『ハッピー・ハロウィン・ジャックナイト! 1』 <続く>
目の前につやつやと、バターの香り高いパイがある。
「……うむ?」
スタンはまばたきをした。二、三回。ぼやけた視界に目を擦る。くあ、と喉の奥からあくびが漏れた。
焼き色もうるわしいホールのパイは切り分けられていて、どうやら八等分にしたうち、一切れが既に無いようだ。断面にはかぼちゃのフィリングが鮮やかである。
「……む?」
何かがおかしい、そう思い男は首をひねる。
「ルカ?」
そうだった。パイを焼いたはずの人物が部屋の中に見当たらないのだ。スタンはソファにだらけていた身をのっそりと起こし、リビング兼ダイニングルームを見渡す。二人暮しのこの家は平屋で、あまり広さも部屋数もない。ルカがどこかにいれば物音で分かりそうなものなのに、ランプに照らされた台所にも、暗い浴室や寝室のほうにも気配を感じなかった。
「どこへ……ん?」
と、パイ皿の脇のメモに魔王は気がついた。子分の字だ。適当な紙切れにさっと書き付けたような様子で、
『すぐ戻ります。お客さんが来たらパイを出してあげてね。包み紙も置いておきます、よろしく』
とあった。視線をずらせば、たしかにテーブル上に油紙と細い麻紐の束が見つかる。
(さて、いったいいつから眠っていたのか?)
スタンは頭をがしがしと掻いた。あまり睡眠を必要としない魔族でありながら寝落ちかという自己嫌悪と、この家で気を抜いていられることを思い知らされるくすぐったさが、胸中でない交ぜになっている。
そういえば、今日は朝から「ハロウィン」とやらの準備で忙しなかった。抱えて運ぶほどの大きなかぼちゃを買いに出たり、割れないよう慎重にくり抜いてランタン作りをしたり、完成品にマントを着せて玄関に飾りつけたり。数日前に「お休みとってね!」と頼まれたのはこういうわけかと得心しながら、スタンは新居の村での初イベント準備にいそしむルカを手伝って過ごした。
家事と平行しての準備はなかなかはかどらず、玄関のかぼちゃランタンに火を灯せたのは日が傾いたころだった。それから、くり抜いた中身でパイを作り始めたのだから、頑張り屋の新米主婦子分にしては珍しくスケジュールが押してしまっていた。なので、夕食後のルカはどうにか出来上がったパイ生地を寝かせつつ、甘く煮た熱々のかぼちゃをせっせとつぶしながら、
「あー、ごめんねスタン遅くなっちゃって! 疲れてない? 休んでていいからねー」
と眉尻を下げて、しきりに申し訳ながっていたものだ。慌てて作業したせいか、ベージュのベストにも黒ボトムにも小麦粉が飛んでいた。
「いや、構わんさ、気にするな。それよりお前は大丈夫なのか? なんだったらそのパイ作りは後回しにできんのか?」
「うーん、ここは村はずれだから、たぶんほとんど仮装の子は来ないと思うんだけど。もし来てくれて、お菓子がなかったらがっかりさせちゃうからさ」
「ほう、そういうものか」
「それに、お菓子がないとイタズラされちゃうらしいよ?」
と子分は笑っていたが、一日走り回った身に、フィリングを冷ますまでの静かな時間は長かったらしい。椅子で船をこぐ様子に何度か声をかけたものの、魔王もまた休憩のつもりでソファに転がってからの記憶は途絶えてしまっていた。
と、ふいに。玄関ドアをノックする音が室内に響いた。ルカではない、とスタンは直感的に思い、ルカならばまず「ただいま」と声をかけるはずだと判断が後から追いつく。
「誰だ?」
とっさに問うてしまったが、はてこれは件のイベントの客だろうか、ならばこの対応で正しいのだろうかと首をかしげた。
今朝、八百屋のおかみが何やら、詐欺師のジャックがマヌケな悪魔をだまくらかしただの、そのせいで死後かぼちゃの姿になっただの、ぺらぺら語っていた気がするのだが、いかんせんざっくりとしか聞いていなかった。子分が妙に真剣な顔で聞き入っていたので、そこまで本気ならばと、すっかり任せる気でいたのだ。
とりあえずこのパイを渡せばよいのだろうか、と一つを我ながらいいかげんに包んで、玄関ドアに近づく。
と、
「久しいな、邪魔をするぞ。トリックオアトリート」
「おい待てなぜ貴様が来るのだ!?」
その声に、魔王は勢いでドアに掌底を力いっぱい叩き付けてしまった。ばぁんという音も高く、厚みのある板は弾き飛ばされるように動き、ちょうつがいの限界でがこんと跳ね返る。
抗議のようにぎぃときしむ玄関ドアの外、祭のざわめきと、暗い麦畑に浮かぶランタンの群れを背後に佇むのは、かぼちゃの仮面と黒マントをまとった細身の男だった。足元はふわふわ浮いていて、タロットなのかトランプか良く分からない無数のカードが、男を包むように浮遊している。
