いきなり、前頭部をがっぷりと噛まれた。そのまま、びたーんと顔面をふさぐ緑色のぬめったボディに、
「ぎゃあ!?」
と少年が悲鳴をあげる。指なしグローブの表面で『元気なカエル』はずるりと滑った。陽気なカスタネットのごとく景気よく開閉する口は、ふちのギザギザが地味に痛い。おとがいまでの赤茶髪に引っかかったそれを、どうにかひっぺがそうと、わたわたともがく小柄な少年の背後で、
「ええい、何をしとるか!?」
ぎっこんばったんと腕を振り回し、少年よりもひとまわりのっぽな影人形が黄色い目を吊り上げた。フィルムのように透ける体の向こう、オレンジ色に染まる空に浮かぶ雲が、場違いに美しい。
「こんな魔物なぞ雑魚中の雑魚ではないか! さっさと片付けてしまえ子分、余はいいかげん飽きてきたぞ!?」
わめきつつ軽くはたいたフォークそっくりの手によって、どうにか顔面ガエルから解放されたものの、
「ええっ!? そんなあ、スタン……うう、取れないよこれぇ……」
粘液でべたべたする頭と手を振り振り、おっかなびっくり剣を握る少年は半泣きである。
「しっかりしなさい、ルカ君! まだまだ来るわよ!」
と、ぶん、と風を切る音がして、繊細なフリルで飾られたピンクの日傘が、ルカのノースリーブジャケットをぶっそうな速度でかすめた。横殴りに飛ばされた魔物は、一瞬で金貨袋に姿を変え砂地に転がったが、
「う、うわあロザリーさんっ、また……!」
「ああもうっ。めんどくさいわねえ!」
わらわらと集う敵を前に、そう叫んだ女がサーコートの裾をさばきつつ、肩までの金髪を揺らして見事な着地を決める。左手に日傘をぱんと開き、右手にレイピアを構え直しながら、苛立たしげに金属靴で砂利を蹴った。
ルーミル平原の樹木、倒木、草むら、隆起した岩。そのあらゆる陰から続々と現れ攻撃をしかけてくるカエル軍団は、さながら緑の波頭であった。
しかし、そんな緊迫した空気を何ひとつ読むこともなく。
「いやあこれは入れ食いだね、なんというオバケ天国! すごいねオマガだねハラショーだねっ!?」
ぼさぼさ灰色頭の中年男が奇妙に明るい声を上げ、放った赤い図鑑をくるりと華麗なターンを決めながら受け取り、口ひげを震わせて叫んだ。三白眼が、妙にかわいらしくぱちくりとまたたく。
「ちょっとキスリングさん、喜んでる場合!?」
ロザリーの剣幕をものともせず、オバケ学者グッテン・キスリング45歳は顔をくしゃくしゃにして笑い、天に向かって腕をひろげる。勢いあまってネクタイと白衣の裾が激しく揺れた。
「いやもうね、すべてがエキサイティングだよ! 私の読みは間違っていなかった! 不幸なる女勇者の”不幸”効果がここまでとは!」
「不幸勇者って言うなあ!!」
「おいそこの不幸女! 一体いつまでこのしけた原っぱをさ迷えばよいのだ!? リシェロとやらは追えば遠ざかる砂漠の都市かなんかか。今日中に余裕で到着とかうそぶいてたのはどこの誰だ!」
「待ちなさいよそれあんたのせいでしょ!? こんなカエルの巣窟でおたまじゃくしを捕まえようとするから!」
「キサマが”見た目も似てるし、いっそスタンよりこいつらのほうが怖いかもねー”などとぬかすからだ! だから余は実力を示そうとだな」
「はあ!? 何おたまじゃくし相手に本気で張り合ってんのよ!? 意味分かんない、このガキガキガキガキガキ魔王!」
「んだとお、キサマのように若いくせに分別くさいやつよりましだぞ! このフケフケフケフケフケ女!」
「なんですってぇ!?」
「ちょ、みんなっ、それどころじゃ……!」
背後で繰り広げられる漫才を尻目に、カエル軍団とにらみあいながら剣をかまえ、ひとり地味に前線をキープしていたルカがたまりかねて叫ぶ。が、火花を飛ばす不幸勇者と自称魔王影人形からは返事がなく、絶好調でキれていた学者はといえば、今度は図鑑をのぞきこんで微動だにしない。
「あああああ」
なすすべなく少年が呻いていると、目の前でカエルの一体が、ふわりと紅い光に包まれた。
