声<2>


 興に任せて飛んだ北の地でエルフの娘と出会ったのは、粉雪舞い散る寒い日のことだった。
 夜通し空を飛び続けた私は、東の空が茜色に染まる頃、少し休憩を取ろうと高度を下げた。眼下に広がる冬枯れの草原でエルフを見つけたのはその時だ。
 森の奥深くに隠れ住むエルフが平原にいることは珍しい。私は興味を覚えてその場に止まった。
 エルフの娘は草原を必死で駆けていた。苦しげに息を弾ませ、時折恐怖に引き攣った顔で後ろを振り返るところを見ると何かに追われているのだろう。ほどなくして、私の推測を肯定するかのように、近くの森から数人の人間が飛び出してきた。
 人間達はみるみる娘との距離を縮め、その中で最も足の速い男が娘を捕らえた。もがく娘の上に男が拳を翳した一瞬後、鈍い炸裂音が冷たい空気を引き裂いた。
「さあ、泣け! 泣いてルビーの涙を流せ!」
 男達は口々に喚きながら娘の髪を掴み、左右に乱暴に揺さぶった。
 私はおおよその状況を把握した。エルフの流す涙は赤く、空気に触れるとたちまち凝固して美しいルビーになる。欲深い人間はそれを手に入れんがためにエルフを狩り、拷問を繰り返して涙を搾り取ろうとするのだ。
 自ら生み出す努力もせず、私腹を満たすことしか考えぬ地上の塵め。
 私は口中でバギクロスの詠唱を始めた。娘を哀れんだわけではない。薄汚い人間の薄汚い欲望が嘔気を催すほど不快であったのだ。
 私の放った真空に切り刻まれ、男達は風に散った。痛みも苦しみを与えず消滅させたのだから、私にしては慈悲深い殺し方であったと言える。
 地面に座り込んだエルフの娘は、一瞬前まで男がいた空間を呆然と見つめ、その後のろのろと首を巡らせて地上に降りた私を見た。周囲に立ち込めた血煙の臭いにようやく何が起きたかを理解したようだった。
 娘の小さな唇がおののきながらゆっくりと開いていく。
 魔族たる私を怯えるか、無様に死んだ男達を罵るか。しかし彼女から放たれた言葉は、私の予想とはまるで違ったものだった。
「酷い……なんてことを」
「酷い?」
 私は思わず眉根を寄せた。
「私はお前を助けたのだぞ? それを酷いというのか?」
「何も殺さなくても。人間だって生きているのに」
 私の力を知った上で、私の目を見ることの出来る者は珍しい。震えながらも力強く私を見つめるその眼差しに、私は興味を覚えた。
「お前は面白い娘だ……名はなんと言う?」
「木や花と生活するエルフに名前などありません」
「名がないだと? 犬や猫にさえ名前があるものを」
 私は笑い、哀れなエルフにロザリーという響きの美しい名前を与えた。毛並みの珍しい猫を拾ったような、そんな気分で。


 それからと言うもの、私は時折思い出したようにロザリーの住む小さな森へ赴いた。
 森の奥深いところに住んでいるにもかかわらず、私が尋ねていく時は必ず、ロザリーは木々の間に開けた花畑に出て私を待っていた。何故私の訪問が分かるのかと尋ねると、彼女は木が教えてくれるのだと言って笑った。
 私とロザリーは燦々と日が降り注ぐ花畑に腰を下ろし、愚にもつかない会話を交わすのが常だった。
「ここからずっと南に下ったところにロザリーヒルという美しい村がある。ホビットと動物が住むのどかな場所だ」
「ロザリー……ヒル? わたしに下さった名前と一緒なのですね」
「お前の名前はそこから取ったのだ。どうだ? こんな退屈な森を出てロザリーヒルへ来ては」
 しかし幾度そう誘っても、ロザリーは首を横に振るのだ。
「わたしは森のエルフです。木々と語り、木々を育て、木々を守るのがわたしの役目。この森はわたしの母でありわたしの子なのです。ここを離れるわけにはいきません」
 ロザリーは立ち上がり、花畑の中央に立つ若木に歩み寄った。
「この木をご覧になって下さいな。この子は二年かけてやっとここまで大きくなりました。ゆくゆくは天まで届くような大樹となって、この大地のガーディアンになるんです。この子の成長を見守るのはとても楽しくて、少しも退屈ではありません」
 私は顔を顰めた。魔族の王の所有物たる娘が、木を守り育てることに喜びを見出すような生活を送っているなど他の者に示しがつかない。下級仕官の妾でさえもっと贅沢な暮らしをしているものを。
 だが私の苦々しい表情にロザリーは気付く様子もない。夕焼け色の髪を春風に靡かせながら、彼女は心地よさそうに空を仰いだ。
「今日もいいお天気。わたしはいっぱいに広がる青空が大好きなんです」
 私はロザリーに誘われるように空を見上げた。晴れ渡った初夏の空には雲一つなく、高く昇った太陽が金色の筋を描くのみ。世界の果てまで延々と続く空は、眺めていると心が溶けていきそうな深い青色をしていた。
「……夢見る力も希望を持つ力も、全部空から零れてくる気がします」
 両手で陽光を受け止めながら、ロザリーはそんなことを言った。
「太陽の光も雨の雫も、生きる力になるものはみんな空から降ってくる。だから生きるのに必要な夢とか希望とか、そんな力もきっと空から零れてくると思うんです。ほら、雨が続いて何日も家に閉じこもっているととても気持ちが落ち込んでしまうでしょう? あれは青空から力を受け止めることが出来なくなってしまうからだと思うんです」
 彼女は私を振り返って屈託なく笑った。
「だからわたしはこの子を空が良く見える場所に植えました。沢山の夢と希望を受けて大きくなるようにって」
「下らない」
 私は笑った……これが笑わずにいられようか?