「何しに来おったこの奇術師!」
「ハハ、変わらず息災だったようだな、影魔王」
男は悠然と微笑む。仮面は鼻までを覆っているだけなので、白皙に薄い唇が弧を描くのが見えた。
「お前こそ相変わらず、すかしおって全く。しかしなんだその格好は? お前にかぼちゃは似合わんと思うが。頭でかすぎでトンカチみたいになっとるぞ?」
「勘違いするな、私の趣味ではない。残念ながらこれでないと入れないようでな」
スタンが腐してみせても、元幻影魔王とおぼしき男は涼しい顔で、言葉の途中でつい、と手を差し出してきた。細いが骨ばった指を持つ掌を見下ろし、
「あん?」
スタンは怪訝に顔を歪める。
「私はトリックオアトリートと言ったはずだが」
「なんだそれは。新手の手品の掛け声か?」
「……ほかの者から聞かなかったか? 今宵の決まりごとだ。子供らが悪霊に扮し、家々を回る際にかける言葉で、菓子を差し出し客人としてもてなすか、もてなしを拒否し報復を受けるかという意味だ。そしてお前は菓子を出すつもりであったようだが?」
ああ、と魔王は手元に目線を落とした。確かに菓子を提供してやらんでもないと思っていた。しかしそれは村の子供のお遊びに、ルカが付き合いたいと言っていたからである。「引っ越してきたばっかりなんだし。ちゃんとしてないと!」とカッターシャツを腕まくりして張り切っていたからである。断じてこのいけすかない男をもてなすためではない。魔王は尊大にあごを上げ、鼻を鳴らした。
「ほう、大のオトナのくせして、子供に乗じて甘いものをたかろうというのか? お前プライドはないのか、ええ?」
「なんとでも。これもルールだそうだ」
見下ろされた男は動じた様子もなく、しらっと肩をすくめて受け流す。
「この村のか? まったくトンチキな風習だな。お前もわざわざここまで足を運ぶとはご苦労なことだ、ヒマなのか?」
「……」
軽い揶揄にも相手は微笑んで沈黙したまま、突きつけた手を引く様子もないので、スタンはとうとう苛立ち半分諦め半分の舌打ちをしつつ、
「仕方ない、あがっていけ。ここで帰したら、あとで子分がうるさいからな」
と顎をしゃくった。が、
「いや、ここでいい。悪いが、あまり時間がなくてな」
えらくきっぱり固辞され、憮然としてパイを押し付ける。ありがとうと包みをしまった直後、……男の声のトーンがふいに真剣味をおびた。
「さて。魔王スタンよ、お前は今、どこまで分かっている?」
「はっ?」
用は済んだと思っていたところからの唐突な問いかけに、スタンはぽかんとなった。そして即座にむっとする。
「……何が言いたい? 余の対応に文句でもつける気か?」
「なるほど、そうか……。まだ状況が見えていないようだな」
「おいコラなーに勝手に一人で納得しておるのだ! お前そういうところが本気でいけすかないのだぞ! ハッキリ言ってみろこの!」
「あいにく、事情があってな――ただ、これを渡すぐらいならどうにかできそうだ」
「うおっ!?」
言葉とともに、宙を舞っていたカードの一枚が突如目の前に飛び込んで来た。鼻先にぶつかりそうな近さにとっさにたたらを踏む。
(くそ、翻弄されどおしではないか、腹立つ!)
魔王は八つ当たりのように空間にはりついたそれをむしり取った。
「ええい、普通によこさんか! なんなのだ一体……」
見てみるとそれはひどく地味なカードだった。暗闇に、ランタンを持った白ひげのローブ姿の老人がただ佇んでいるだけである。意味が分からず、思わずカードを裏返すが、特に目立つものはない。いかにもタロットカードらしい幾何学模様が描かれているだけだ。
「今宵のお前にはこのカードの意味が重要になるだろう、それは――」
「は? この陰気なジジイがか?」
わけが分からない、と勝手に眉間にしわが寄った。
「話は最後まで聞け。意味が、と言っただろう? 事態を私が読み解くに、おそらくはこういうことだ」
『袋小路に行き当たる時、答えはお前の中に既にある。だから照らし出せばいい。お前なりの答えを世界に示せ』
「あぁ? なんだそれは、さっぱり分からんぞ。一体どういう――」
困惑しつつカードをためつすがめつしていた目線を上げると、いつの間にやら男の姿は玄関から掻き消えていた。遠い祭りの喧騒がむなしく響く中、
「あっくそ、またか! お前毎度毎度その逃げ方はどうかと思うぞこらあああ!」
「まあ、健闘を祈るよ……」
吼えるスタンには、宥めるようでいてどこか面白がっている色の声が返されるのみであった。
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