スタンはひとつ大きく息をついた後、
「……、まったく、よく分からんやつめ……いっそあいつ人を煙に巻くのがシュミなのではないか? でないければいろいろと説明がつかんぞ……」
ぶつくさ言いながらカードを無造作にふところにねじこみ、きびすを返す。後ろ手でおざなりにドアを閉め、やれやれとダイニングのソファに戻ろうとした時である。
妙に聞き覚えのある音楽が耳に入った気がして、足が止まった。それはお気楽な伴奏に、ぽえぽえとしたメロディがいかにもあたまが悪そうで……。
「……ッ!」
(――玄関を封じねば!)
焦りに歯を食いしばりつつ、スタンは猛烈な勢いで振り向いたが、既に遅きに失したようであった。
「第一回、突撃・あのひとのハロウィンナイトおぉ! うふっ、みなさんこんばんはー! 笑顔で楽しく問答無用、謎のアイドル、Lちゃんでーすっ! そしてそしてっ、今回のゲストはぁ!?」
「おおっと、この世紀のチャンプを忘れちゃ困るぜオラオラ! いやー、覆面レスラーっていいっスよね、ミステリアスで! そう思わないっスかアニキ!?」
「だああああ! うるっさい、それ外せ! 全く隠す気なしだろがお前らー!」
大変近所迷惑な音量の、マイクエコーかかりまくりの音声に吹き飛ばされそうになりながら、どうにか耳を押さえ魔王は叫んだ。
無許可で室内に堂々とあがりこんでいたのは、頭にかぶったかぼちゃ面から、これまた堂々と角をはみ出させたコンビである。面の内部はくりぬかれた目鼻口からしか伺えず、身体も黒い立て襟マントにすっぽり包まれているのに、その正体が丸わかりなのはどうしたことか。
「ええーっ、なんでですかぁ? スペシャルスマイルもいつもの衣装も完っ全封印してるんですよぉ!? こんなの逆にレアなんですからね、スタン様っ!」
自称アイドルが、華奢なシルエットにでかいかぼちゃをのせたまま、しなを作る光景はシュールとしかいいようがないし、
「そうッスよ! ふんっ! 年に一度だけ現れる謎のレスラー! はァッ! あえて名乗らないのがイイっスよ、漢のロマンってやつっスよ! ふぬゥッ!」
自称チャンプは、かぼちゃ面の鼻部分からふんすふんすと息を漏らし、マントをひるがえしながらいちいちマッスルポ―ズを決めてくる。色々な意味でカオスであった。
「ええい、お前ら断りもなく押し入りおって! くだらん理由ならただではすまさんぞ!?」
「えー、そんなの決まってるじゃないですかぁ!」
「オレもう腹へって待ちきれないッスよ!」
「なに!? 一体何を言って」
「いっくよー、せーの!」
「「トンリッカクツ、オア、トリーカトラ!!!」」
「……はあ?」
招かれざるかぼちゃコンビから響き渡った不協和音に、スタンは思い切り下あごを突き出し、腹の底から発音した。だから正しくは「ンバァ?」である。とても魔王とは名乗りがたい表情になっているだろうが、もはや気にもならない。
「その奇声はなんだ新手の呪いか!? 豚か鶏どもの鳴き声のほうがまだ聞けるいうものだぞ!?」
「えー? あれ、おっかしいなあ……ブル君もっかいいくよ!?」
「あいよっス、リンダちゃん!!」
「おおおおおい、呼ぶのか!? 今呼ぶのか名前!? さっき伏せた意味いきなりどっかいったぞ!?」
「せーの!」
「「トンリッカクツ、オア、トリーカトラー!!!」」
「……何をしたいのか余にはさっぱりだが」
スタンは真顔になった。「とらー」「らー……」と語尾の音を響かせるわざとらしいエコーが本気で不要だし不快である。だらりと下ろした右手が無意識にわきわきと動く。いっそマイクごとやっかいな客を魔力弾で吹き飛ばしてしまいたい、どうせこいつら頭がアフロになるくらいで済むだろうし、だがルカに頼まれたことはやらねば耐えねば、えいくそなぜ今ここにいないのだオイコラ空気読め子分! と魔王の脳内は忙しい。
