第二十三話〜断絶〜

 生きているのか。生かされているのか。
 誕まれてきたのか。死んでいたのか。
 叫んでいるのか。泣いているのか。
 恨んでいるのか。疎んでいるのか。
 無気力なのか。全力なのか。
 居るのか。居ないのか。
 在るのか。無いのか。
 意味が在るのか。価値が無いのか。

 それら全ての否定を以って――――

 一 撃 抹 殺
 突貫魔法少女―ホライゾン― CHAPTER:03〜否定〜

 第二十三話〜断絶〜

 時は、しばし遡る。

 絡繰茶々丸の瞳が開く。本人は眠っていた自覚はないが、どうやら電力消費を抑えるために無意識中で電源を落としていたようだと結論する。
 しかし、それとは別の要因で眼を覚ました可能性を、彼女は彼女自身に提示した。
時計を見やる。時刻はもう間もなく午後の授業が開始する時刻であり、教室内にはほぼ全クラスメイトが揃っていた。

揃っていない人間を上げろと言うのであれば、と、絡繰茶々丸は視覚範囲内の人間を頭脳プログラムにインプットされているクラスメイトと照合していく。
そうして三名足りない事を結論した。綾瀬夕映、早乙女ハルナ、宮崎のどかの三名。
早乙女ハルナと言う少女が遅れるのは解らないでもないが、それでもこの三者は、少なくとも、絡繰茶々丸が記憶するこの三年間で遅刻すると言うところを見たことは数度しかない。しかし、それでも昼休みの遅刻と言うのは初めてではないだろうか。

「はーい、みんなーこの間撮った集合写真出来たから配るねー」

 彼女は目覚めた要因を見た。
同じクラスの朝倉和美がトレードマークでもあるデジタルカメラを片手に席に着いていた、いない関係なく、クラスメイトの元を歩き回り、もう片方の手に握られていた写真を順々に配っていく。
 この間撮った写真と言うと、アレだろうか。
絡繰茶々丸が思考する限りで、このクラスメイトで撮った写真と言えば、修学旅行中の一枚と、それともう一枚。

思い返せばその一枚にはこのクラスメイトの人間ではない人物も写っていた筈だ。
視覚範囲を広げて、その人物を連れてきたクラスメイトに目を向ける。
 那波千鶴と村上夏実。
文句などある筈もない。彼女たちが好意でそうしたというのであれば、彼女たちの事を知っている絡繰茶々丸としては微笑ましいものである。それに関しては文句はない。良い事だろう。

「はいっと。これが茶々丸さんと…エヴァちゃんの」
『どうも』

 最後尾に位置する座席まで朝倉和美が来た時点でその写真を手に撮り、彼女の後ろに居る人物にもその写真を進呈する。
進呈されるように渡されたエヴァンジェリンは少々怪訝な顔つきをしていたが、だが、それでも、絡繰茶々丸と言う存在が知りうる限りの範囲では、一際珍しく、人目には判断も付かない程僅かに、頬を赤らめていた。
そも、絡繰茶々丸は知っているのだ。自らの主であるエヴァンジェリンが、今日の今日までこの学園で生活してきた間撮ってきた写真の殆どを、宝石箱の裏側に保管していると言う事を。
 あえてそれは口には出さず、絡繰茶々丸はその写真を確認する。
世界樹、と呼ばれている、この学園でも一際大きな巨木の前の広場で取られたクラスの集合写真。
しっかりと三十一名のクラスメイトが写った、若干一名、姿が霞むように薄いが、それでもしっかりと三十一人が揃ってとられている一枚。

そこに含まれるのが、このクラスの担任でもあり、エヴァンジェリンならずとも、クラスメイトの大半が目をつけている少年であり、絡繰茶々丸と言う少女が想うと、どこか壊れたかのようにもなる少年、ネギ・スプリングフィールドと言う少年の姿もある。
 その少年の横にもう一人少年。絡繰茶々丸の眼には普通の少年に見え、しかし、彼女は普通とは見ていない少年。
知りうる限りでは、彼の名は村上小太郎、正式名称は犬上小太郎と言う事ぐらいだろう。
本来はこのクラスの人間ではないが、先にも述べたように那波千鶴と村上夏実、そして委員長でもある雪広あやかと同室に住まう少年であるが故、この写真にも参加できたのだろう。
 そうして視線をずらして行く先に、一人、このクラスの人間は三年前から知っている、しかし、一授業でしか見かけることのない人物の姿がある。

