第十二話〜再会〜


日が間もなく沈む。
簡易の使い魔から仕入れた情報で、嶺峰湖華という人はこの帰路に付く事はもう知っていた。
私と嶺峰さんが出会った時にお話しする内容は、あんまり大勢の人前で大見得きってお話できるような内容ではないのでなるべく人通りの少ない場所で話したかった。
でも、まぁここなら結構大丈夫かもしれない。
周辺に人通りは殆ど皆無。
遠くから聞こえる子供が帰路に着く声と、列車の汽笛音だけが、夕暮れのこの場所を包み込んでいってくれている。
放置されて、もう使われていないかのように人がまったく居ない公園の滑り台の上。
その人が通りがかるときを待つ。
向かう視線の先は、今まさに消え入る一瞬前の蝋燭の様に眩い輝きを放っている沈みかけの夕日と、その陽光を一身に弾き続け星のようにその湖面を瞬かせている島の浮いた大きな湖。
それ以外には何も見ない。というか、実はそう言う余裕があんまりない。
これから会う人は、一時は人間ではないとまで判断してしまった人。
人とは違う生き物だと判断してしまった驚異的な"生物"だ。
そう考えるとますます浮き足立って、考えられる事が限りなく限定されてしまう。
大きく深呼吸をして、まっすぐに立つ。
嶺峰湖華と言う人物がどんなものなのかまだ解らない。
実際話しかけて見れば、見た目の印象ともだいぶ違うって言うのは良くある事だもの。嶺峰さんも、きっとそんなタイプの人だと信じたい。
でも、実はこれは単に私からの要望に過ぎない。
そうであって欲しい。そうでないというのなら、私は、きっと、狂う。
だから話したこともない、いやいや、話した事はあるけど、あれは会話ってもんでもないかな。挨拶程度の交わりだったから、まだ解らない。
兎も角、そんな人に、私は淡い期待と言う名の信頼を抱こうとしているんだ。
どちらにせよ、あの人が私を魔法使いと知っている以上、ほおって置く訳にはいかない。
誰とも交流がない人であろうが、周辺から拒絶の対象でしかないような人であろうが、私は魔法使いとして魔法使いの役割を果たさなくっちゃいけない。
誰であっても変わる事のないことだけれど、今回ばっかりは流石に肝が冷えていたりもする。
何せ相手は得体の知れない生命体。人間の姿をした、別の生き物と呼んだって差し支えもないような命の形を持っている人。
そんなのを相手にするって言うのなら、実際問題、あの吸血鬼の相手とかを丸一日討論していた方が、まだ気が楽かもしれない。
小さなため息。これ以上の自問自答は自分の身体にも、精神もすり減らすような真似にしかならない。
後悔と言うか、諦観するのも最早此処まで。
魔法使いとしての意地、魔法使いとして生きていくもののあり方をしっかり持って。ゆっくり、小さな足音の鳴る登りの坂道へと目を向ける。
その人物の背後には、満々と水を湛え、磨き上げられたかのような輝きで夕日を弾く湖。
彼女はその名の通り、湖の端に咲く華の様な優雅さで坂を上って来た。
全身が泡立つ。
次の瞬間に泡になってしまっても、実は、もうとっくに泡になっていて風が吹いただけで掻き消えてしまうんじゃないのかってぐらいの虚無感の中に立っている。
だから、実際に真正面から風が吹いて全身を駆け巡っていくだけで、吐き気とかがものすごい。
綺麗なものの前に立っただけで、吐き気がするって言うのもおかしな話だけれど、幾らなんでも綺麗過ぎる。
逆光で顔は見えない。
顔は見えずともその威圧感、多分意図せず、故意ではない威圧感。周辺の人が勝手に感じ取るだけの、彼女本人からすれば迷惑なだけだと言うその威圧感を、一切和らげる事もなく。
いや、そも彼女自身あの威圧感を理解出来ていないだろうから、弱めるとか、そう言う判断基準さえもなく、一歩一歩、普段通りの帰り道を行っているだけにすぎない。
滑り台の上から飛び降りる。
周辺に人影は、一切ない。
それどころか小鳥の囀り、木々のざわめき、流水のさざめきさえも聞こえない。
ただ、背後に夕日の輝きだけを湛えた彼女のみであるかのように。彼女だけが今現在、アーニャ=トランシルヴァニアに謁見する事が許されているかのような、そんな静謐。
風があるのに衣擦れの音もないなんていうのは、あまりにも異常かもしれないけれど、今は深く考えているような余裕はない。
正面きって前に立つ。
距離は、あの教室よりももっと狭く、けれどその存在感にはまだ遠く、ほど遠い距離。
同じような存在など二人はいないだろう、その圧倒的な、威圧感にも取れるような存在感。どこか知っているような気がする、同じ気配。
無視には至れない、誰であろうが、何であろうが、見た以上は、認識してしまった以上はなんらかの感慨を抱かずには居られない、その存在感。
無視するしか他にはないと言うのに、完全な無視をそも許さない存在感。
近くに居れば、自分がかすんで消えてしまう、自分など必要ないのだと宣言されるにも等しい存在感と言う名の威圧感を以って、嶺峰湖華と言う人物が、私の前に再び立った。
彼女は何も言わない。ただ、あの教室で見せていた笑顔を返すだけで、声も出さず静かに笑みだけを返してくれている。
気が狂うかと思っていたけど、まだ平気みたい。
いや、実際脂汗とかは酷い。緊張感も、心臓の高鳴りも消えずに未だ胸の裡。
緊張を解くなんて真似をしでかせば、恐らく自身の心臓の高鳴りで心臓を破裂させちゃうんじゃないかなと、確信にも近い予感を感じてる。
私も、声が出ない。
出せないじゃなくて出ない。
考えが、喋るとかそういった器官を完全に支配しきって会話と言うコミュニケーションを成り立たせようと言う気が一切沸き上がってこない。
そも、この人とコミュニケーションを成立させることなんて可能なのかな。
目の前の女(ひと)は、私たち普通の感性、と言うか人間的な感性では理解できないにも等しい。
そも、理解できるとかそうだとかと言うことに先ず当てはまらず、当てはめられない。
なら、会話によるコミュニケーションでさえ成り立たない可能性すらある。
こんな人間が存在していると考える事さえ理解不能。思考が全て、彼女の眼前で掻き消えていくかのような錯覚の裡で―――

