VALENTINE









星影にのびた影



 夜半を告げる鐘の音が、神聖サマルトリア王国を厳かに包み込んだ。
 ルビス聖堂が放つ清浄な音色は、邪神たるバズズの耳に酷く障る。天空の中程をふわふわ漂っていたバズズは、滑らかな眉間に思わず皺を刻んだ。
「……美しくない音色だ」
 星影を従える体が青白く輝いた。弱々しい光を流星の尾の如く靡かせながら、バズズは地上目指して高度を落とし始める。
 やがて薄くかかった雲の向こうに、寺院を髣髴とさせる王城と、緑に囲まれた城下町が見えてくる。ちらちらと瞬く町の明かりはもう半分以上が落とされているようだ。
「成程、確かに息が詰まりそうな国だ」
 肉体に染み込んでいるコナンの記憶を漁り、それが全く別のことを示す感情であることを知りながらバズズは笑う。
 聖職者が集うサマルトリアには、精霊神ルビスの気が濃く満ちている。肉体を蝕むほど強力な力ではないものの、国に近づくにつれて不快な感触がちりちりと肌を焼き始めた。バズズは主の加護を纏って防御膜を張り、注意深く城の尖塔へと降り立つ。
「さて……」
 特に目的があってサマルトリアに来たわけではない。夜空の散策と洒落込んでいるうち、北の空へ流れ着いただけのことだ。何か面白いものはないかと巡らせた視線が、ぼんやりと灯りを滲ませる窓に止まった。
「……」
 不思議と引きつけられるものを覚え、バズズはすうっと空を渡った。露台に降り立ち、金の窓枠が施されたガラス戸に触れる。短い文言を唱えると、かちりと音がして錠が外れた。
 夜風と共に邪神が城内に滑り込んだ。そこここに揺れる蝋燭の炎が、震え上がるかのように一斉に揺らめく。
「……誰だ?」
 低い声で誰何を放ちつつ、安楽椅子から男が立ち上がった。亜麻色の髪と緑の瞳、冷たく整った顔立ちを持つ男が誰であるのか、バズズにはすぐに分かった。
「ただいま戻りました、父上」
 仄白く浮かぶ少年の姿に、だがサマルトリア王は毫も動揺を見せなかった。予想外の反応に、バズズの方が面食らってしまう。
「……父上?」
「それ程の邪気を放ちながら人のふりをする気か。三文芝居は止せ」
 偽りの姿を纏ったところで、魂の本質を隠しきれるものではない。神聖サマルトリアの国王ともなれば、邪気を察する感覚は人一番鋭いだろう。
「豪胆な王だ。人ではないものが現れたというのに眉一筋動かさぬとはな」
 バズズはゆったりと進み出て、優美な会釈を披露した。壁に伸びた邪神の影が、死神の裳裾の如くゆらりと翻る。
「以後お見知りおきを。三柱神の一神……死の神バズズと言えば分かるだろうか? 大神官ハーゴンの召喚を受けこの世に降臨した」
「ハーゴン……」
 王は苦しげにその名を呟いた。
「遂に邪神召喚の禁忌まで犯したか」
「まるで他人事だな。彼が邪神召喚にまで漕ぎ着けた原動力には、お前への憎しみも大きいようだが」
「さもありなん。実際私は、弟に憎まれても仕方ないことをしてきた」
 王は淡々とその事実を認めつつ、再び腰を下ろした。不吉な存在を前にして、呆れる程の落ち着きぶりである。
「私は弟から最愛の娘を奪い、結果数多の幸福を潰した。私が初恋にあそこまで執着しなければ、弟が狂気に囚われることもなかっただろうと思う」
 王はバズズの本質を見透かそうとするかのように目を眇めた。
「……そしてお前のような悪しき存在が、この世に降臨することも」
 バズズはくっくっと喉を鳴らして笑った。愚かな人間達の愚かな物憂いは何時見ても滑稽だ。
「ではこれからどうする? 世界を危機に陥れた責任を取って、その窓から身を投げ出すか?」
「私が償うべきは私が犯した罪の分だけ。実際にムーンブルクを滅ぼしたのは弟であり、世界を混乱に陥れているのはお前達。弟や邪神共の罪を背負う義務などない」
「成程」
 バズズは頷いた。彼のような考え方は嫌いではない。全てを背負い込んで悲劇に酔う人間にこそよほど虫唾が走る。
「だが今生で弟に会い、頭を下げることは叶うまい。だとしたらせめてあ奴の形見に、私なりの誠意を示したい」
「ほう?」
「コナンが戻ってきた暁にはサマルトリアの王位を継承させる。私が人生で培ってきた全てを譲り渡そう」
 もしかしたらコナンを死地に追いやったことに、彼は後ろめたさを感じているのかもしれない。一時の感情に振り回され、愚行を重ね、新たなる苦悩に喘ぐ……人間はそんな哀れで悲しい生き物だ。
「そこまでするつもりがあるのなら、何故彼に冷たく当たる? 彼の出生は、彼が背負う罪ではないだろうに」
「……」
 王の顔を彩る影が濃くなったのは、伸び縮みする炎のせいばかりではあるまい。恐らく彼自身にもどうにもならぬ感情なのだ。
「だが王よ、残念だが時代国王はこの僕だ。神聖サマルトリアは、死の神バズズの王国としてこれまでになく栄えるだろう」
「決してそのようなことにはならぬ」
 王の双眸に鋭気が蘇った。
「我らには精霊神ルビスの加護とロトの血、そして人としての力がある。邪神よ、人間を甘く見るな。我らは儚く弱いばかりの存在ではないのだ」
「……覚えておこう」
 バズズはにやりと唇を歪め、窓際まで後退した。その気になれば王の首をハーゴンの手土産にも出来たが、不思議とそういう気分にはなれなかった。くだらなくも楽しい一時の礼として、今しばしこの世に留めておいてやろう。
「お前達が星を司る王族なら、僕は影となってそれを覆う。全てが終わった時、お前の前に現れるのが本物のコナンか、彼から人生を奪った僕か……楽しみにしているがいい」
 星空に浮かび上がりながら、バズズは今一度サマルトリアを見下ろす。美しきロトの王国は、癒しきれない傷を抱えているのだとバズズは思った。