写真位置的には絡繰茶々丸と長谷川千雨の真後ろ。
一際背が高く、しかし、全身が黒一色で統一された男性。
鋭い目つきは人間的とは言えず、直視するのが難しい。
だが、何よりその眼を牽き、しかし、その眼を逸らしたくなるのは、唯一露出している顔の色だろう。
肌の白い人間はこのクラスでも比較的多いが、この男性の表情は例外だ。
もはや、白を通り過ぎて蒼白。石灰を固めたかのような無愛想かつ、冷淡な顔つき。男性の顔つきを、二枚目、三枚目などで表現する事があるが、この男性にあってはどの枚目も関係しないだろうほどに無機質な、顔つき。
注視してみて居れば気付く人間が居るかもしれない。この男性の顔には、本当にひび割れのような傷が何箇所にもある。
 男の名前はキノウエ。
本名、機能得。
下の名前を知る人間は、間もなく三年もの付き合いになると言うのに殆ど居ない。彼が、このクラスの副担任教師であると言うにも拘らず――――


―――――――――――――――


 そして時は、もうしばし前へ。
 麻帆良学園祭二日目。朝から執り行われていた「まほら武道会」。
その中でも最も眼を牽いたカードである、タカミチ・T・高畑とネギ・スプリングフィールドの試合終了間際。
勝者であるネギ・スプリングフィールドと言う少年の周辺には人垣が出来、敗者であるタカミチ・T・高畑の下にも、かつての教え子であった神楽坂明日菜と桜咲刹那の二人が駆け寄っていた。

 次試合のカードはここに居る二人の少女の戦いである。
見かけは中学生ではあるが、外見以上にこの二人は今の今まで多くの窮地を乗り越えてきた者でもあった。
多くの観客者はそんな事も知らず、次の試合に思いを馳せていただろう。
 だがここに一人その試合を賢覧する言の出来ぬ者が居た。
他ならぬタカミチ・T・高畑である。彼の本来の目的はネギ・スプリングフィールドとの試合ではなく、この麻帆良学園祭中に暗躍している超鈴音の調査でもあった。
先ほどの試合、勿論気迫を込めてかからなかった訳ではない。ただ、敗北、と言う形で決着がつき第一の目的である『超鈴音の動向探査』を優先するに至ったのみである。
 試合のため去っていく二人の少女。それを見送り、桜咲刹那の残した式神と共に調査を開始しようとした矢先の事であった。

「ん?」

 タカミチ・T・高畑の動きが止まり、人気のない暗がりへと視線が動く。
出発を促した式神であったが、彼は直ぐに追うとだけ告げ、式神を先に一人行かせる。
それは魔法使いとしてと言うよりも、人間として、生き物として、何より、同じ教職員として、その人物が誰より特殊な人間である事を重知していたからであろう。

「珍しいね。キリシ君。君が生物準備室から出てくるなんて」

 暗がりに向けてかけられる声に、まるで影からにじみ出たかのような長身の人影が現れた。
キノウエキリシ。麻帆良学園中等部A組副担任教師にして、生物担当教師。
教員内でも噂話でしか知らない人間が多いほど、人前には姿を現さない人間である。
 石膏の様な蒼白に至った顔つき。目つきは鋭いと言うよりは悪く、細い。
およそ人間的と言うよりは、どちらかといえば合成的なイメージを髣髴させるような人間。
タカミチ・T・高畑が始めて会った時に持った感想、そのままから変わらぬ姿で、キリシなる人物は姿を見せた。

