VALENTINE









俄雨と雨宿りの夕暮れ



　夕焼けの輝きを空に残したまま、ざあっと音を立てて雨が降り出した。俄雨にびっくりした蝶々が忙しく飛び交う原っぱを、ひた走る少年の姿がある。
　少年は木陰に飛び込んでほっと一息ついた。重たくなったマントを摘み上げ、裾からぽたぽたと水が滴る様に顔を顰める。
「あーあ、びしょびしょだ。風邪引いちゃうよ」
　ぼやいたのち、それが無用な心配であることに気づく。この体で風邪など引くわけがないのだ。生身の肉体を失ってからもう何百年と経つのに、未だこの状態に馴染めない自分に苦笑を禁じ得ない。
「お客さん、風邪の予防薬はいかが？」
　不意に声をかけられて、少年は飛び上がらんばかりに驚いた。
　振り向いた先には木を刳り貫いた家があり、うろの窓から娘が顔を覗かせていた。彼女が見せびらかす小瓶の中では、怪しげな紫色の液体がたぷたぷと波打っている。
「い、いらない。貰っても飲めないし」
　嘗ての旅の仲間……今は森の魔女と呼ばれる彼女の薬は色んな意味で強烈だ。脳天にまで突き抜ける殺人的な風味を思い出し、少年は思わずよろよろと後じさった。
「あら残念、会心の出来なのに。是非君にもこの効力を知って欲しかったもんだわ」
「よ〜っく知ってるよ。それ飲んだら、風邪がびっくりして吹っ飛んでいったからな」
　魔女が薬を引っ込めるのを確認して、少年は内心胸を撫で下ろした。
「風邪は予防が肝心だって何時も言ってたでしょ。旅の間はただの風邪が命取りになる危険性もあったしね」
「体を冷やさないように、よくこうやって雨宿りしたっけ」
　オレンジ色の雨空を見上げながら、二人は昔日に想いを馳せた。共に旅した仲間の二人は安楽の園へと旅立って久しい。あらゆる世界を見渡せるという泉から、今もこちらを眺めているかもしれなかった。
「あれから四百年か。そんな長い時間が経ったなんて嘘みたいね」
「結局ゾーマの言った通りになっちゃったな。竜王が現れた時、俺達はもう……」
「それは仕方ないわね。あたし達には寿命があるんだから、未来永劫魔王だの竜王だのの相手をしてるわけにはいかないわよ」
　魔女はふうと溜息をついて、頬に落ちかかる銀髪を掻き上げた。
「でも君の意思はちゃんとグレンが継いでくれたじゃない。初めて会った時のあの子は頼りなかったけど、今じゃ立派なアレフガルドの英雄よ」
　血と志を受け継いだ新しい勇者が、アレフガルドから二度目の闇を払ってくれた。それをとても誇らしく感じると同時に、運命を背負わせてしまった後ろめたさをも感じる。
「あたし達が救った世界を、ロトの血を引くあの子が守ってくれたのよ。とても凄いことだわ」
「……うん」
　少年はすうと森の空気を吸い込んだ。豊潤な土の匂い、瑞々しい緑の匂い、甘い花の匂い。それらは遠い昔、命を賭して守ったものだ。
　大穴を潜り抜けてきた世界では様々なものを得て、それと同じくらいのものを失った。だが少年は決して、全力で駆け抜けた日々を後悔しない。幾度生まれ変わっても、同じ人生を選ぶだろう予感がある。そしてそんな風に満足のいく生き方を出来た自分は幸せだったのだと、改めて思うのだ。
「今、グレンとお姫様が来てるのよ」
「へえ、何しに？」
　ラダトームを旅立った二人がマイラの森に立ち寄っているとは知らなかった。律儀なグレンのことだから、挨拶にでも訪れたのだろうか。
「挙式しに」
「は？」
　予想だにしていなかった返答に、少年は青い目を丸くした。
「ここで式を挙げたいんだって。まああたしは元々神に仕えてた身だからして、多分、結婚式の真似事くらいは出来ると思うんだけど……」
「んないい加減な。大丈夫なのか？」
「大切なのは形式じゃなくて心でしょ。ちゃんとした式がやりたいんならどっかの教会で挙げればいいんだもの。グレンはね、あたし達に見て欲しいんだって」
　そこで魔女は心持ち身を乗り出し、声を潜めた。
「でもお姫様には内緒なの。明日こっそり早起きして式場の準備をして、料理を作って、マイラまでウェディングドレスを借りに行って……ってそれをやるのは全部グレンだけど、彼女をびっくりさせるのよ」
「そ、そりゃびっくりするだろうね」
　花嫁に知らせず挙式を計画するなど、今世代の勇者は案外大胆なことを考える。愛し愛されている実感があればこその行為かと、ちょっぴり羨ましくなった。
「君も参加する？　二人とも喜ぶわよ」
「いやー、俺は無理でしょ。基本こっちの世界と接しちゃダメなんだし」
「あら残念。女の子好きの君には、お姫様の花嫁姿もたまらないと思うけど」
「そりゃ俺だって参列したいけどさぁ」
　急につまらなくなって、少年は足元の小石を蹴り上げた。


　結局諦め切れなくて、少年は風に姿を溶け込ませたまま、新しい夫婦の誕生を見守ることにした。
　切り株を利用した祭壇の前に、少々気取った素振りで魔女が立つ。花を敷き詰めたバージンロードを進むのは純白のドレスを纏った新婦、それを迎えるのは黒い皮の服に身を包んだ新郎。微笑み交わす二人の周囲には、この世の幸福が光となって煌くかのようだ。
　風が吹き抜けると、金色の木漏れ日が揺れ、俄か雨の名残がぱらぱらと降り注いだ。光と水が踊る空間で、嘗ての勇者と王女が誓いを交わす様を、少年は満ち足りた想いで眺めた。
　彼が守った地でまた一つ小さな幸せの花が咲いた。花はやがて種子を結び、そこから生まれた命が新しい幸福を紡いでいくのだろう。
　少年はつと顔を上げて晴天を見上げる。そして二度と戻ることのなかった故郷に向かって、誇らしげに微笑んだ。