「えぇー、リンダ、ちゃんと言ってますぅー! ねー、ブル君でしょおかしいの! ちょっと一人で言ってみてよ、ほらぁ!」
「んあ? あー、全然いいっスよ! ここらでファイト一発決めてやるっス!」
「さん、はいっ!」
突き出されたマイクに、謎のレスラーことビッグブルはこぶしをふりあげ叫んだ。すなわち、
「トンカツ、オア、トリカラ――!!! どっちでもいいっス、今すぐ食いたいっス! オレどっちも大好物なんで! なんなら両方いっぺんでも大歓迎っスよ!? オラオラ、かかってこいやあぁ!!」
やたらにくにくしい主張をであった。高らかに一般家庭ダイニングにこだまする掛け声に、とうとう魔王は黙って、極めて事務的に紙でパイを包み始める。
「んもー、ぜんぜん違うじゃなーい!」
「へ、そーなんスかっ!? オレはてっきり肉好きによる肉好きのためのウマイ肉を祝う祭りかと!」
「ぶっぶー、残念! スイーツって決まってるの今夜は! 正解は、トリック、オア、トリートでしたあ! ブル君、しっかーく!」
「ガーン! 食えないっスか!? 目の前で全部食われるヤツっスか!? ううう……芸能界ってやつぁイケズっス!」
「だああああ!! めんどくさい、どっちにもコレをやるから慈悲深い余に感涙しつつ可及的すみやかにさっさと帰れ! ……おいブル、台所を覗くな! 肉はない!」
これじゃ全然足しにならんっスとしょげるブルと、おいしーとパイを頬張りながら(かけらが床に落ちまくっているが)手を振るリンダに、スタンはしっしっと手を振って背を向けた。もはや見送る気力もわかない。ため息のひとつも出ようと言うものだ。だがそこに追い討ちをかけるように、かつん、と硬質な、床板を叩く靴音。
「なんじゃ、祭りの夜だというのに辛気臭いのう自称魔王。しかし、これはまた狭い家よの……居心地はまあ、悪くなさそうじゃが」
「小娘、なぜここに!?」
今度こそ魔王は、驚きのあまり飛び退りながら叫んだ。これに背後をつかれても、まったく気づかないとはどうなっているのか、いやあるいはこの小娘、よもや女勇者にでも伝授されて気配を殺す術を身に着けたか、とスタンはいぶかる。うっかり否定しきれないから困るところだ。
「ふん、そんなもの、わらわの勝手じゃ。なぜそちにわざわざ語って聞かせねばならぬのだ?」
ほんに自意識過剰な男じゃの、と肩をすくめ、絶妙な角度で顎をくいと上げるしぐさが実に嫌味である。かぼちゃをかぶっていても明確な、おけらでも眺めているかのような目線がびしびしと魔王に突き刺さった。
「しかもわらわは客じゃぞ、客に茶のひとつも出せんのか?」
「ええいやかましいわ小娘。おとないのひとつも入れん無礼者に出す茶があるかっ」
「わらわは声をかけたぞ? 先客が騒いでおったので聞こえんかったようじゃが」
「あいつらああああ……! 厄介の上塗りかおぼえてろこんちくし」
「さて、そこな油断魔王。ルカのこしらえた菓子がここにあるのは分かっておる。隠しても無駄じゃ、疾くわらわに献上するがいい! えーと、なんじゃったかの? ……おお、そうじゃ、トリックオアトリート、というのだったな? 一度、やってみたかったのじゃ!」
ない胸を張り朗々と命令を下した後、一転してころころと年相応に笑う。そういえばこれは「王女という役を演じ続けてきた」娘だった、口で対抗するのは難しいかと思いながらも、スタンは威嚇の表情を浮かべる。そう簡単に屈するわけにはいかないのだ、守るべきこの家の、誇り高い主は自分なのだから。