「学祭中は人が多い。己のような人間が居ては折角羽目を外せる様な時でも楽しめまい、そう想ったのだが、直ぐに帰る。いつまでもくだらない事に付き合っている暇はない」
「くだらないとは穏やかじゃないな。今まで見ていてくれたんじゃないのかい?」
「見ていた。そして結論は相変わらずくだらない事をやっていると想った程度だ。
そんなに戦いたいのなら戦場へ行って来い。遠慮も躊躇もふんだんなく振るえる。
いや、そも人間同士の戦いほど見ていてくだらないものはない。生き残るための生存競争でもない。ましてや、元々人間のものですらない資源を奪い合うような戦争ですらない。
ただ戦うだけの行為だ。何の意味もない。
そうだ、それは別段己には関係ない。問題なのは、今の試合だ。高畑。何故『二度目を叩き込まなかった』」

 その言葉に、タカミチ・T・高畑は一瞬だけ躊躇し、なんの事かな、と流しにかかった。
だが、キノウエキリシはなお問い詰めを止めることはしなかった。彼は背中を壁にもたれさせながら問う。

「知らないとは言わせない。あの小僧だ。お前はあの連撃で完全に小僧を追い詰め、ダウンさせた。
あの状態で躊躇なく同じ撃をもう一度、審判が留める僅かな間にもう一撃繰り出せばあの小僧は完全に再起不能になった筈だ。
何故だ。何故それをしなかった。慈悲か。それとも人間的な情か」
「そこまでする必要はないと思っただけだよ、キリシ君。それに、ネギ君はきっと二度目を打ち込んでも立ち上がっていた。これは彼の勝利さ」
「違うな。高畑。お前はあの小僧に慈悲だか何だかをかけたが知らないが、あれではあの小僧は何時か死ぬ。必ず死ぬ。
人間的に言えば人間はいつか死ぬ。いや、生物的に言えばか。遅いか早いか。そのどちらかでしかない。
あの小僧は間違えなく後者に属する人間だぞ。早死にだ。
死なせたくないというのならもっと本気で思い知らせてやるべきだと思ったがな。それこそ、足腰が立たなくなるまで、あるいは、腕か脚の一本は千切りにしても構わないぐらいだ。
その結果得られるものは失った部位を補うほどのつりが来るだろう。己ならばそうする。慈悲無く。容赦なく。遠慮なく二撃目を叩き込む。
あの小僧が何をしようとしているのかは知らん。だが分不相応な力を持って調子付いていることは間違えなかろう。ならばそれを正しにいくのが慈悲だと思うが、違うのか」

 キノウエキリシは人垣に囲まれ、姿の見えないネギ・スプリングフィールドに対し侮蔑のように言い放つ。
だが、彼の知る人間でここで怒る人間は極めて少ない。タカミチ・T・高畑も同じだ。彼は彼なりの考えを持っていると確認できるからだ。
だが、次の一言にタカミチ・T・高畑の表情は変わった。そう、明らかな怒りと、ソレに含まれる憤慨の表情に。その一言は。

「己は、あの小僧の事が嫌いだ。あんな小僧は早めに死んだほうが良い。本気でそう思っている」
「それは穏やかじゃないなキリシ君。死んだほうがいいなどと軽々しく口にしない方がいいぞ」

 タカミチ・T・高畑の目が僅かながらに釣りあがり、その両手がスーツのポケットへ収められる。
居合い拳の構えであった。が、直ぐにその構えを解く。
頭に血が上りすぎたためにとってしまった短絡的な行動だった、とタカミチ・T・高畑は判断する。ソレすら気にせず、キノウエキリシはなおも話を続けた。

「だが事実だ。
あの小僧は気付いていないようだがな。己は三年間Aクラス。現3-Aの人間を見守ってきた。
いや、見守ってきたと言うには御幣が合ったな。見守ってきていたのはお前だ。己はただ連中に授業を施してきてやっただけだ。
だが、それでも見ているところは見ている。
今のAクラスの内情を知っているのか、高畑。
あの小僧が来てからのAクラスの変化は劇的だ。番号26番の出席率は五割増。全体の授業集中率は三割増と言ったところか。