「――――ご挨拶を」

あの夜に聴いた、人身御供を捧げて挙げられた鐘の様な、どこか深い虚の様な韻を含んだ一声が、届く。
だと言うのに、全身が引きつるような旋律を感じ取っている。
理解できない発言。理解に至れない、その一言。
何の一言なのか、何を意味するのかがまったくもって解らない。
でも、一つだけ解る事がある、それは私を見ても一度として私に対して不思議そうな表情はしていないと言う事。それは、つまり。彼女は、やっぱり私の事を。

「――――ご挨拶って、何」

的外れな一言だったかもしれない。
とっとと核心に入ってしまえば、長い間こんな思いをしなくったって済むって言うのに、どうしてそんな一言が口から紡がれたんだろう。
でも、何となくそんな的外れな一言を紡いだ理由が私は、私自身で理解していた。
つまりはこう言うこと。
この人の近くに居れば、自分は限りなく霞まされる。それこそ存在意義の全てを否定されるも同意義なほどに。
だからこそ、なのかも。もっと近くに居たい。どこまで居られるのか、いつまでこれほど綺麗なものの近くに居る事が出来るのか。
そういった興味、好奇心ともいうべき、いつかは身を滅ぼす事となる、出すぎた好奇心が私をその場で縛り付けていたんだ。
私のそんな一言にがっかりしたように、でもどこか嬉しそうに嶺峰さんは笑っていた。苦笑、とでも言うのかな。
でも、それにしたってその色が失われるような事はない。むしろまた新しい一面を知ったみたいで、なんだか心の中に小さな期待感が生まれてくる。
けれど、それでも威圧感は消えない。
あの、圧倒的な存在感。無視は出来ない、無視するが吉と知りながらも、無視が出来ない。

「この間、ご挨拶してくださりませんでしたから」
「―――え?」

唐突な一言と共に、悲しげな視線が流れている。それに応じて、全身を支配していた緊張が解けたような気がした。
普通の会話を交わしただけで、こんなにも身体が楽になるなんて、正直信じられないでいる。
たった二言。僅かな二言だけど、私とこの女(ひと)は意思疎通をしていたんだ。
会話によるコミュニケーションも成り立たないと思っていたのに、たった二言で近づけば消えると言った緊張感も消えうせてしまった。
それで、なんとなく気が付いたような気がした。
この人は、本当は普通の女の人なのかもしれない。
確かに、抜きん出て綺麗とか、そういったレベルのお話じゃない。
近づけば嫉妬よりも何よりも、その美しさに対する畏怖の念が先立ってしまうのは相変わらずなんだけど、それでも理解できないと言うほどじゃないのかもしれない。
ああ、ひょっとしたら本当にそうなのかもしれない。
この人は、こんなにも綺麗だから誰からも倦厭されてしまってきたんだ。
それは周辺の人たちが自分を自分として至らしめうるために必要な事だったかもしれないけど、でもその所為で一番被害をこうむっていたのは、目の前に立つ、この女の人なのかもしれない。

「申し訳ありません。私(わたくし)の勘違いだったのかもしれません」

軽い会釈と共に、嶺峰さんは私の横を通り過ぎていく。
擦れ違いざまに見た、僅かに曇った小さな微笑。
私は、この人の笑顔が怖かった。何もかも知り尽くしているかのような笑顔。余りに深い瞳と、余りにも暗い虚を含んだかのような笑顔が怖いと思ったけど、それはひょっとしたら、この人の精一杯の意思疎通の徴だったのかもしれない。
笑顔と言う意思の証明。
いつだって表情を崩さないのは近づいて欲しいからなのかもしれない。でも、その笑顔もその圧倒的過ぎる存在感と、畏怖に匹敵するほどの美しさがより深いものにしてしまう。
その深さを誰も理解できないから誰だってこうして会話を成り立たせようとはしないんだ。
近づけば霞むのは当たり前。
今の私だって、きっと限りなく霞んでいると思う。
でも、自分の事を大事に思うよりも先に、目の前にそれよりもっと辛い拒絶を味わい続けてきた人が居る。
魔法使いになった意味。
魔法使いとして、どうするべきなのか。
救うと言うのは、命を救うと言う意味合いだけじゃない。どこからでも救い上げてあげること。それが助けると言う事。
だったら、私は。

「待ちなさい」

振り返る黒髪の女(ひと)。夕日を浴びて踵を返す姿は本当に綺麗。あまりにもコントラストが素晴らしすぎて、人間ではありえない、生き物としては異常すぎるコントラストを醸し出す。
私だって思う。抜きん出て綺麗とか、そう言うレベルには当てはまらない。
彼女の美しさは、とっくに人間的な領域を凌駕して、人間が見れば異様なものとしてしか見れないものになってしまっている。
私だって感じている。彼女の美しさは、人間的な美しさって言うものじゃない。
どちらかと言えば自然的。緑が綺麗だとか、川の水が綺麗だとか。そう言う自然的な美しさと同じなんだって思う。
誰が見ても心安らぐと思える事があるように。彼女もまた、誰が見ても、彼女の美しさは異常だと感じてしまう。
それが壁となっているんだ。
彼女は普通の人とは違うかもしれない。
いや、大きく違う。まったく違うとも言い切れる程に、決定的な違いを内包している。
その違いは私たちには理解できない形となって、多くの人間は彼女を敬遠するでしょう。
人間って言うのは、きっとそう言うもの。
理解できないものは理解しようとして如何なる手段も講じるけど、それでも理解できないもの。
そう彼女を喩えと置くならば、同じ人間であると言うのに、同じ人間とは思えないその存在感と美しさ。
こればっかりは、どんな手段を講じたってどうしようもない。
そも、誰かの魅力とか、存在感を測る方法自体が存在していないんだから、どうしようもないのは当たり前。
だから誰もが敬遠する。
自分から遠ざけて、そも無いものとして扱ってしまう。
自分を保つためには仕方のない行為かもしれないけれど、それにしたって守れられるのは自分たちだけで、彼女の事は誰も守ってあげられない。
いや、彼女から自身を守るので手一杯になってどうしようもなくなっているんだ。
一番苦しいのは、彼女なのかもしれない。
彼女はきっと自身の魅力って言うのは理解できていない。だから、皆が自分を敬遠する理由だって解っていないのかもしれない。
いや、きっと、そうだ。
断定する。彼女は自分がどうして周りから浮いているのかを理解できないでいる。
だから、皆から無視され続けていてもああして学校へ通っている。
理解したいんだと思う。どうして皆が自分を敬遠しているのか、何故誰も自分に顔を向けてはくれないのか。
きっと悲しいとかはない。
ただの疑問。子供のような"何故"。
それが、今の彼女を成り立たせている構成材料。
風に吹かれて、黒い髪が靡いている。
これだって十分綺麗だ。
先日の夜、月光をも弾く銀髪だって想像以上の際だたしさを醸し出していたけれど、この黒髪だってかなりのもの。普通の人、まともな人間では絶対に出ないであろう美しさ。
よく見ればやや幼げな、けれど大人びた表情も。深夜に覗き込むような、深紅の血を湛えたかのような眼差しも。全てが人間として逸している。
怯えも震えも、もう大丈夫。丁寧な言葉遣いも、この際関係ない。
彼女が笑っていた理由がなんであるのか、私の勘が正しいのなら、その理由は一つだけの筈。
でも、それはまだ私の中の断定であって、彼女にとっての断定ではない。だから、私はちゃんとしなくちゃ。