「渡すぐらいなら報復を選ぶと言ったらどうする、小娘よ。余は徹底的に戦うぞ!」
「ルカの努力が報われなくなるじゃろうなあ。おまえがわらわが追い返そうと大人気なく暴れて家を壊そうものなら。今宵はそういうルールのイベントであって、勝ち負けを競うものではないというに、分からぬ奴よの。そもそもいつも、さんざんルカの料理を独り占めしているくせに、まだ足らんのか?」
「わははは、うらやましかろう。ざまーみろ小娘! ウワッハッハッハ!」
「はぁー……相変わらず程度の低いことよ。ルカも苦労するのう……。あれが今頃、わらわでなくおまえを選んだこと、後悔しておらんとよいがの?」
わざとらしく首を振りながらあてこすられて、
「なにい!? キサマこそいつまで王女ゴッコに夢中でいる気だ。お前そろそろいい年頃だろうが、え!?」
思わず指差して言い返すと、それを遮るようにぱん、と華奢な扇子が開く。黒マントの隙間から伸びた、桜色の爪が彩る繊手に収まる扇子が、顔がかぼちゃであることを忘れさせる優雅な仕草で、笑みの形の口元をすっ、と覆う。
「ひかえよ、自称魔王。言っておくがな、今宵のこれはわらわが望んでやっていることではない。ほぼ、おまえのせいなのじゃぞ?」
「はぁ? 今度は責任転嫁か!?」
「ふふん、何とでも言うがよい。おまえが自分で気づかぬことには、意味の無い話じゃからの」
さて、いつ気づくか、見ものじゃな? と意味ありげにほくそ笑む娘に引っかかるものを感じながらも、
「だまれだまれだまれっ。あーもうやってられるか、これ持ってさっさと帰れ!」
面倒になってきたスタンは包みを押し付けた。
さて、二度あることは三度あるという。こういうのを厄日と言うのだろうか。
元王女が去った直後、バアァァンとドアが開かれる音にうんざりと振り向けば、今度はスタンの知りうる中でもっともかぼちゃ頭に似つかわしくない体格の男がいた。すなわち、魔王の視界を占めたのは、頭の重さに極端な痩身をふらつかせながらも、テナガザルのごとき長い両腕を大きく開いたまま、無言で突進してくる男の姿である。
「……!」
もはや狂気しか感じない。スタンは声もなく、本能に従い全力で避けた。
対して回避されたかぼちゃ頭はといえば、勢いのまま壁に激突するかと思いきや、
「おおっと!」
かかとで急制動をかけ、ふらつきすらも遠心力として利用してのけ、鮮やかにスピンターンを決める。革靴の擦過音とともにぴたっと静止してハイ、ポーズ。ひょろ長いかぼちゃ男は大層キマっていた。悪夢的な方向にだが。
「やあスタン君いい夜だね! 早速だがトリックオアトリートと言わせてもらおう! しかしだね私は甘いトリートよりもトリックにかこつけてこの興味深いイベントについて熱く深く語りたい性分なんだがどうかねもう知ってるよねそこんとこよろしく!」
「来て数分で自己完結すな! この一人ハムスター回し車学者!」
「おおう、いいね滾るね、なつかしいよこの打てば響くような即レス即面罵! さすがはスタン君だ、伊達に私が見込んだ”旧分類世界で芸人に一番近い男”でないな!」
「いったい余のどこをどう見込んだというのだ、何一つうれしくないぞ!?」
「ハハハハハハ、いやあそんなこと言わせないでくれよ照れるじゃないか! と旧交を温めたところでおもむろに始めさせてもらおうかね!」
「させるか、無限ウンチクオヤジめ!!」
魔王は吐き捨てて指をばきりと鳴らし、黙らせようと全力でつかみかかったが、するどい爪の先端はマントのはじを裂いただけでかわされてしまう。というのも、ばさばさとひるがえる布地のどこに”本体”があるのか分かりにくいのだ。痩身を生かした鉄壁の回避術であった。