それは問題ない。だが、ここからが問題だ。
さっきあの小僧が何をしようとしているのか己は知らんと言ったな。それが問題だ。
Aクラスの人間の何人かがあの小僧のやろうとしている事に加担している可能性がある。
どうせ己が忠告したところで連中は歯牙にもかけまい。お前から言うならばソレでもいい。だが、あの小僧は早死にすべきだと断定で言ってやる。
あの小僧は自分でも気が付かないうちにAクラスの人間の何名かを巻き込んでいる。
だがそれは小僧の問題だ。小僧が一人で何とかすればいい。
重要なのはここからだ。いいか、高畑。あの小僧に連れ付き添っている奴らに、あの小僧は結局『何も残せない』

これは最悪だ。どんな悪人よりも救えない。
あの小僧と己らが住んでいる場所が違うなど、見ていれば解る。
あの小僧は自分のやるべきこと以外には眼がいかなくなる節が見当たる。
その結果、あの小僧に付き添っている連中には何も残せない。何か残せても、それは連中の為には成らない。自分の道は自分で見つけなければいけないのにな。
だからあの小僧は早く死んだほうがいい。そっちの方が皆幸せになれる」

 タカミチ・T・高畑はその言葉に反論出来なかった。否、正確には反論できなかったのではなく、反論するわけにはいかなかった。
キノウエキリシと言う人物は、どれだけ他の人間と違う人間であったとしても、魔法界とは関係ない、一般で生まれ育ってきた人間なのだ。
だが、なまじこの様な勘が鋭いため、ネギ・スプリングフィールドと言う少年が"魔法使い"と言うことには気付いていないにせよ、感覚的に"普通ではない"と判断しているのだろう。
 その点で反論出来なかったと同時に、キノウエキリシと言う男の言っている事も一理あったからこそ、タカミチ・T・高畑は反論することが出来なかった。
 ネギ・スプリングフィールドなど早く死ぬべきだ、と言う考え方にはあくまでもタカミチ・T・高畑は賛同していない。否、それには反論すべきなのだ。
だがそのさらに奥。彼の言うネギ・スプリングフィールドという人間に関わる連中。即ち、現3-Aのクラスメイトの数人がネギ・スプリングフィールドと言う少年に魔法関係を持っている事は、タカミチ・T・高畑は数人のみだが確認していた。

だが、その関係を持っている少女らは魔法使いではない。普通の人間だったのだ。
魔法使いが魔法を隠蔽する理由。その力の流失をとどめる為に、魔法使いは魔法を隠蔽するのだ。それが暴かれることは、暴かれた魔法使いだけでなく、魔法社会全体にも大きな影響を与えるのだ。
その歪みを正す為に、記憶の抹消と言う手段で魔法使いは一般人から記憶を消去する。
 ネギ・スプリングフィールドと言う少年に関わっていると思われる少女らも例外ではない。
魔法の流出を抑えるため、何時かはどうにかしてその記憶を除去しなければいけないのだ。
魔法社会に散々介入させておきながら、その記憶を消すと言うのは何か。何も残さないと言うことだ。証拠一つ残さず、完璧に。
 そうなれば彼女たちには何も残せないも同意義だ。
いや、そも魔法社会は一般人が想像する様なゲームのような世界ではない。力のまるでない人間が介入すれば、それこそ無慈悲なまでの相手に当たれば、悉く叩きのめされるだろう。
遠まわしであるが、キノウエキリシはそれを告げていた。
ゆえに、タカミチ・T・高畑は、その部分をあまりに的確に突いたキノウエキリシに反論が出来なかったのだ。

「それにな、己はこんな試合に参加している連中など生きている価値もないと断定してやる。
あの力がなんの用で必要なのかは知らんが、こんなお遊び程度で披露するような力だというのなら、それは兵器と同じだ。戦争の道具だ。人殺しのための要因だ。
格闘技が何故に存在するのか。他者を傷つける為の技術、用具が何故に必要なのか。それを思考せよ。
今日のお前らは所詮兵器だ。好き勝手に暴れる、武器を持った兵隊。いや、武器そのもの。使い捨てだ。今日のお前らは―――生き物ですらない。
己が求めているのは"生き残る"事、"生きる"事に特化した生命体だ。
否、本来全ての生き物は生き残るために生きているのだ。ただ振るうだけの力しか持たない、"暴力"でしか分かり合えない連中に用事などない」