「――――こんばんは」

あの夜応えられなかった一言。
これが欲しかったのだと思う。応えたのはレッケルであり、彼女はソレを知っていた。知っていたからこそ、私へ言ったんだ。ご挨拶、と。
確かに、あのときの私は彼女へ夜のご挨拶は交えなかった。
ちょっと生真面目な、時折ボケをかましてしまうレッケルが偶然にも応じただけ。
私は、突然の事で、驚いていたのか、それともそれでも冷静さは失ってなかったのか。兎も角、彼女の挨拶へ声は返さなかった。
それをここで返そう。
もうすぐに、夜。先日の夜と同じになるかどうかは解らないけれど、この挨拶は先日の分と、これからの分。
まったく、唯でさえ忙しいって言うのにこれから、きっとまた私は忙しくなる。魔法使いとしても。そして、何となくだけど人間としても。
まぁ、でもそれもいいかなとも思ってみたりもしている。
さっきと境遇は真逆。
夕日を背中に浴びるのはこの私で、風に髪を靡かせ夕日に照るのはあの嶺峰さん。
真っ赤な夕日に染まった真っ白い肌。その真っ白い肌と、真っ黒い髪を持ったその人が、あの教室で見せてくれたのと、同じ笑顔で笑いかけていてくれたから、ね。

―――――

「さあ、どうぞ頂いてくださいませ」

進められるのは丁度手前に運ばれてきたの琥珀色の液体。まぁ、早いお話がお茶だわね。
種類は何なのかは知らない、適当に注文したものだからソレが何であるのかなんて知るべくもない。
目の前に腰掛、見るからに優雅な佇まいを見せていると言う彼女もまた、目の前に在る紅茶がなんであるのかは知らない。
見掛けと趣味を混同しちゃいけないっていうのは良い教訓になったと思うわね。
外見や挙動が優雅である、即ち、優雅な趣味を持っていると言う事とはつながらないって事。
場所は学園の外れに在る、人影もまばらなカフェテリア。
巨木の真下に在るカフェで一息、と行かないのが私のやり方。
私も嶺峰さんも、お互いに人前でどうにかするとか言うのは似合わないタイプ。
いやいや、似合わないって言うか、そも私は魔法使いで、どれだけ信用しようとも一般人には自分をさらけ出せないし、彼女もまた人前においては誰からも敬遠される拒絶対象。
ああ、そう考えると私と彼女はある意味で同類で、ある意味でまったく逆に位置している者同士なのかも。
他者に対して本来の自分は見せず、常に一歩置いた雰囲気で周囲から自分を切り離している私と、他者に対して意図はせずとも距離の開く雰囲気を醸し出し、開いた距離を保ち続けている彼女。
ほら、似たもの同士でまったく逆。
まぁ意図せずか、故意なのか程度の違いのように見えて、実際はお互いにどこか自覚できていると言う部分が似たもの同士よね。
まぁそれを言わないのもお互い様。
お互いに指摘しあうような欠点でもないし、語り合ったところで到底解決の策が見当たるような話題でもないからね。
そも、私は魔法使いで人は選ぶタイプの人間だ。
同じ魔法使い同士だったらまだしも、彼女は一般人、ちょっと特殊かもしれないけど、それでも一般人であることには変わりないから迂闊な事とかを言うまでもない。
尤も、お互いに相手の一番深い姿を知っているようにも見えなくもないんだけどね。
さてと、それではまったり紅茶を啜り飲んでいるような余裕も無い。
魔法使いとして解決できる事は速やかに。それでも、この人も困っているって言うのなら見過ごす事はしちゃいけないですからね。
ああ、マギステルって本当に大変。
で、いざ口を開こうとカップを置いたところで。彼女の手がゆっくりと、私の喉元へと刺し伸ばされていた。
息する暇もなく、息が止まった。
今までで一番の接近。それも、肌と肌が触れ合うぐらいの超至近距離まで彼女の手が伸びている。
それだけでも緊張感数割増だって言うのに、加えて目の前であの笑顔をされるともぉ正常な思考回路が働かなくなっちゃう。
まだまだこの女(ひと)の雰囲気は十分に生きている。
私の存在感なんて、彼女の近くに居れば霞に霞んで霧紛れの雲みたいになっちゃってるでしょうね。
そこにあるって言うのに、ソレに飲まれて認識できず、あるいは、認識されず。

「御出でませ、おちびちゃん。大丈夫、他にお方はおらっしゃられませんわ」

嶺峰さんの指先。人差し指が私の胸元入り口に軽く触れると、ぴょこっとレッケルが顔を出す。
その顔は、なんと言いますか照れくさそうと言うか、慰撫しかんでいる、怪訝な顔立ち。まぁ嫌悪の顔立ちよりはまだいいほうよね。
それより驚くべき事は、やっぱり彼女の、その理解不能な行動パターンだろうか。
彼女は私の胸元にレッケルが居るって知っていたとでも言うのかな。
私はレッケルの事なんて一言も話していないし、ましてや他に人がいたら困るような事までも知られているなんて。
それが指し示す意味。会って、あの笑顔を向けられたときから何となく気が付いていた。
彼女は知っている、と。
何を知っているのかは解らないけど、彼女は、嶺峰湖華と言う女は、私に関する事。
あの夜に見た、全ての事を理解できているのだと直感的にも似た感じで読み取っていた。
それが当たっているかどうかは、もぉ一目瞭然。レッケルの事を呼び当てた時点で、もう疑う余地はない。
腕を伝わせて、レッケルを嶺峰さんの前へ。
幸い、他に人は影はまったく見えない。まぁ、レッケルの事はゆめゆめお話しする気でいたからこういった人目の付かない場所を選んだんだけどね。
店員さんの姿も見えないだろうし、ひそひそ話し程度なら、レッケルが喋っているのに気付く人はあんまりいない。
近くに来れば別だけど、今は近づいてくるような人も居なさそうなので、安心、出来はしないけどとりあえずはレッケルを離す。
そうして、嶺峰さんが立ち上がる。
長い、特注の品であろう学園の制服のスカートをふわりと舞い上げて立ち上がり、社交会場の貴婦人のように、そのスカートの裾を抓んでレッケルに深々と頭を下げる。
うん、人前だったらこれは大変な光景だと思う。深窓の令嬢、蛇に頭を下げるの巻。
こういった行動も全然読めない。つまりは、次にどういった行動を行うのかがまるっきり理解できないんだ。

