VALENTINE









微睡む誰そ彼



 アトラスがローレシア城の中庭に降り立ったのは、万物がおぼろげに霞む黄昏の頃だ。
 薔薇の茂み越しに眺める人々がどれも同じに見えるのは、薄闇が個性を覆うせいばかりではない。邪神アトラスにとって人間など所詮は供物、個別認識する必要のない存在なのだ。
 アトラスはぐるりと迂回して裏庭に回った。賑やかな庭園の雰囲気とは一変し、秋風の吹き抜けるそこに人の気配はない。精霊達がまどろむ空間は、気だるい沈黙に満ちている。
 アトラスの眼前に聳える王城はまるで小山のよう。数多の窓に灯りが揺らめき、数え切れぬ数の国旗が夜風にはためく。厳然として力強く、華麗にして美しい城の有様は、ロトの血が臣民に与える影響力を示すかのようだ。
「絶対に、あいつの人生を手に入れてやる」
 決意も新たに拳を固めた時、アトラスに予想だにしない悲劇が起きた。
「アレン様ぁぁぁ!」
「わっ」
 牡牛の如く突進してきた老人にぎゅうと抱き締められる。全身を鎧兜で固め、長い髭を蓄えた彼の情報は、アレンの影から生成されたこの肉体にちゃんと記憶されていた。
「ようやくお戻りになられたか! 爺は嬉しゅうございますぞ!」
「離せよ、俺はちが……うわあああっ」
 頬摺りの感触に全身が総毛立った。破滅の神として数多の大戦を潜り抜けてきたアトラスだったが、涙目になる程の恐怖を覚えたのは初めての経験である。
「アレン様が旅に出られてからというもの、爺は毎日生きた心地がせず、朝に夕べにご無事を祈り……」
「俺はアレンじゃねぇよ!」
 へばりついてくる老人をやっとの思いで引き剥がす。はあはあと肩を弾ませながら十分な距離を置くと、老人はようやく我を取り戻した風に目を瞬かせた。
「なんと……」
 その唇から落胆とも失望ともつかぬ溜息が漏れた。
「確かにアレン様は、お前のようなちびっ子ではない……」
「うるせぇな、これからでかくなるんだよ!」
 うなだれる老人は、ローレシア王子アレンの守役エドマンドである。長きに渡って国と王家に仕え、その忠義を捧げてきた武人である。
「それにしてもご幼少の頃のアレン様とよく似ている……違うといえば瞳の色だけか」
 しげしげと見つめてくる老人からぷいと視線を逸らす。そのまま踵を返して立ち去ろうとしたところで、がっしと肩を掴まれた。
「名前はなんと言う? 兵舎か台所の子か? 親は何処にいる?」
「アトラス。親なんかいねーよ」
 エドマンドは表情を厳しくし、眉間の眉を深めた。
「親がない? では今晩の食事はどうするつもりだ? 寝床は決まっているのか?」
「んなもん、どーにかなるって。いいから離せよ!」
「宿も飯もない子供を放置するわけにはいかん」
 振り解こうとするも、老人の手はびくともしない。その力というより意思の強さに圧倒される。
「まずは飯だ。こちらに来なさい」
 アトラスは手足をじたばたさせながら、ローレシアの裏庭を引き摺られていった。


 憮然とするアトラスの前に、焼き立てのパンと具沢山のスープが用意される。ほかほかと湯気を立てるそれらを眺めるうち、欲求に忠実な腹の虫が騒ぎ出した。
「余りものしかないけれど、たくさん食べなさい」
 丸々と太った女に促されるまま、アトラスはスープの具を頬張った。よく煮えた芋が溶け、柔らかい風味が広がる。素直に美味い料理だと思った。
「美味いか?」
 目を細めるエドマンドの問いに、アトラスは不本意ながらも頷く。
 アトラスが連れて来られたのは城の一角にある台所である。忙しく仕事に勤しむ人々はアトラスに気づくと必ず足を止め、目を丸くし、それから親しげに話しかけてくるのだ。
「うわ、アレン様そっくり。何処の子なの?」
「坊主、これも炙ってやるから食え。生きのいい魚はうまいぞ」
「魚ばかりじゃなく野菜も食べなくちゃだめよ、育ち盛りなんだからバランス良くね」
 人々のお節介ながらも素朴な愛情は、邪神であるアトラスにもしみじみと伝わってきた。
 これがアレンの育った世界であり、感じていた空気なのだ。肉体から記憶を読み取るのと実際に体験するのでは、受ける印象がまるで違った。
「今夜はわしの家に来るがよい。ここは火を落として冷え込むでな」
「……俺が盗賊だの夜盗だのだったらどうする気だ? 今夜にも俺の仲間が爺さん家に入り込んでくるかもしんねぇぞ」
 ろくでもない人間がたくさんいるのに、見知らぬ子供を屋敷に招き入れるなど無用心にも程がある。現にここにいるのは邪神、人を人とも思わぬ存在なのだ。
「心配せずとも、ローレシアの剣士が悪漢に負けることなどない」
 自信たっぷりにそう言って、エドマンドはアトラスの頭をぐいぐいと撫ぜた。
「それにもし、お前のような子供が夜盗の一味というのなら、益々放っておけんではないか」
「……」
 何となく反論する気勢を失って、アトラスは食事に戻った。破壊神シドーが降臨し価値観がひっくり返った日には、エドマンドのような人間は抹殺されるだろう。


 一日は怒涛のように過ぎ去り、再び薄暮の時刻が巡ってきた。
 まどろむ精霊達を従えながら、アトラスはすうと夕空に舞い上がる。そろそろロンダルキアに戻らねば、ハーゴンの嫌味がうるさい。
 見下ろすローレシア城の庭では人々が忙しく行き交っている。あれはスープをよそってくれた女、あれは魚を焼いてくれた男、あれはクッキーを分けてくれた少女、あれはお節介な老人。昨日までまるで見分けのつかなかった人々が、不思議と認識出来るようになっているのが不思議だ。
「……シドー様が降臨されてもさ。あんたらだけは何があっても生かしてやるよ。美味い飯の礼だ」
 届かぬ声でそう言うと、アトラスはロンダルキアに向かって流星の如く飛んだ。