その白い頬を愛撫した。
「もうすぐ二人でいられるようになるよ」
 二人は明日、サマルトリアの初代国王に結婚の許しを得に行く。婚約を交わしさえすれば、二人はおおっぴらに付き合うことが出来るはずだった。
「……今、あの人のことを考えたでしょ」
「……分かるのかい?」
「だって辛そうな顔している」
 幸せを予感させる日々の中、彼が唯一気がかりなのは兄のことだった。彼が彼女を愛するように、兄もまた彼女に想いを寄せているのだ。
 妾の子として何かと肩身の狭かった彼を、影に日向に庇ってくれたのが三つ年上の兄だった。彼は兄を愛し、尊敬し、生涯を捧げて尽くす誓いを立てていたが、彼女のことだけはどうしても譲れなかった。全てを失ってもこれだけはと望むもの……彼にとって彼女はそういう存在なのだ。
「私もあの人のことは好きよ。大切な友人。でも愛しているのはあなたなの」
 力強く宣言したはずの彼女の顔が、不意に大きく歪んだ。よろよろと身を起した彼女の双眸から大粒の涙が零れ落ちる。
「私達のこと、本当に許していただけるのかしら?」
「何故? どうしてそんなことを言うんだ?」
 しゃくりあげ始めた彼女の細い肩を、彼は困惑しながら抱き締める。
 彼女が泣き濡れた瞳を上げた。彼の顔をまじまじと凝視して、絶望に打ちひしがれるようにぎゅっと目を瞑る。
「無理だわ」
 彼女が逃げ、腕の中から温もりが失われた。凄まじい喪失感に震えながら、彼は死刑を言い渡される罪人のように身を固くする。
「だってあなたは、変わってしまったもの」
 すっと流れた彼女の視線を追うと、先刻まではなかったはずの鏡が聳えていた。銀色の鏡面に浮かぶのは項垂れた彼女と、それに向かい合う一人の男。
 禍々しいオーラを陽炎の如く揺らめかせながら、男がこちらを見て笑っている。精霊神ルビスの愛を拒み、忌まわしき神の教えを諾々と受け入れた存在。魔物めいた赤い瞳が自分ものだと気づいた瞬間、彼の意識は暗転した。


 今となっては遠い昔の、存在したかどうかもおぼろげな日々の出来事だ。
 彼は寝台から起き上がり、冷たい床を歩いて姿見の前に立った。痩せた顎を一撫でし、嘗ての恋人の言葉に頷く。
「確かに変わってしまったな」
 愛しい娘との許しを得ようとした場で、兄と彼女の婚約が発表された。国から逃げ出そうと目論むも、全てが事前に露見し彼女と引き裂かれた。未練がましい最後の逢瀬が、結果不義の命を宿した。彼の望んだ幸せは全て、砂のように指の間から滑り落ちていった。
 打ちのめされる日々の中、彼の心は少しずつ歪み始める。そうして生じた僅かな隙間に、ゾーマの声が滑り込んできたのだ。
「結局私は、現実に耐えられぬほど弱かったのだな」
 弱々しい暁の光の中でハーゴンは笑った。今や誰にも見せることのなくなった微笑みには、ほんの少しだけ、幸せだった頃の面影が残っていた。