声<3>


 私がロザリーを連れて行った村……ロザリーヒルと呼ばれるそこは、実に美しい村だった。肥沃な赤土の大地は春に牧草と花々を育て、秋に豊かな実りを約束する。悠久の時を経てゆっくりと地上に湧き出した清水はどんなに晴天が続いても決して枯れることなく、人々の生活の源となっていた。人々の笑顔、咲き乱れる花々、吹き抜ける一陣の風までもが太陽の光を浴びて金色に輝いている。それは私の生まれ育った魔界では見られぬ光景であり、だからこそ私はその村を愛したのかもしれなかった。
 村の奥まったところにあった古い塔を手直しし、私はそれをロザリーに与えた。私は私のいない間、決して塔から出ないように厳命し、ロザリーはそれをよく守った。
 私が与えたスライムの子はそれなりに無聊を慰めたらしいが、森のエルフであるロザリーにとって、一日中塔に閉じ篭っているのはかなり辛いことだったようだ。
「何か不足はないか」
「いいえ、何も」
 窓辺に立つロザリーが私を振り返って微笑む。森にいた頃に比べるとその笑顔には覇気がなく、美しいが味気のない絵画を眺めているような気分になる。
 彼女は森のエルフなのだ。森にいてこそ生き生きと輝くのだ。一刻も早く外を自由に歩かせてやりたいと思う。
「ピサロ様、ロザリーちゃんは空が見えないのが寂しいんだよ」
 ロザリーの足元にうずくまっていたスライムの子が、そう言って体を弾ませた。
「空? 空なら窓から幾らでも……ああ」
 ロザリーは頭の上いっぱいに広がる空が好きだと行っていた。彼女にとって、狭い窓から見上げる空は空であって空でないのだ。
「だがここにいれば安全だ。……分かるな、ロザリー」
「はい、ピサロ様」
「安心しろ。一生この塔で暮らすわけではない。私は人間を滅ぼして新しい世界を作る方法を見つけた。お前が何の心配もなく外で空を眺める日もすぐ来るだろう」
「ピサロ様!」
 ロザリーは目を見開き、喉を押さえた。
「お止め下さい……そんな恐ろしいことは! わたしは今のままで充分幸せです。あなたの魂が地獄へ落ちるようなことになったら、わたしは……」
「案ずるな、ロザリー。私は天空の竜神さえも凌ぐ存在になる方法を知ったのだ。私の方こそ竜神を地獄へ叩き落してくれる」
 私がそう囁いても、激しく動揺したロザリーはただただかぶりを振るばかりだ。
「それまでお前はここに隠れているのだ。裁きの炎が七日間世界を焼いた後、私はまたここに帰ってくる」
「……お待ちくださいピサロ様……お待ち下さい!」
 ロザリーの悲鳴のような声をマントで振り払い、私はロザリーヒルを後にした。
 ロザリーヒルに匿っている限り安全だと思っていたのだ。屈強な塔と信頼に値する家臣が全ての災いを退けると信じていたのだ。
 だがそれは大きな間違いだった。
 侵略者や略奪者はどのような場所にも如何なる手段を使ってでも潜り込むのだ……私がそうであったように。