 それだけ告げ、キノウエキリシは現れたとき同様に暗がりへと消えていく。
これだけ温かい日差しがあり、人の笑い声の耐えない場所だと言うのに、彼が消えていこうとする暗がりは余りに暗く、笑い声も、日差しも、何もかも吸い込んでしまうかのようだった。
だが、キノウエキリシは最後にその消えていく影の中から告げた。

「ああそうだ高畑。さっきの試合、お前の勝ちだ。
解らんか。解らんだろうな。試合を行っていた人間に時間を計っているような余裕などない。
また同様に、あの試合を見て喜んでいた、くだらない連中も気付いては居なかっただろう。いや、そんな余裕がなかったというべきか。
先ずお前が小僧を一撃でダウンさせた、その時点でカウント1。
審判がなにやらどうでも良いことを口走っていた時点でカウント4。
審判が駆け寄って、お前を『やりすぎだ』と非難した時点でカウント6、あるいは7。
そうしてお前の勝ちだと一旦審判が宣言した時点でカウント8。
お前が小僧に向かって何か言葉を吐いていた時点でカウント9。
そうして、Aクラスの出席番号八番、ないしは出席番号二十七番が応援やらなんだか知らんが叫んでいた時点でカウント10だ。

一体どれほどの人間があの状況下で冷静にカウントできただろうな。
いや、カウントなど出来まい。
お前の圧倒さ。小僧の無力さ。そうして、その反則10カウント後に立ち上がった小僧の根性だとか言うものを目の当たりにして同情しないヤツは居まい。己はあの小僧に一ミリも同情などしなかったがな。
さまざまな要因が重なり合ってお前が負けただけだ。あの小僧の実力など一ミリもない。
ただ、周囲の人間が冷静に行動できず、誰も彼もお前を悪役と決め付けた時点で―――あの小僧の勝ちは決まっていたようなものか。
じゃあな高畑。次、戦闘行為を行うときは生き残りをかけた戦いをしろ。同時に手段は選ぶな。容赦もするな。何であっても。
言い残したことはまだあるがこの辺りにしておいてやる。あんまりあの小僧に正々堂々など教え込ませて居たら、あの小僧、ある日に何でもない地雷源に飛び込んで死ぬぞ。己はそれでも構わないが」

 暗がりに完全に消えたキノウエキリシ。
その暗がりから投げ出された時計を見て、タカミチ・T・高畑は顔を僅かに顰めた。
彼とネギ・スプリングフィールドが戦った時刻を計算していたのだろうか。時計はストップウォッチ機能が使われた状態で停止している。
ストップウォッチが止まっている時間は、12秒53。
タカミチ・T・高畑がネギ・スプリングフィールドと言う少年をあのリングに沈めた時刻から数えられて、12秒53。
ネギ・スプリングフィールドと言う少年のカウントダウン負けを立証する証拠を残し、キノウエキリシは去った。
時計はもう殆ど電池がないのか、文字は徐々に掠れ、デジタルの時計は少しずつではあるがしかし確実に限界が来る。限界と言う名の停止。

 タカミチ・T・高畑は暗がりを一瞬見つめただけで、自らの仕事を行うべく行動を始めた。
彼の言いたかった頃は解る。
それでもタカミチ・T・高畑はネギ・スプリングフィールドと言う少年の過去を知らないキノウエキリシに反論すべきだっただろうか。『君は、ネギ君の気持ちを考えたことがあるのかい』と、そう言えば良かったのだろうか。
 だが変わるまい。
言ったところで、タカミチ・T・高畑はキノウエキリシの返事を知っていた。
知っていたが故、タカミチ・T・高畑はそうは言わなかった。そう、告げたところで、彼の返答はたった一つ。

「それがどうした。何処の誰があんな小僧の気持ちなど理解したがる」

 限界と言う名の停止を向かえた時計。証拠は消え、事実を知る人間はたった二人。
 タカミチ・T・高畑と言う男は、その事実を告げることはなく。
 機能得限止(キノウエキリシ)は、関係ないと言わんばかりで、この事実を己が裡に封じ込めた。

 

