VALENTINE









会いたい午後



 嘗て魔の島と呼ばれた孤島には、今日も優しい潮風が吹いている。
 海の香を吸い込みながら、竜王はよく晴れた秋の空を仰いだ。水底の宮殿を照らしていたのとは桁違いに強い陽光が、全身を包み込むように燦々と降り注ぐ。竜王はその眩しさに目を瞬かせ、それから何となく嬉しくなって笑った。
 住み慣れた王宮は水没し、偉大なる加護も消失した。失ったものは大きいが、それを代償として得たものもたくさんある。銀と金の光を放つアレフガルドの内海、峻烈なる山々の美しき稜線、なだらかな曲線を描く砂丘……それらに囲まれて呼吸する新しき世界。
 朝には岩山に足をかけ、少し冷たい潮風を浴びる。夜には砂浜に腰を下ろし、満天の星空を仰ぐ。大地と一体化して世界を眺めていると、感情を手放してでもこれらを守ろうとした精霊神ルビスの気持ちが分かるような気がした。
 竜王は手を翳し、口中で詠唱を紡ぐ。微かな光を放ちながら、掌に小さな光の玉が浮かび上がった。
「今日はテパの村に向かうか。元気そうで何よりじゃ」
 遙かなる地を旅する少女を眺めつつ、竜王は少し切ない溜息をつく。
 だがどんなに遠く離れていても、彼女とは大地を通して繋がっているのだ。そう思えば寂しさを紛らわすことも出来た。
「わしも元気じゃ。友人も出来たぞ」
 竜王は懐から包みを取り出した。長い爪が結び目を解くと、固く焼いたたくさんのパンが現れる。香ばしい匂いに誘われた小鳥達が、次々と竜王の肩や頭に止まり始めた。
「腹いっぱい食べるがよい」
 パンを千切りながら、竜王は得意げに頤を持ち上げる。
「今日のパンはわしが心を込めて焼いた特別製。きっとお前達の口に合う」
 こうして小鳥達と過ごす午後のひとときを、竜王はこの上なく愛している。
 アレフガルドを飛び回る友人らは博識で、様々な世界の不思議について語ってくれる。彼らの話を聞いていると、まだ見ぬ地の息吹と鼓動が聞こえてくるかのようだった。
「これを食い終わったら、ロトの洞窟とやらの話の続きを……」
 パンを千切っていた竜王が、不意に眉間に皺を寄せた。
 そろそろと見上げる空は穏やかだ。だが澄み渡った青の中に、不吉な予感を孕んだ染みが次々と浮かび上がりつつあるのを、竜王は見逃さなかった。
「またか」
 緊張と戦慄を覚えながら俯くと、小鳥達の円らな瞳がじっと彼を見上げている。
「……招かざる客人のようだ。わしが相手をしている間、お前達は隠れているがよい」
 小鳥達は一斉に飛び立ち、瓦礫や岩の陰に身を潜める。彼らが避難したのを見届けてから、竜王は遙か南の空に視線を向けた。
「正直、今でも戦いは不得手じゃ。とても怖い」
 声にならぬ声が薄い唇から漏れる。
「だが末裔としての戦いがお前の役目であるように、この戦いはわしの役目であるのじゃろう。わしは戦わねばならぬ」


 アレフガルドに飛来するは百を超える魔物の群れ。迎え討つは一匹の白い竜。
 竜神の象徴たる角を煌かせ、風と雲を従えながら、竜王は大きく口を開いた。喉奥に白光が宿った一瞬後、轟音と共に吐き出された炎が魔物の群れを焼く。
「失せよ!」
 雷の如く、竜の怒号が轟いた。
「アレフガルドは竜神の宿りし大地、魔物の住まう場所ではない。魂ごと焼かれたくなくば、即刻忌まわしきロンダルキアの地に戻れ!」
 だがそれしきのことで、ハーゴンの命を受けた魔物達が怯むはずもない。数にものを言わせ、雲霞のように隙間なく竜王を取り囲む。彼らの羽音や唸り声がまるで葬送曲のように聞こえた。
「……」
 恐怖を感じた時、逃げ出したい気持ちを奥歯で噛み殺しながら、彼は彼の守るべき大地を見下ろす。
 秋の気配を漂わせるアレフガルドの大地は、薄い雲の向こうに広がっている。ようやく色づき始めた紅葉が、まだ瑞々しい緑に対比する様が鮮やかだ。その美しい光景に勇気づけられると、竜王は再び魔物達の群れを正面から見据えた。
 初めのうちこそ惚れた娘に褒めてもらいたい一心で、竜王は戦闘に臨んでいた。  勿論、それはが戦う理由の一つであることに変わりはない。だが彼女との約束だけが原動力ではないことに、竜王は最近気づき始めている。
 彼はアレフガルドが好きだった。陽光浴びてまどろむ大地が、新緑に萌える森の木々が、銀色のリボンのように輝く小川が、そこに住まう友人達が好きだった。
 好きだから守りたい。守りたいから戦う。空の国の守護神だった遠い祖先も、きっとそんな想いを抱き続けていたのだろう。
 再び白光が爆発し、怒りの業火が魔物達を飲み込んだ。辛うじて火勢を免れた魔物が燻る大気を突っ切り、竜王の体に爪や牙を立てる。激痛に悲鳴を上げた竜王はきりもみ状態に落下を初め、勢い良く水面に叩きつけられたのち沈んでいった。
 泡立つ海面に、ゆらりゆらりと血液が広がっていく。
 生き残った魔物達が用心深く下降する。しばし水面の様子を眺めたのち、勝利を確信してにやりと笑い合った魔物達を、海から直立した炎の柱が飲み込んだ。


 陽光をたっぷり吸った温かい岩礁に、竜王は傷だらけの体を横たえていた。
 白い鱗のあちこちが剥がれ、爪や牙の跡が刻まれている。労わるように傷口を舐めると、海と血の味が舌先を強く刺激した。
 小鳥達が竜王の周囲に集い、心配そうに声を上げた。優しい励ましは何よりの薬になって痛みを軽減してくれる。こうやって友人達が傍にいてくれる限り、戦い続けることが出来るだろう。
 だがこんな風に深い傷を負った時には、少し心が弱くなる。幻ではない彼女に会いたいと思いながら、竜王は疲れた身体を休めるために目を閉じた。