「いやあ悪いねどーもどーも! では、心置きなく語らせてもらうよ!」
打つ手を考えているうちに、とうとう滝のような言葉の流れがスタンの頭上になだれ落ちはじめた。
「さて今宵この村で執り行われている祭り、ハロウィンとは本来数千年前の古代の祭事に由来するもので、この日の日没から翌日の夜明けまでは彼岸と此岸を隔てる世界の壁が一時カーテンのように薄く揺らぐとされている。これは先祖の霊にとっては狭いながらも楽しい我が家に里帰りできる絶好の機会なんだが、同時に悪霊やオバケまで向こう側からどんどこあふれて来ちゃうもんだから、供犠がわりに”魂のケーキ”と呼ばれるお菓子を渡して、それと引き換えに招かざる客には”どーか悪さをしないでとっとと帰ってね!”と歓待しておきながらにこやかに叩き出す、これがトリックオアトリートの意味だね。オバケからするとなかなかに理不尽だよね、あはは!」
「くっ、今まさにお前の存在がりふじ」
「しかしこの異界からの訪問者としてのオバケにも色々種類があってだね、魔女、吸血鬼、人狼、包帯の亡者に墓場の亡者、幽霊や人魂たちとまあ多種多様なうえ我々の世界でかつて呼称していた”オバケ”とも重なる部分があって非常に興味深いのだが、やはり一番有名なのはカボチャのジャックかな、こんな伝説が残ってるよ。ジャックは元はちょいと怠惰なだけの人間だったんだが、そこにつけこもうとした悪魔を逆にハメるくらいには賢くてね、散々願いを叶えさせたあげく報酬となるはずだった自分の魂をも、悪魔には永遠に渡さないというタダ働きブラック契約を結ばせてしまうんだなこれが。んで、人間大勝利めでたしめでたしで、うわ悪魔ちょろすぎ……? ってなるところだったんだが」
「ぬおおおなんだその邪悪な男は無性に腹立つな! ……って違う! じゃなくてお前こそこれ持ってとっととかえ」
「困ったことが起きたのはジャックが死んだ後でねえ。なんせ悪魔をだまくらかすような男だ、当然天の国は門前払い。じゃあってんで奈落の国に向かったが今度は受け取り拒否にあうわけだ。”このくにはあくまにたましいをうったもののみはいれます”って国の法律にあったんだねおそらく。かくてすべての世界に行き場を失ったジャックの魂は、仕方なしにカボチャに憑依して、世界のハザマをふわふわと永遠に彷徨う存在となりました、めでたくなしめでたくなし、おおこわ! というわけさ。まあおそらくこの物語の意図は、天の存在を無視したり、悪魔をいかに手玉にとっても、結果的に世からはみ出すだけでおトクことなんてそんなに無いですよむしろ大変なことになりますよ〜的脅し兼教訓話なんだろうが、興味深いのはジャックの憑依先としてハロウィンにカボチャが使われるようになったのは実はごく最近のことで、本来は蕪を使い人の頭を模して非常にリアルに作られていたということなんだ。これはくだんの古代人が人間の頭部に霊的な力が宿ると考えていたかフガ」
「か・え・れ!!!!!!」
「モガハハハ! ファファフッファイ!」
かぼちゃ仮面の口のスペースにパイを思い切りねじ込まれた男は、全くめげた様子もなく華麗なピルエットを決め、軸を保って高速回転しながら玄関側へとはけていった。
「……」
訪れた沈黙に魔王は無言で、ソファにどかっと腰を落とした。手を組み額に当て、深く身体を折りうつむく。怒涛の襲撃だった。”まちがったお宅突撃番組コンビ”に”嫌味マイスター元王女”からの”押し売り講師独演”だ。さすがにツッコミ疲れである。