「昨夜はご挨拶有難う御座います。まさか貴女の様な方からご挨拶いただけるなんて。湖華は幸せ者でありますわ。
改めて自己紹介を。私(わたくし)、姓はネミネ。高嶺の花の嶺に、連峰の峰と繋げて、嶺峰。名はコハナ。湖の華と書きましては、湖華と申し上げますわ」
「ふみゅ。レッケルですですぅ...あ、でもでも、私よりもアーニャさんの方にご挨拶をして欲しいですぅ」
「これは失礼致しましたわ。レッケル様の...主様であられましょうか?相違御座いましたのならお叱りの程を。
私、姓は嶺峰。名は湖華。
昨夜の程はお赦しを。私、あのような場においては優先すべき事を優先するべきと判断いたしまして...貴女様へのご挨拶のみで終わらせてしまいましたわ。
それでもまたお会いしていただけるなんて...まったくもって湖華は幸せ者でありますわね。この僥倖、貴女様から得られた幸と見定めては感謝を述べましょう」

まったく同じように。けれど、レッケルの時以上に礼儀正しく、まさに直立不動の体制からスカートの裾を摘んでの社交界で交わすような挨拶を私へ向けてきてくれた。
相変わらず、顔は笑顔。人の心を暖かくさせられる笑顔なんだけど、彼女の笑顔は深すぎて直視もままならない。
闇を覗くときは闇に覗かれていると知れって言葉があるんだけど、彼女から見られるとまさしくそんな感じがする。
訳のわからないもの、闇の奥に居る、ありもしないものに覗かれている。そんな恐怖にも似た不安を抱いてしまうから、闇は深く、怖いんだと思う。
でも、彼女と闇では決定的に違うところがある。
ソレは簡単。闇は覗き込まなきゃ、覗き込んだ人は、覗かれているって認識しないんだけど、彼女は、こっちが覗きこまなくったって覗き込んでくる。
深い、見ていると奈落へ落ちていくような錯覚を感じる、深紅の眼。

「...それならこっちも挨拶しないわけにはいかないわね。私はアーニャ。アーニャ=トランシルヴァニア。一応外国人よ。あ、レッケルとは主従関係じゃなくて友人、家族関係よ。忘れないで、忘れてもいいけど」

なんとか視線に耐え切って、こっちも椅子から降りて淑女の嗜み。
ローブの裾を摘んでの、失礼のない態度。ある意味では、対向するかのように精一杯の気力で礼を交える。
で、顔を挙げると、やっぱりあの笑顔。
儚げで、奥の深い、井戸じみた虚を湛えたかのような眼の、でも気味が悪いほどに綺麗な、笑顔。
ああ、やっぱりそう言うことなんだ。
この笑顔は、私の一動一言に絶え間なく降り注がされている。
私が一言発して、その声が彼女へ向けられていると知るや、彼女は笑う。私の行動が彼女に通じていると彼女が知るや、彼女は微笑む。
嬉しいんだ。彼女は、私にこうして何かを向けられている事が何より嬉しいんだ。
だから笑っている。
絶え間ない笑顔。今にも泣き出しそうなほど儚く。今にも見惚れ堕ちてしまいそうなほど危うげな笑顔。
けれど、近づく全てを跳ね除ける、意図せず作る拒絶の笑顔。
あまりにも儚すぎて、誰も触ろうとしない、誰もが近づけば霞んでしまうから、誰もが認めるわけにはいかないその存在。
この光景を見れば、私なんて誰の目から見ても認識なんざされやしないでしょうね。
彼女の存在感が、完全に私を消してしまっている。
でも、他の皆が認識していいのは私だけだ。
彼女は麗しすぎる。麗しすぎて、奇怪。
見てはいけないものを見ているような錯覚に陥らせる異形。
だから、誰も彼女は見ない。
見れば眼が潰れるのか、それとも見れば私が感じたように気が狂うのかは解らないけど、とにかく、私と彼女。今のこの光景を目撃した人は、先ず彼女を見てその後に、彼女を見なくなる。いや、見れなくなる。
その後はどうなるのかは知らない。ともかく、誰であっても彼女の近くにはいたがらないから、結局は二人ぼっちに戻っちゃうかな。
ともあれ挨拶は完了したんだ。いつまでも立っているわけにも行かないので、お互いに席に着く。
で、またレッケルの順応の早い事早い事。
早速嶺峰さんの頭に上ってしゅるしゅる言っているわけですよ、まったく。
仮にも魔法使いの使い魔なんだから、もうちょっと一般人への付き合い方っていうのを考えて欲しいものだわね。
まぁ、レッケルがいい人だって言うんだからいい人には間違えないとしても、そのぐらいはね。
さて、とお茶を一杯だけ啜る。
あんまり悠長にしている状況でもない。
私は魔法使いとしての役割をしなくっちゃいけないわけなんだけど、勿論それは目前で私がお茶を啜る姿でさえも微笑で返してくれている彼女であっても変わらない。
変わらないには変わらないでも、聴きたい事とかはある程度聴いておかなくっちゃいけない。

「で、私がなんであるのか解る?」

余りにも変な質問なのに正直自分でもちょっとソレはどうかなと考えた。
"なんであるのか"なんてどんな質問よ、まったく。
でも、それは余計な詮索も何もいらない。直球勝負で本心を聞き出す。
先日の夜に、彼女は私と一緒に居るしゃべる蛇、レッケルを見ていた。
今も、レッケルが喋ったのをちゃんと知っていたからこそレッケルを呼んで自ら招いた。ならば、彼女は私をどう見ているのか。

「魔法使い様でしょうか。
夜にそのような出で立ちで歩いている方は魔法使い様だと母方様からも窺っております。
人語を解する小さき命を携えしは夜に外套を翻す少女。ええ、正(まさ)しくアーニャ様は魔法使い様そのものですわね」

