VALENTINE |
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アレンの朝はすこぶる早い。 朝日の気配が地平線を滲ませる頃、その目蓋が待ち構えていたかのように持ち上がる。ぱちぱちと二度瞬きすれば眠気は吹き飛び、青眼が太陽の輝きを帯びる。 アレンが目覚めた場所は旅の空の下ではなく、心地良い客室だ。魔物に襲われていた少女を助けた縁で、ルプガナに滞在することになった二日目の朝である。 ビロードのカーテンから差し込む光は弱々しいが、アレンは構わず寝具を剥いだ。ひやりとした空気を心地良く感じながら、素早く身支度を整える。壁に立てかけてあった愛剣を手にすると、屋敷の庭へと出た。 朝稽古はアレンの日課だ。食事の前に一汗掻かないと、どうにもその日の調子が出ない。彼にとって早朝の鍛錬は、新しい一日を始める儀式のようなものだった。 屋敷の庭は広かったが、美しい彫刻や凝った刈り込みがあちこちに並び、稽古場としては今一つだった。巨大な剣を振り回した拍子に、それらを傷つけてしまう危険性がある。 「ちょっと狭いなあ……」 しばらく周囲を見回したのち、アレンは新しい稽古場を求めて歩き出した。 昨日少女を救出した町外れの空き地なら、剣を振るうのに十分な広さがある。住宅街から距離を置いているから、少々物音を立てても誰の迷惑にもなるまい。 閑静な高級住宅街の大路を抜け、今はまだ人気のない商店街に出る。ここから公園を越え、更に九十九折の坂道を上った先にお目当ての空き地はあった。 「近道すっかな」 裏道を使えば、目的地までの距離は半分に短縮される。 大通りを外れようとしたその時、アレンはふとコナンの忠告を思い出した。ルプガナの裏通りには決して足を踏み入れるなと、コナンから滔々と言い聞かせられているのだ。 理由を問うとコナンはふっと前髪を払い、大人の道だからさと意味不明な答えを返してきたものである。ナナにはそれで事情が飲み込めたらしいが、アレンには今でもさっぱり意味が分からない。 「けど俺、もう大人だし」 この春に十六歳を迎えて成人の儀を終えている。誰にも文句は言わせぬ立派な大人だ。子供っぽい顔に溢れんばかりの自信を浮かべると、アレンは鼻息も荒く裏道に足を踏み入れた。 裏通りは表通りと違って薄暗く、何処かしら据えた臭いがした。背の高い建物に囲まれて十分な光が差し込まないせいか、じめじめと不快な湿気が纏わりついてくる。 「そこの青いお兄さん!」 不意にそう声をかけられて、アレンは足を止めた。お兄さんなどと呼びかけられるのは初めての経験で、訝しく思いながらも振り返る。 声の主は見知らぬ妙齢の女である。ふっくらとした赤い唇。扇情的に濡れた黒い瞳。薄布からちらちら垣間見える白い太股。そのどれもが脳髄を麻痺させるような、圧倒的な色気を放っている。 アレンは一瞬にして茹で上がると、たじたじと女との間合いを取った。強烈な女の香は、王子育ちで基本ぼんぼんなアレンには刺激が強過ぎる。 「あらヤダ。後ろ姿は逞しいのに、顔は子供っぽいのね」 艶やかに微笑む女が距離を縮めてくる。 戦闘ですら感じたことのない緊張を覚えながらアレンはじりじりと後じさり、終には壁際に追い詰められた。冷たく固い石壁が、どんっ、と無情にアレンの逃げ道を塞いでしまう。 「でもかわいいわぁ。やんちゃボウズ系も嫌いじゃないの」 女は真っ赤に染めた爪をすうっとアレンの頬に滑らせた。あまりの展開にアレンは石化寸前である。 「ねぇ、ボーヤ」 首筋に吹きかかる吐息は気だるく官能的だ。 「お姉さんとぱふぱふしない?」 「ぱ……ぱふぱふ?」 聞いたことのない言葉の意味を、アレンは鸚鵡返しに問い返す。女は長い睫を柔らかく上下させて笑った。 「ぱふぱふを知らないの? ぱふぱふっていうのはねぇ、おっぱいの谷間にお顔を挟んで……」 説明だけでアレンは鼻血を撒き散らしそうになった。実際にそんなことをされたら出血多量で死んでしまう。 「やんないっ。俺そんなことやんないっ」 「あらお堅いこと。もしかして心に決めた彼女でもいる?」 「いいいいねぇよんなもんっ」 「純情なのねぇ、食べちゃいたぁい」 女はアレンの首に両腕を巻きつけて、音高く頬にキスをした。柔らかな唇と共に、ぞりっとありえない感触が伝わってくる。 それが剃り残しの髭だと気づくまで、そう長いことは係らなかった。 「ど、どーしたのアレン」 泣きながら屋敷に戻ると、驚愕したナナが駆け寄ってきた。コナンは椅子に腰かけたまま、鬱陶しそうな視線を向けてくる。 「お腹痛いの? それとも迷子になっちゃったの?」 歩み寄ってきたコナンが、アレンの頬の辺りをしげしげと眺めた。唇の形をした紅がへばりついているのを見て、おおよその事情を察したようだ。 「だから大人の道に足を踏み入れるなと忠告したろう。あの手の世界で冒険するにはそれなりの経験値が必要なのさ」 コナンは頤に手を当て、余裕綽々の風情で微笑む。 「まあいい社会勉強になったじゃないか。これで君も少しは大人になったかな?」 「うるせぇな、大人なんかキライだ!」 真っ赤な目をしたままアレンが噛みつく。もう二度と大人の道には足を踏み入れまいと、固く誓った日の出来事だった。 |