そこに、ドンドンドンドンと借金の取立てのような、ノックというより殴打の音がして、スタンはそのままの姿勢でうめいた。指の間からちらりと横目を飛ばす。
「最後はやはりお前が来るか、ドテカボチャ女……」
まさしく、金属靴の音も高くつかつかと歩いてきたのは、ピンクの日傘をさしたかぼちゃマントであった。
「なぁんですってこのスタミナ切れ魔王! って、あら。なによ、ほんとに元気ないわね?」
「もうお前に構う気も起きん……」
「だったらさっさと出すもん出しなさいよ、あたしだってヒマじゃないんだからね!? トリックオアトリート!」
「強盗か」
「ちょっと、勇者捕まえてなんてこと言うのよ失礼ね! この格好、どっからどう見てもジャックオランタンでしょ!?」
「破魔の金属鎧をまとった悪霊がいるか、どう見ても金気くさい強盗だ。これ持ってとっとと失せろ強盗勇者。この家にはアイテム入りのタンスもツボもないぞ?」
スタンは目を半分閉じたまま、ぞんざいにパイの包みをやる気なく渡す。この女の気配はむしろ分かりやすいから注視している必要も感じない、だいたい動くと鎧の音がするし。
「あー、もう、口だけは相変わらずねえ……。いいかげんしゃきっとしなさいよ、影の時より迫力ないわよグダグダ魔王!」
「やかましいわい」
女勇者は文句を垂れつつきっちり菓子を受け取ったようである。がさがさという音と「あ。おいしそー」などというノンキな感想が聞こえた。
「ふーん、それにしても、平和な感じの家ねー。あんたがルカ君にいかがわしいことや無体を強いているようだったら、とっちめてやるつもりだったんだけど! なーんか拍子抜けしたわー」
「……お前は本当に正義とやらのミカタなのか? 一体何を期待しているのだデバガメ女め。それにしても、今夜はなんなのだ。どいつもこいつも全員雁首そろえて、この村に観光ツアーにでも来たのか暇人どもめ。とんだ嫌がらせだ!」
うだうだと慣れた相手とやりあっているうちに、少し回復した魔王は毒づきながら身を起こす。
「あー、まあ、いろいろと事情があんのよ」
女勇者であろうかぼちゃは軽く肩をすくめるだけだ。イライラのたまっているスタンはその反応に物足りず、底意地悪い口調で食い下がった。
「特にだな、元魔王の連中やヘンタイ学者はともかく、あの偉そうな小娘はビンタぐらいしかできまい。いくら祭りの最中とはいえ放置して大丈夫なのか? お前、以前あれの護衛をやっていただろう、ここで油を売っていてよいのかマヌケヅラ女め。それともとっくに粗相でもして解雇されたか? ククク、だとしたら指摘して悪かったな、嫌味のつもりはなかったのだがなあ!」
「……ちょっと。ひとが黙って聞いてれば勝手に話盛るんじゃないわよ言いがかり妄想魔王! でも、そうね、そろそろ頃合いかしら。あら、でもそういえばルカ君まで、こんな時間にひとりで外出? 家の中にはいないみたいだけど……」
「っ」
魔王ははっとした。冷や水を浴びせられた心持ちで玄関を見やる。そういえば、かぼちゃ襲来騒ぎでいつのまにかだいぶ時間を食っていた。あのメモにはすぐ戻るとあったのに、いくらなんでも遅すぎやしないだろうか。
「おい芋栗カボチャ女、ということはお前は、ここに来る途中でルカを見ていないのだ、な……っ!?」
ロザリーに視線を戻そうとして、スタンは絶句した。ダイニングから彼女の姿と気配が消え失せていたからだ。
「ば、ばかな!?」
思わずスタンは立ち上がった。いくら気を抜いていたとはいえ、宿敵である勇者がどう動くかぐらいは気を配っていたつもりだった。なにせ影の色の問題が解決していないのだ、いつ隙をついて戦闘をしかけてくるかわからない相手である。