ふわりと、彼女は一般人ならば躊躇う様な一言をなんでもないかのように告げて、またなんでもないかのようにいつものあの微笑で私を見送り続ける。
正直、そう返された時は咽るかと思った。
だって、私の質問だってそうとうアレだけど、彼女の返答だって相当アレだ。
まともな人が聞いたら何事かって耳を疑うような発言連発。こりゃ私自身もそうとうてんぱっているみたいね。
頭をなんとか冷やそうと紅茶に口をつけた時点で、ある矛盾を感じ取った。
彼女に私が魔法使いであると話した覚えはない。
覚えがないと言うのに彼女は私が魔法使いであると、一寸の躊躇いもなく告げて見せた。
それが、何を意味しているのか思考したとき。背中が凍りつくかとも思った。
会ったときから感じていた背筋が凍える感触。
彼女の恐ろしいところはそこだ。
彼女は根本から間違えている。
彼女は時として、いや基本として彼女は一般人世界に生きて、ちゃんとした常識の範疇内で行動できる"普通の人"でありながら、その思考回路は私たち魔法使い以上に、きっと悪魔とかそういった方向性よりもっともっと複雑かつ、その、異常としか言いようのない独自性を発展させてしまっている。
言わば、新種。見た事もないような、人の形をした、別種。
それが恐ろしい。あまりにも恐ろしい。
自覚していないのだろう。彼女にとってはそれが正常なのかもしれない。いや、きっと彼女はそう言う風に育ってきたんだ。
異常としか言いようのない思考回路でありながら、一般世界と言うあまりにも普遍的な日常世界で生き続けて生きた。
その異常を、どう表現しろって言うのよ。
まるで、綱渡りのような生き方だ。
糸の様な縄を渡る。
日常と異常の境界線上を歩いてきた人。それが、目前で微笑み続ける、嶺峰湖華と言う女。
呼吸を乱さなかっただけ自分をほめてあげたい。
普通なら呼吸を乱してもおかしくないような事実を知ったんだもの。
目の前に居る女の壮絶さを、改めて知った。
彼女は魔法使いなんかとは違った意味で一般世界に馴染めない、馴染んではいけない境界線の上に立っている人物だ。
推測ではなく、断定してもいい。彼女は人間的な部位が余りにも―――

「正直、嬉しかったのです」

びくっ、と身体が震えたのは一瞬。
その穏やかな声に全身を預けてしまいそうになった。
だって本当に穏やかな声。本当に戸惑ってしまう。それが本物の彼女なのか。きっとどれも本物の彼女なんだろうけど、ね。

「...嬉しかったって、どうしてよ」
「だって、私が声をかけてしまわなかったお方が、また私に会いに来ていただけるだなんて、是ほど嬉しい事がありましょうか。
誰も私を見てくださりませんから、貴女ともう一度お会いできたときは本当に嬉しく思いました。勝手ながら私の内で微笑ませていただいたのです。不快ではあられませんでしたでしょうか?」
「...別に。その、ちょっと戸惑ったけど、うん、綺麗な笑顔だったから」

左様ですかと言う。
そうして、ホラ、また笑った。
とことん解らない。彼女と言う人間を理解できる人間がいると言うのなら見てみたい。
彼女の一挙動心がまるでつかめない。
得体の知れない異常なものを見たと感じて怖いと思えば、母親のような穏やかさを醸し出して懐かしさにも浸ってしまい、酷く幼げな儚い雰囲気を漂わせていたらと思えば、唐突に大人びた眼差しで私を子供としてみている視線が在る。
何もかも読み取れない。心が読めるってヤツが居ても、こりゃ読みきるのは苦労しそうだ。
ひょっとしたら彼女にはそういった、私が考えているような思考と言うのが通用しないタイプの存在なのかも。
そう、多くは木々や草花、他の動物のように人のしがらみに捉われない純粋な。
今だってそう。さびしいと言う事を明言しているにも等しい。
彼女は他者から自分がどう見られているのかをなんとはなくに理解していて、それで私が彼女に会いに来た事を純粋に喜んでいる。
それはとても子供らしく愛らしいように思えて、淡々と語る語り口、相変わらずの笑顔、そして酷く大人びたその態度。
相反するものだらけで何がどうなっているのかって言うのが全然つかめないし、つかませない。まったくもって不可解な人だわね。
お茶を啜る。
レッケルも、傍らで私が注いだ小さ目のティーカップ、あ、私が常時持ち合わせているレッケル専用の何だけどね。で、お茶をすぴすぴ。猫舌ならぬ熱さ敏感の蛇舌だけど、程よくぬるまった、人間が飲むにはちょっとおいしくなくなっちゃったお茶をレッケルが喜んで飲んでいる。低温動物な分、熱さは控えめの方が丁度良い、とのことだ。
ティーカップを置き正面を。
目の前にはグラスに注がれた水に、未だ一口もつけてはいない嶺峰湖華さんが相変わらずの様子で、私を細めた眼差しで見取り、小さな微笑だけを浮かべている。
もう、これ以上彼女に関して考えるのは止めておこうと思う。
彼女に関する事を考えようとすると、普通に脳がパンクしちゃう。それより、本題に入る方が優先だ。

「で、聴きたい事はがあるんだけれど、良いかしら」
「どうぞ。私にお答えできる事であられるならば、如何なる問い掛けにでも対応いたしましょう。
いえ、初めてこんなにもお話してくださった方です。如何なる問い掛けでも私は喜んでお答えいたしますわ」

そう言ってくれるというのならこっちも容赦なく問いかけれる。
余計な詮索は必要ない。変な詮索とかを挟むと、彼女の事だからきっとまた突拍子もない事を言われちゃうに決まっている。
なるべく無駄を省くって言うのなら、大胆かつ一直線で問うたほうが良い。そっちの方が私にも、彼女にも余計な気遣いなんかをかけることもないでしょうから。

「Jaich verstehe.それじゃあ聴いとくわね。先ず、貴女は何をやっているの?」
「昨夜の事であられるのであれば、私は、そうですね。家系としての仕事、とでも言うのでしょうか?
心苦しくも思いますけれども、仕方ありませんわ。母方様も、御婆様も、大婆様でさえも、あれを慣わしとして参ってまいりました。故に、私も同じ役割に当て嵌るは同意かと」
「そう。それならいいわ。で、次にそのお仕事って言うのはあの変なのの相手をするって事?
あれは、あのバカでっかい銀色、いやいや鉄塊って言うのかな?兎も角、アレの正体、知っているの?」
「存じませんわ」