「私は日の差し込まぬ世界で育ったが叶えたいと思う夢を持っている。これは私の心が生み出した結晶であり、空から降って来たようなものではない」
「ピサロ様の夢とは?」
「人間を滅ぼし、魔族の世界を作ることだ」
 予想していた答えだったのか、ロザリーは特に驚いた素振りを見せなかった。長い睫毛をゆっくり二度上下させた後、彼女は私に愚問を投げかけてきた。
「ピサロ様は何故そのように人間を憎まれるのですか?」
「憎んでなどいない。憎む価値もない。不快に思っているだけだ」
「不快に思っているというだけの理由で人間を滅ぼしてしまうのですか?」
「私はそのように父から教育され、父もまた祖父からそのように教育された。私の一族は代々人間を滅ぼすことを目的に生きてきた。だから私もそのように生きるだけだ」
 ロザリーは私の前に腰を下ろし、淡い水色の瞳でじっと私を見上げる。それは初めて出会った時に見せた力強い眼差しだった。
「ピサロ様はたくさんのものを背負っていらっしゃるのですね。王としての義務、魔族の未来、一族の想い……でも魔族の国を作るという夢は、ピサロ様の夢ではなく、ご先祖様から脈々と受け継がれてきた使命ではないのでしょうか」
「何?」
「何時か」
 ロザリーは目を伏せ、私の手を握った。
「何時かピサロ様がピサロ様としての夢をお持ちになったら、それをわたしに聞かせて下さいね。誇り高いあなたの見る夢は、人間を滅ぼそうなどという恐ろしいものではないとわたしは信じています」
 その眼差しは真剣で、口ぶりに皮肉も嫌味も感じられない。
 つくづくおかしな娘だと、私は反論するのも忘れて小さく嘆息した。


 地獄の帝王復活のため東奔西走する私にとって、ロザリーと過ごす時間は何時しかめまぐるしい日々の息抜きになっていた。
 ロザリーとの会話は楽しかった。ロザリーの考え方や感じ方は私と真逆で、予想もしていない言葉が跳ね返ってくるのがとても新鮮だった。なぞなぞ遊びに興じる子供にも似た高揚感に私の胸は弾んだ。
 ロザリーとの時間が楽しいと感じ始めた頃、私は森を好きになりかけている自分に気づいた。ただ木々が乱立しているだけに見える森は、その懐深くに抱かれて注意深く見回せば、空から眺めるだけでは気づかなかった多彩な表情を見せてくれるのだ。
 ロザリーと彼女の住まう森は私にとって未知の存在だった。新世界に迷い込んだ異邦人さながらに、私は訪なう度に新鮮な驚きに浸ることが出来たのだ。
 やがて春が過ぎ、夏が終わり、秋が来た。公務に忙殺されていた私が久々に暇を見つけてロザリーの森に向かったのは、前回の訪問から二ヶ月も過ぎた頃だった。
 真っ直ぐに森を目指して飛んでいた私は、遙か前方に揺らめく赤い光に気付いてふと眉を寄せた。夕日の刻限にはまだ早いし、第一私が向かっているのは北の方角だ。あれが太陽であるはずがない。
「あれは何だ?」
 呟くと同時に速度を増す。そして光の正体を確認出来る地点に来た時、私は思わず喉の奥で唸った。
 ロザリーの森が燃えている。大地と風と水が悠久の時をかけて育てた木の国が紅蓮の炎に包まれている。
 一瞬その場に凍りついた私だったが、我に返るや否や全力で森に飛んだ。
 逆巻く炎は圧倒的な熱風を伴って私のところまで吹き上げた。魔族とて不死身ではない。炎に焼かれればただでは済まぬ。私は分厚い水の壁を周囲に張ると、轟々と燃え盛る森に注意深く近づいた。
 水壁を通しても感じられる熱に舌打ちして、私は更に森の奥へ向かう。
 ロザリーは何処にいるのだろう……既に森の外へ逃げたのだろうか。そう考えた次の瞬間、私は首を振る。いいや、彼女が逃げるはずない。きっとあの場所にいるはずだ。
 果たして私の予想は当たっていた。二人で過ごした花畑、今は炎の花弁が舞い踊る花畑にロザリーはいた。彼女の細い腕は、遠い未来にこの地のガーディアンになるはずだった若木をしっかりと抱きしめている。
「ロザリー!」
「ピサロ様……」