それが、今や影もかたちもない。黙って立ち去ったと仮定しようにも難しかった。この家に裏口はない、唯一の出入口である玄関のほうは魔王自身が見ていたのだ。さらにあの勇者特有の動くときの金属音すら一切しなかった。「掻き消えた」と考えるのがいっそしっくり来るような状況であった。
「なにが、起きている……?」
しん、と静まり返る周囲を不意に気味悪く感じた。ドアの外の、浮ついた祭りの気配すらいつのまにかなくなっていて、何の音もしない。微妙にしまりきっていないドアの向こうには灯りもなく、ただ暗く透明な闇が広がっているだけである。
「……」
スタンはまなじりをあげた。どうも、妙なことが起きているらしい。
そういえば、そもそもあのかぼちゃ襲来からしておかしいのではと気づく。最初の3名は今宵この家に現れてもあまり不思議ではない、もともと神出鬼没な連中だ。学者もまあ、ありえなくはないだろう、あのオバケ好きを異様な行動力に転換したと考えれば説明がつく。
しかし、さっきは驚きすぎて気づかなかったが、どうも元王女には違和感があった気がする。あれがここに来る場合、基本子分に会いたがってのことであろうから、まずは本人と約束を取り付けそうなものだが。実際はそれどころか、会話の中でルカの不在を気に留めもしなかったことが引っかかる。
そして、あの意味ありげな言葉も。
『おまえが自分で気づかぬことには、意味の無い話じゃからの』
「……。それに、最初だ。ヤツも、似たようなことを言わなかったか……?」
仮面の奇術師の声が魔王の脳裏をよぎる。普段から意味ありげに話す人物なので、まともに取りあう気にならなかったが、今にして思うと、この状況を示唆するようなものではなかったか。
『お前は今、どこまで分かっている?』
『まだ状況が見えていないようだな』
『まあ、健闘を祈るよ……』
「一体、何に気づけというのだ……?」
つぶやいて、スタンは改めて周囲を見渡した。
かぼちゃおばけ撃退のために消費していったパイは、今やテーブルの上で残り一つとなっている。
スタンはふと思い立って、指折り数え始めた。
「ふむ……気障奇人、猫被りアイドル、揚げ物レスラー、ままごと娘、立て板に水学者、重金属女勇者、と。……あいつらに渡したパイは全部で6個だな。で、残り1個がこれ、と。そうなると……なぜ、最初の1個はなくなったのだ? ルカが持って出たのか?」
(なんのために?)
と、そこまで考えて電撃のように脳内で情報が結びつき、スタンは文字通りその場で跳び上がった。
「こ、こうしてはおれん!」
――今宵は異形の者が家々をおとなう特別の夜である。魔王が眠り込んでいる間に、最初の訪問者が来ていてもおかしくはない。あのメモが走り書きだったのは、客に応対する前に、ルカがスタンへと書き残したからではないか?
そしてもし、その最初の訪問者が、仮装しただけの子供らにまぎれた、やっかいな力を持った『本物の悪霊』であったとしたら――?
ルカはたしかに戦闘の経験こそあるものの、その力を行使しなくなって久しい。あの冒険以降はすっかり一般人の生活をしているのだ。それでも心得のない者と比べれば少しはましな抵抗ができるだろうが、強力な呪いでもかけられたら、どうなるか知れたものではない。
「くそ、何を腑抜けていたのだ魔王スタンっ。おのれ、何者か知らんが、余の子分に手を出すとはいい度胸だ。死ぬほど後悔させてくれるぞ……!」
スタンは、念のため残りのパイを引っつかむと、叫びながら玄関ドアへと突進した。
「無事でいろ、ルカ!」
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