微笑む表情であっさりとそう切り返される。
多分、きっと、だけれど、でも彼女は間違えなく、嘘は言っていなかった。
なんとなく解る。嘘かどうかを、なんとなく私は解るのに、彼女からは嘘とかそう言う気配とか雰囲気とかがまったくもって読み取れない。
本当に知らないんだ。アレがなんであるのか。
あの、魔法使いが見ても異常としか読み取れない異常存在相手にしていたと言うのに、彼女もまた、理解出来ていないという事。
淡い期待があったことは隠せない。
言うには及ばず、彼女もアレも、私の目から見ると理解できない存在。理解できないもの同士なら理解に至れるとは思っていた。
失礼すぎるかもしれないけど、まったくもっての私の本心で言うなら彼女は、彼女だけは、アレを理解できているものなんだと思っていた。
理解できない存在同士の放つ、異様な圧迫感。
ソレを持つもの同士と言うのなら、何より、アレに向かっていけると言うのなら彼女はアレを理解していてもおかしくはないって、そういうも考えていたんだ。
でも、一言で切って落とされる。
淡い期待も、失礼すぎる思惑も、そして何より、私自身が未だに持つ、アレに対する恐怖心を切り落すかの如く、彼女は一言だけで私の全てを否定して見せた。
その否定を、私は僅かながらでも心地よいと感じてしまっている。
潔く、期待も不安も、ましてや希望も絶望感も感じさせる事がない、たった一言の独白。
聴くもの全ての柵を切り落すかのような、鋭利な刃物のような言葉であり、同時に切り落したものを捨て去るのではなく、それも自らの一部なのと訴えかけるような、母親じみた優しい声。
っと、また彼女のペースに惹かれちゃってる。
彼女はマイペースというか、いや、マイペースといえばマイペースなんだけど、どうにもこっちが彼女のペースに合わされている様な気がしてならない。
自分のペースを他者に合わせるんじゃなくて、他者のペースを自分に合わせてしまう。それも無意識で、だ。
紅茶を飲んで気持ちを自分に。
彼女のペースに飲まれると聴きたい事も聴けなくなってしまう。
彼女と相対したときに重要なのは彼女を注意する事じゃなくて自分を注意する事。
彼女が無意識で発している自分のペースへ引きずり込むような雰囲気に飲まれず、自分の意思を持つことが大事なんだ。

「...うん、とりあえずは、解ったわ。
それで、どうして私が魔法使いだって解るの?私は私が魔法使いである事は言ってない。誰かから聞いたの?それとも、貴女も魔法使いの関係者?」
「いいえ、母方様より教わっていましたからですわ。
母方様はよく私(わたくし)が寝所に就く間際にお話くださいました。
夜は別世界であり、私達人間が居ては良くない場所である、と。
夜は夜の時間に生きているものの為の時間であるが故、私達昼に生きるものは昼でしか正体を晒してはならないのだと。
でも、もし夜に出歩けなければならない時、出会った方々は全て夜の方。昼とは違う一面の、違う方なのであるという事でした。
ですから、アーニャさまは魔法使い様であらせられると思ったのですわ。夜のお方でしたもの、何より、幼心に焦げ付いた思い出の中の魔法使い様は貴女様の様に、外套と人語を解する小さき命と共にあると聞き及んでおりますもの。
ですから、一目で確信いたしましたわ。貴女様は魔法使い様であらせられる、と。
そして、昼に生きる方々は夜にも生きられる方々だと聴き申しておりますので昼の方にも夜の方にも語れますわ。
ですが、夜に出会った方の事は、昼に生きている方々に申してはならない、夜の方の事は同じ夜の方のみにしか語ってはいけない。そう学んで参りました」

眼が丸くなっている。
一息でそんな事を宣言されたのも驚いたけど、彼女の理解できない思考回路がまさかここまで壮絶だったなんて。
それに気付いて、こうして驚いている。
彼女は、別段魔法使いとかそういったものとして私を理解している訳じゃなかった。
彼女にとって、夜に会った人は夜の人であり、昼に会った人は昼に会った人としてしか接していないんだ。
私とレッケルは、夜に彼女と会った。彼女にとって夜に出会った人というのは、夜と言う別の世界に生きている生き物であって、人間とかそういった枠に当てはまっていない。
つまりは、魔法使いとか、一般人とかの隔て方じゃないんだ。
昼か、夜か。
昼に会った人は昼に会った人として接して、夜にあった人は、夜に会った人として接する。
そして、昼に会った人の事は昼にも夜にも語るけれど、夜にあった人は夜にしか語ってはいけないという頑なな誓いを守り続けている。
これが昼間であったのなら彼女との語り口は違ったんだろうか。
いや、それでもやっぱり同じだったんだろう。
私は彼女に話しかけた人間として彼女は喜ぶだろう。
でも、同じなのはそこまでだ。
彼女は私を魔法使いとしては認識しない。
魔法使いも関係ない。
彼女にとって、私は昼側に立っている生き物なのであるとだけしか認知されない。
偶然、偶然に夜に出会ったからこそ、彼女は私を魔法使いであると認知した。
それが答えだ。彼女が私を魔法使いであると言い当てた、その理由。
いや、言い当てたんじゃないわね。彼女にとっては、そうだっただけのお話だ。
彼女にとって夜、私みたいな格好をしている人に出会えば、誰であろうが彼女にとっては魔法使い、と言う事。
彼女にとって真偽などどうでも良いに違いない。
彼女は真偽を欲して、真偽を問うているわけじゃない。
彼女にとって真実も欺瞞も、彼女にしてみればなんの意味すらもない。彼女は彼女であり、彼女は彼女として生きているだけ。
周辺の人間から見ると一番恐ろしい、他者の存在を明確な存在としてみない昼夜の区別をつける生き物としてしか見ていないというのだ。
そして、おそらく、彼女はソレをおかしい事だとは自覚していない。
彼女の全ては彼女の世界そのものだ。彼女がそう思い続けている限りは、彼女にとって外の世界は昼夜の区別しかないのだろう。
気付いている。
彼女がどんな人間で、どれほどの虚を内側へ内包しているのかなんて計るまでもない。
彼女は一般人とは違う存在、一般人では到底思いつかない凶悪と読んでもおかしくないほどに独自の思考回路を発展させた、私たちとは違う進化の経路をたどった、新しい種。
新生物と呼ぶにもふさわしい。私たちには未知の、調べようにも調べようもない未知的な存在。
それが、彼女。嶺峰湖華という、女。