「へ」
などと固まっているうちに、連鎖的に軍団が放った光が周囲にあふれかえり、はっと我に返った女勇者が叫ぶ。
「まずい、アタックアップ呪文だわ!」
「ふん、たかがカエルが生意気な。やつらの攻撃力なぞどーせたいしたことあるまい、気にせずつっ切ってしまえ!」
「アンタまじで無知魔王ね、数の暴力って言葉を知らないの!? 畳み掛けられたらまずいわ!」
「あんだとコラなめくさるのもいい加減に」
「ふむ。ここは私の出番だね?」
と、平然とした声とともに、鼓膜がゆがむような、呪文発動独特の気配が放たれる。誰がリアクションするより早く、
「さあ、そのステッキィな力を私に差し出したまえよ! 魔力吸引!」
学者がふりかざした指先から爆散した白い光が、前方の広範囲を押し包んだ。巻き込まれたカエルたちは一瞬、だが確かによろめく。
「ええっ、全体呪文!?」
そんなの使えたのか、と驚く女勇者に、
「ふー……、これで、さっきの呪文はもう唱えられないはずだよ……!」
額の汗をぬぐい、キスリングは親指を立ててみせる。
「す、すごい! やるじゃないのハカセ! よぉし、皆行くわよ! あたしが血路を開くから、しんがりはルカ君に……!」
と、勢い込んだロザリーが攻勢にうつろうとした矢先。
ばさばさと地面に書籍がひろげられる音が響いた。
そのまま、猛然とノートにペンを走らせ始める男に、女勇者は目をひんむく。
「ちょっ、なにやってんの!?」
「いやいや待ってくれ、このオバケちゃんは希少じゃないか、はじめて見る色だ! これはおそらく元気なカエルのアルビノ、いやもしかして新種!? まいっちゃうね発見者の名前がついちゃうねキスリングガエルだね!」
たしかに軍団のなかに白っぽい個体が跳ねていて、それをうっとりねっとりと見つめながら、クマが黒々と刻まれた目もとをふるわせ、キスリングは悦に浸った。
「たまらないよ、その透けたおなか! なんて魅力的なんだ、ああ…!」
妄言を垂れ流しながら猛然と図鑑をめくりメモをとりまくり、櫛を入れてもひっかかりそうな頭をペン尻で乱暴にかきむしる。
「もっと、もっとだ! もっと動いて全てを包み隠さず見せてくれたまえ! いっそ私の懐に飛び込んできてくれてもいいんだよ!? うん!?」
「……わかった、わかったわ。期待したあたしがバカだったのね、ふふふ、ふふふふふ……やってらんないわ……」
ロザリーの首が、かくんと垂れた。やがて、その口から低く呪詛が響きはじめる。
「……まったく、どうなってるのかしら? あたしを陥れたアホ魔王なんかにつきあわなきゃいけなくなった上に戦力を期待したひとはたいしてダメ稼げないくせに脱線するしせめてリシェロ名物のお魚楽しみにしてたのにわけわかんない理由でカンペキだった予定は狂うしお気に入りの服に粘液ひっつけられるしそういえば朝から髪きまんなかったし……不幸、ええ、たしかに不幸なのかもしれないわ、ね? でもそれって……あたしのせいじゃないわよねえ……?」
そこまで一息に言い切ったロザリーはカッと目を見開く。その表情を真正面から見てしまった少年は、ひとたまりもなく真っ青になって凍りついた。あの口数の多い魔王すら、からかう言葉も失って一緒に凍結する程であったから、むべなるかな。
がたがたと身を震わせる少年に、地を這うような声が淡々と命じた。
「ルカ君。バースト」
「はっえっあのっ」
「いいからやれいますぐだ」
「はいいい!!」
少年は悲鳴と共に、自らの内側に集まったチカラを開放した。右手を振りぬいた瞬間発動する衝撃波で、前線のカエル数体がふき飛んだのと同時に、
「あと5分、いや3分でいいから! 学術的見地が新境地に、ああ! 砂が! 砂が!」
興奮ではいずるあまり砂まみれになった白衣の襟をふんづかまえて、彼女は叫ぶ。
「いいから! 全員! とっとと! 撤退っっっ!!」
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