 ロザリーは必死に水の壁を張り巡らせ、炎のあぎとから若木を守っているようだ。しかし如何に豊潤な魔力を持つエルフとて、その力は無限ではない。この火災が治まるまで魔力がもたないことは、誰よりもロザリーが分かっているはずだ。事実こうしている間にも水壁は少しずつ蒸発し、若木の葉が燻り始めているではないか。
「何をしている! 早く来い、焼け死んでしまうぞ!」
「だめ、だめです。わたしが逃げたらこの子まで焼けてしまう。やっとここまで大きくなったのに……」
 木にしがみつくロザリーを引き剥がし、私は全力で空へ舞い上がった。それを待ち構えていたかのように、一瞬前まで私達がいた空間を炎の舌が嘗め尽くす。ロザリーが慈しんでいた小さなガーディアンは、たちまち焼き尽くされて消えた。


 森は全て燃えた。
 火がようやく治まった頃、私とロザリーは森だった場所を見下ろせる崖に降り立ち、黒く煤けた大地を眺めていた。
「みんな焼けてしまいました」
 呆然と座り込んだロザリーが抑揚のない声で呟く。全てを奪われた彼女の横顔はまだ何の感情も映さない。
「わたしはみんなを守れませんでした。銀色の風が吹いてくると教えてくれたあの子さえ守れませんでした……」
「……銀色の風?」
「初めてあなたとお会いした時、風のようだと思いました。広い空を自由に行く銀色の風。なにものにも縛られず空と大地の間を渡る誇り高い風。ピサロ様は風のようなお方だと、わたしがあの子に教えたんです。そうしたらピサロ様が来てくださる度、あの子は銀色の風が吹いてくるってわたしに……」
 どやどやと耳障りな騒音が響いたのはその時だ。
 馬に跨った人間が土煙を上げながら森に近づきつつある。屈強な肉体を持つ男達が次々と馬から飛び降り、森の無残な有様を見て口笛を鳴らした。
「見ろよ、すっかり焼けてるじゃねぇか。乾いた風が吹いてたのが良かったなぁ」
「この森に住んでたっつーエルフは死んじまったのかな? 生け捕りにすればいい金になったかもしれないぞ」
「森の中でエルフを捕まえるなんて無理だって。諦めな」
「この土地が手に入っただけでも儲けもんだ。エルフが住んでいた土地はよく肥えているというから、きっといい畑が沢山出来るぞ」
「イムルは豊かな村になるぞ。エルフ様様だ」
 げらげらと、ざらついた音を立てて人間供が笑った。
 森を焼失させたのは人間だったのだ。新たな町をこの場所に作るために開拓者が火を放ったのだ。
 激しい怒りと嫌悪が私の背筋からうなじを走り抜けた。
「お止め下さい、ピサロ様!」
 森と同じ目に遭わせてやろうと飛び出しかけた私にロザリーがしがみついた。
「何故だ? 何故止める? 森を焼き払った人間が憎くないのか?」
「わたしの愛した森を焼いた彼らが憎くないといえば嘘になります。けれど……」
 ロザリーは今一度森を見つめ、血が出るほど唇を噛み締めた。
「けれどピサロ様に罪を犯していただきたくないのです。罪を犯した分だけ魂は闇に染まり、竜神様は漆黒の魂をお嫌いになって地獄へ落とされるといいます。煉獄の炎に魂が焼かれる痛みには、悪魔でさえも悲鳴を上げるとか。わたしはピサロ様にそんな目に遭っていただきたくありません」
 煤汚れたロザリーの頬を、真っ赤な涙が転がり落ちていく。
「森は何時か蘇ります。大地と水と風の恩恵を受けて、何時かきっと。でも、地獄に落ちてしまった魂が蘇ることはないのです。お願いです、罪を犯すのは止めて下さい。これ以上、わたしの大事な人が酷い目に遭うなんて耐えられません……」
 ロザリーは両手に顔を埋めて体を震わせた。
「わたしはこの森を愛していました……今も愛しています。出来るならもう一度この森を蘇らせて、成長していく姿を見守りたい。でも、だめなんですね。エルフのわたしが住む限り、何時また森が酷い目に遭うか分からない……」
「ロザリーヒルへ来い」
 私は屈み込み、ロザリーの肩に手を置いた。
「……私がお前とお前の大切なものを守ってやろう。もうこんな思いはさせない。もうお前の大切なものを奪わせはしない」
「……」
 私は泣きじゃくるロザリーを抱き寄せた。