「だから、嬉しゅう御座いましたわ。夜に会った方が昼にも会いに来てくださられるなんて。
今まで長年生きてまいりましたが、これほど喜んだ事は生涯御座いませんでしたわ。
アーニャさま、貴女へ感謝を。そして、これからますますのご発展、ご期待いたしておりますわ」

で、また笑うのね。
ほおっては置けない笑顔。
この人は、ずるい。
自覚していない分なお更にほおっておいちゃおけないって言うのかな。
確かに、彼女は普通じゃない。ある意味で狂人、それも想像を絶するほど美しい狂人だ。
その思考は私たちとは一線を異なり過ぎている。
それは彼女の世界がこっちの世界を侵食しているような錯覚さえ窺わせる様な狂想だと言うのに、見せる笑顔とその笑顔を同時に述べられる言葉ちゃんとした、普通の人の、そしてほおっておけない、幼子のような笑顔。
無邪気で、純粋で、何も怖いものも、何も汚いものなんて知らないかのような、儚げな純粋な桜の花みたいな雰囲気。
相反しあう筈の二つの思考が見事なまでに混ざりあわさって、一つの新しい思いを生み出しているんだ。
でも、喩えそうでも。彼女の思いが一般とは異なるとは言っても。
彼女はやっぱり魔法とかとは関係ない、魔法界には介入させてはいけない普通の人。
普通の思考じゃないにせよ、彼女が生きてきたのは普通の、一般人が生きてきた場所なの。
そこで生きてきた以上は、彼女は一般人となんらも変わりない。
私にとっては魔法使いである事を知られている、一人。
ほおってはおけない、彼女をほおっておく事は出来ないけど、それは魔法使いとしてだけ。
一般人としての彼女にはあまりに深く入っては行けない。私に出来るのは、精々。
腕を伸ばし、彼女の目前まで手を伸ばす。
彼女は何を知っているのかな。私が手を伸ばした理由。
ただでさえ小さい身体だって言うのにそれを眼一杯まで伸ばして差し出している、あの変なものに潰されかけた側の腕を静かに彼女の眉間へ向けて、伸ばす。
彼女に変化はない。伸ばされた手を見つめるでもなく、その優美な顔立ちで、いつもと変わらない小さな微笑だけで、伸ばされた私の腕を見守り続けている。

「―――特に、何も言わないのね」
「魔法使い様が成される事ですから。だいたい私も理解しておりますわ。
魔法使い様は魔法を尊ぶもの。ですから私の思い出が消されてしまうのですね。とても残念です。
ですが、これも魔法使い様が生きていくには必要な事。
ありのままで生きていくと言うことに意味は御座いますわ。
そうである事は止めてはならず、そのように、そうなるように生きていくも、また魔法使いの一つである、と」
「そうよね。魔法使いって、そういうものよね」

黒い髪の毛と、私の指が触れる一歩手前。まさしく紙一重というぐらいの合間。
その刹那でいい時間の中で、私は柄にもなく迷っていた。
本当なら、迷うような場所じゃない。
私は魔法使いで、彼女は普通とは違うとも普通の世界に生きている人なんだから。
なら、迷うまでもない。彼女は彼女の世界に帰り、私も私の世界へと戻っていくだけの話。
だと言うのに、どうして、ここで記憶を消して本当にいいのかなって考えているんだろう。
考えちゃいけない。魔法使いはそんな事考えちゃいけない。
冷静に、常に自己を隔てる存在として確立させるのが魔法使いと言う存在の慣わしだ。
生きていようがいまいが関係ない。
私たち魔法使いと言うものは在って無いもの。
生まれた事に感謝を述べる存在じゃなくて、生まれた事さえない事として生きていく者達。
魔法界と一般世界の拒絶はそこにある。
魔法と言う、一般世界には無い力を使うものは元来として一般世界には関わってはいけない。その力が悪用される事を恐れるから、その力がもっともっとの不幸を招く事を理解しているから、魔法使いは一般世界には関われない。
関わっても、無いものとして。関わるとしても、関わった後なかった事としてしまう。関わった人物など居なかった。魔法と言う力を使って助けた人なんていなかった。
だから、魔法使いは一般世界で活動していけている。
誰も、どの魔法使いでさえも助けた人たちに自分たちの記憶を残さない。
自然災害を解決すれば消えてなくなる。
多くの命を助ければ、無かったものとして速やかに消える。
記憶から完全に自己を消し去り、自己を世界と隔て続ける。
私たちは多くの人間から見れば幽霊と同じだ。
居たとしても認知されないもの。一般社会からすれば、居もしないもの。そも存在すらしていないものだ。
でも、それでいい。そうでなくっちゃいけないんだもの。
私たちは陰のように生きて影のように消えていく。
誰からも気付かれず、きっと同じ魔法界の仲間からも看取られることは限りなく少なく。
いつも思っている事がある。死ぬとき、きっと私は故郷の上で死ぬ事は叶わない。
死ぬなら自国の土の上って言うのが一番なんだけど、それは叶わない。
私たちはいつだって苦しんでいる命の元へ駆けつけては、それを救うの繰り返し。
終わりは無い。終わる事はありえない。
ソレの繰り返しの中で、魔法使いは一人ずつ消えていき、一人ずつその私たちにとっての戦場である、一般社会へ出て行く。
死ぬときはどこかの土の上かもしれないけど、それは、故郷の土の上ではないと何となく確信できている。
そういうものだ。何処とも知れない地で、どこともしれない人として消えていく。
でも、それで丁度いいと思う。だって、ホラ、私たち好きでやってんだし、好きでやってるんなら、そも、どこで死んだって構わないじゃないかなって、思う。

「如何なされましたでしょうか。思い出を消すと言うならば、躊躇う事もありませんでしょう。
アーニャ様は魔法使いであり、私(わたくし)はここに生きるものでありますわ。戸惑いなど必要ありませんわ」