 ロザリーが人間の手に落ちたと報告を受けた瞬間、私は分厚い地層を突き破って灰色の空に舞い上がった。激しい憤怒と焦燥で、長年復活を待ち望んだ地獄の帝王を失ったショックなど何処かへ吹き飛んでしまっていた。
 私を風のようだと評したロザリーの微笑が砕け、幾千もの破片になって心に突き刺さる。
 私は風ではなかった。風のように滑らかに、淀みなく、自由に空を飛ぶことなど出来ない。いっそ風に変じることが出来たらと、私は奥歯を噛み締めた。もっと速く、もっと強く飛ばなければロザリーが危ない。
 冷たい風が刃となって吹きつけるのに歯を食いしばりながら、私は必死で眼下の大河に目を凝らした。ロザリーヒルは高い山々に囲まれており、徒歩や馬車でやってくることは困難だ。ましてや略奪を目的として素早い逃亡を心がけるなら、川から海へ下る方法が一番だろう。
 ああ、いた。
 空を映して灰色に濁った川面に、一隻のみすぼらしい船が木の葉のように頼りなく浮かんでいる。薔薇色の髪をした娘が男に蹴られ、壊れた人形のように船底に転がったのを見た瞬間、私の視界は怒りのあまり真っ白になった。
 それから何がどうなったのか……私は良く覚えてない。
 気が付いた時、私は川辺に膝をつき、ぐったりと弛緩したロザリーを抱き締めていた。振り向けば、冷たい流れに小さな木片や肉片がぷかぷかと浮いている。恐らく暴走した私の魔力の仕業だ。
 だがそんなことはどうでもいい。
「ロザリー」
 私は干上がっていく喉からどうにか声を絞り出した。
「ロザリー」
 幾度目かの呼びかけに、伏せられていた長い睫が反応した。
 腫れ上がった瞼が震え、冬の湖のような瞳が現れる。眉を顰めて何度も瞬きを繰り返すロザリーは目が見えていないようだった。不安そうに血まみれの手を差し伸べ、私の輪郭の形を確かめて、ああ、と安心したように笑った。
「来て下さったのですね……待っていれば、きっと風が吹いてくると信じていました。私は弱いけれど、祈ることしか出来ないけれど、木のように待つことは誰にも負けません。忍耐強くありなさいと、森は教えてくれました」
 運命の尽きた魂はどんな回復呪文も受けつけない。私は何度も呪文を唱え、命の力がロザリーの肌を流れ落ちていく様にうめいた。
 私は魔族の王だ。だがそれに何の意味があるのだろう。両手で掬った水が指の間から零れていくように、ロザリーから命が失われていくのを、ただ呆然と眺めるしか出来ないのだ。
「ピサロ様」
 ロザリーが囁いた。
「ピサロ様。人間を滅ぼすなどと恐ろしいことをお考えにならないで……あなたの魂を汚さないで」
「……喋るな」
「恐ろしい野望は捨てて、わたしと一緒にロザリーヒルで暮らしましょう。ホビットと動物と木と花に囲まれて、わたし達はきっと、幸せに、なれます」
「分かった。そうしよう。だからいい子にするんだ」
「本当? 本当にそうして下さるのですか?」
「約束する」
「……良かった」
 花がほころぶように笑ったロザリーの視線がつと空を向いた。透き通った視線が、失った何かを追い求めるように虚空を泳ぐ。
「……空は、何色ですか?」
「何?」
「言いましたでしょう? 夢も希望も、空から零れ落ちてくる。これからピサロ様と一緒に過ごす日が夢と希望に溢れるように……わたしの思い出になるこの日の空は、きれいな青色であって欲しいんです」
 私は運命を呪い、己が無力さを呪い、今にも泣き出しそうな空の暗さを呪った。
「……青だ。あの森の上に広がっていたような、お前の好きな青空が広がっている」
「いいお天気なのですね」
「ああ、とてもいい天気だ」
 嬉しいと、ロザリーは声にならない声で呟いた。
「帰ったらたくさんお話したいことがあるんです。ピサロ様がお留守の間にわたしが思ったこと、考えたこと。わたし達が一緒に見る夢のお話しを……」
 私の頬を撫ぜていた手がそこで不意に滑り落ちた。
 小さな頤が豊かな髪の重みに負けて仰け反り、深く浅く上下していた胸が止まる。頬を流れた涙が大地に砕けたのを合図としたかのように、ロザリーはそれきり動かなくなった。
 私はロザリーがもっと楽に呼吸出来るよう頭を低く抱え直し、名を呼んだ。私が贈った名前にロザリーは返事もせず、微笑みもしなかった。
「私と一緒にロザリーヒルへ帰るのではないのか? そこで一緒に暮らすのではないのか? ……お前は私を置いて何処へ行こうというのだ?」
 ロザリーの白い頬にぽつんと雫が落ちた。のろのろと天を仰いだ私を嘲笑うかのように、隙間なく空を覆う灰色の雲から大粒の雨が降り始める。雨粒は冷たく、無数の針が突き刺さるような痛みが私を襲った。
 やがて雨が雪に変わる頃、私はロザリーを抱きかかえて立ち上がった。


 夜明け前のロザリーヒルは何時もと変わりなく穏やかだ。もうしばらくすればゆっくりと朝日が差し込み、村民がその日の営みを始めるだろう。
 私はロザリーの亡骸を彼女が好きだった花畑に葬った後、ふらふらと塔に登った。
 空っぽの豪奢な部屋にロザリーはいない。この部屋にはこんなにも広く、こんなにも暗く、こんなにも寒々しかっただろうか。
「ロザリー」
 私はいなくなった部屋の主に語りかけた。
「お前の言う通りだった。私はこれまで自分の夢を叶えるために行動していると思いながら、その実周囲の意志によって動かされていたようだ。人類滅亡の夢は先祖代々受け継がれてきたものであり、私はそれを漠然と継承しただけ。決して私個人の夢ではなかったよ……今なら分かる。人間を滅ぼしたいと、腹の底から思う今ならば」
 私は窓の桟へ手をつきふらつく体を支えた。薔薇の彫刻を施した金の窓枠が、私の力に耐え兼ねてぎしぎしと悲鳴を上げる。
「私は人間が憎い。憎くて憎くて堪らない。お前の全てを踏み躙り、お前を殺した人間が。お前が受けた痛みと屈辱を人間に与えられるのなら、私は何でもしよう」
 その日最初の陽光が私の瞳を貫いた。
「私は私の明確な意思を以って、人間を滅ぼす」