言うとおりだ。彼女のいうとおりにすれば、何もかも終わる。
この余計な手間も取らなくったって済むし、魔法使いとばれる心配も消えてなくなる。
お仕事に専念できるし、そも、私のお仕事はあんまり余裕のあるお仕事なんかじゃない。
何しろ、未来を担う立派な魔法使いに成れるか成れないかの瀬戸際に居る魔法使いの監視。
ネギのコレからを担う、大事なお仕事だ。なら躊躇いなんて必要ない。
髪に指先が触れる。
額に触れれば後は一言。魔法使いの殆どが習得している基礎魔法。記憶の改竄。ある記憶に別の記憶を塗り重ねて、その元の記憶を削除する。
記憶の消却は些細な事で記憶が埋まりかねない。だから、記憶が絶対に戻らないよう、その記憶が入っている部位に別の記憶を埋め込む。
これが魔法使いの持つ記憶操作の基礎。
記憶を消すと言うのは、文字通り消すんじゃなくて、魔法に関する記憶を消すために、別の記憶を介入させると言う事なの。
指が額に触れた。
さわさわと指に触れる髪の毛の繊細さに感動しかける。
本当に整った髪。髪は女の命っていうけど、彼女の髪の毛は命そのものの輝きに満ちているかのよう。
触れた額も変わらない。真っ白い肌。雪のように冷たくも在り、生命感の感じさせない色合いだけれど確かに生きている温かみを感じさせてくれる、柔らかい肌。
それに触れて、真正面から未だ笑顔のままの彼女の顔を見て、まだ心迷っている事に気が付いた。
消していいのかと、訴えている。
彼女は一人だった。一人ぼっちだった。
それが苦しい事は知っている。人間って生き物はやっぱり一人ぼっちじゃ生きてはいけない生き物だもの。
その彼女が、ほんの僅かな偶然からでもう一度だけ出会えた。
私にとっては違う意味での再会だった。
レッケルが話したのを見られたから、そこから変な噂話が立って、それがネギの耳とかに入っちゃうと余計な事になる。余計な波風を立てられる前に対処しようと思っての行動だっただけだけど、彼女にとっては違ったんだ。
彼女は長い間、きっと私が知らないぐらい長い間、今も感じるこの圧倒的なまでの圧迫感の所為で、意図せず、自覚も出来ない存在感の所為で誰からも認められず、誰からも拒絶されっぱなしで存在していた。
それがどんな事なのか解らないほど鈍感じゃない。
ネギみたいに、相手から明確な意思を聞かなくっちゃ判断できないのとは違うんだから。
同じ女の子なんだもの、よく解るわよ。
彼女の苦悩。
いや、彼女はきっと苦悩なんかしてない。悲しいとか、そう言うのも無いと思う。
あるのは、ただの、何故。
どうして自分は周囲とは違うのか。
それがわからない彼女に悲しいとかの感情はきっとない。
だから、喜んだんだ。
誰からも拒絶されていた筈なのに、誰からも拒否されて、誰からも話しかけられてこなかった中で、初めてもう一度会いに着てくれた私に。そして、それを嬉しいと感じた彼女自身に。
どうするのか。
記憶を消すのはたやすい。私は魔法使いだから、記憶を消すのが一番正しいなんて言うのはよく理解できている。
ただ、私が目指す魔法使いと言うのはどんなものなのか。
私の意志で選んだ魔法使いって言うのは、どんななのか。
私はマギステル。立派な、普通として生きていける道を捨てて、誰からも認められない、誰からも居ないものとしてしか扱われない、そんな生き方を進んで選んだんだ。
誰から教えられたわけでもない。自分で決めて、自分で誓った。自分に誓い、自分に賭けた。自分の全て、私と言う、アーニャ=トランシルヴァニアと言う少女の全てを、私はマギステル・アーニャに賭けたんだ。
選べるのはいつだって一つだけ。
私が選ばなくちゃいけないもの。選んで決めなくちゃいけないんだ。だったら、私の選ぶ道は一つ。
指を遠ざける。前のめりになっていた身体を元に戻して、飲みかけのお茶の最後の一杯を飲み干す。
それの不味い事不味い事。冷めたお茶がこんなに美味しくないものだなんて、正直びっくりだわ。
そのお茶をしっかり飲み干して、正面を見る。
細められた視線で、彼女は不思議そうに小首をかしげていた。
ソレの可愛い事可愛い事。思わず苦笑がもれるぐらい愛らしくって、同時にあんまり後悔もしなくなった。
こんなんが見れるなら、いいやとも思ったわけよ。

「何故に?思い出を、お消しになられるのではありませんでしたか?」
「ちょっとした思い付きを考えたのよ。それを考えると、もうちょっと私の事は覚えてもらった方が効率いいかなって思っただけよ」
「左様でしたか。ではもう少しお話できるのですね。
ふふふ......これほど喜ばしいことはございませんわ。こんなにも長い間私以外の方とお慕い出来るなど、ここ十数年ありませんでしたわ。
アーニャさま、貴女様に感謝を。お礼が何か出来ると良いのですか。何か、御座いませんか?」

実際そう言われても、困る。
特に何か要求を求めていたわけじゃないし、彼女のお付き合いすると、何だか色々心労がかさばっちゃう。
まぁ、でも自分で決めた事だし、何より、これから彼女とのお付き合いも長くなりそうだから、ね。

「そう?じゃあ一つお願いね。今日も、あの木の下に来る?」
「ええ、参りますわ、きっと」
「じゃあ待ち合わせ。あの木の下で会いましょう。今日の夜、昨日と同じくらいの時間で、ね」

そうして、また彼女はほわっと笑う。
今度は威圧感も何も無い、純粋な笑顔。
細められた眼には希望が、頬には僅かに朱がまじった、小さな微笑。
漸く彼女の笑顔とかの区別もつく様になって来た気がするんだけど、それは、ちょっとは彼女の事を理解できてきたって事ととっても構わないのかな。そう考えると、まぁ、なんとなくだけど結構嬉しい。
だから私も笑う事にした。小さな笑顔。彼女から比べると、色気も何もありゃしない子供の笑顔。
でも、負けたくないもんだから変に大人ぶって笑って見せたりした。
両目は閉じて、口端だけで笑みを作るみたいな小さな、小さな笑顔。
それがあんまりもバカバカしくって、噴出して、思いっきり笑いだした。
ホント子供だわ、私。
ソレにつられたかのように、目の前の嶺峰さんも小さく声を上げ、それもとても上品な声を上げて、笑う。
都市外れのカフェで、変な笑顔で笑う二人。
都市外れって言うのがいいかもしれない。
だって、私は一歩離れたところで冷静に見守るタイプだし、嶺峰さんは一歩進んだ領域から微笑みながら省みているタイプだもの。
ほら、お互いに丁度いい。
一歩進んでいようが、一歩退いていようが、お互いに居てはいけない場所に寄り添う仲みたいだからね。

第十一話〜発見〜 / 第十三話〜星空〜


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