 機能得限止は、学園祭三日目を己が生物準備室で眺めていた。
 その眼で見ているのは、しかし、遠くの鬼神でも、魔法使い達の攻防でない。
 それがどうしたといわんばかりに空を行く。
 そんな、渡り鳥を見つめていた。

 

 そうして時間軸は戻る。
2003年の学園祭終了から暫く経った頃。
珍しく図書館探検部の所属している三人がネギ・スプリングフィールドの授業に昼休みに遅刻する寸前で飛び込んできた頃より一時間後。
クラスメイトとその担任である少年とのほほえましく続いた授業の次の授業が始まるまでの休憩時間、絡繰茶々丸は、意図せずともクラスメイトの声をその耳から記憶中枢へ取り込んでいた。

「次って、キノウエ先生の授業だっけ?」

 声の主が誰かなのかは絡繰茶々丸は判断できている。
彼女は記憶中枢にクラスメイトをはじめ、今まで遭遇した全ての人物の声調を記憶している。該当する人物の声は、出席番号十六番佐々木まき絵の声と、出席番号五番、和泉亜子の声。

「うん。そやな」
「私キノウエ先生苦手だなぁ…厳しくないけど、いや、あれってそもそも厳しいって言うのかなぁ?」
「う〜ん…確かに厳しい言うよりも…どちらかって言うと、興味なさげやよな。
ウチらの事出席番号でしか呼ばへんし。他人行儀って感じはせえへんでもないけど」
「でもやっぱり苦手だなぁ。副担任で三年間私たちと一緒だけど、修学旅行でも一緒じゃなくて結局しずな先生が引率だったんでしょ?
 それに真面目な態度で接しないと何でも無視されちゃうし…先生って言うよりも、なんだかなぁ、研究者って言うほうが表現良くない?」
「珍しいなぁ、まき絵がそんな言うなんて。
でも解らへんでもないけど、授業やテストはあんまり難しくないやん。
いや、三年になってからはそりゃ難しくもなってるよ。でもテストは出席しただけで点数の半分はもらえるし、テストの問題も一問だけで、それ合ってるだけで百点やし。先生としてのお話も結構為になるし。
先生としてみれば、新田先生とかよりもええと思うよ」
「うん…それはそうなんだけどね? でもやっぱり苦手だよ。
ネギくんみたいに笑ったりもしないし、表情の変化なんてこれっぽっちもないじゃん。
校舎の中歩いていたって出会う事なんて全然ないし。生物準備室にこもりっきりなんでしょ? なんだか嫌だなぁ…それ」

 絡繰茶々丸はその会話意図せず記憶中枢へ取り込んでしまう。
それは彼女もまた、佐々木まき絵同様、機能得限止と言う人物へ意図せぬ苦手意識を払っているからでもあった。
 絡繰茶々丸は機械である。人間では、生き物ですらない。
それを深く問い詰めるような人間はこのクラスでは長谷川千雨程度だろう。
基本絡繰茶々丸が機械であると言う事に意思を割いている人間は、このクラスで一人も居なかった。
否、正しくは一人だけ。まさに、このクラスの副担任を勤める機能得限止のみが、絡繰茶々丸と言う少女を人間としては見ておらず、生き物としても見ていなかった。
 彼女は一度だけ機能得限止の表情が変わる瞬間を知っていた。
 普段は石の様に、無表情。何があっても『我関否』を貫き通す男性が顔を変えた一瞬。
たった一度だけ、絡繰茶々丸は機能得限止と言う人物の表情が歪んだ時を見た一人でもある。
 あれは、まほら武道大会の時か。ネギ・スプリングフィールドとタカミチ・T・高畑の試合が終わり、神楽坂明日菜と桜咲刹那の試合が開始した時であった。
周辺の男性観客がなにやら喜んでいるのを、絡繰茶々丸は理解できずに、しかし、その試合を眺めていた。時折、真横に来た知らず知らずの胸の高鳴りを覚える少年を見つめながら。

 そんな折であった。神楽坂明日菜と桜咲刹那の激闘が繰り広げられていた舞台の、更に向こう。
絡繰茶々丸やネギ・スプリングフィールドらが居る位置とは真逆の位置に、目立たぬ、まさに影のような出で立ちで今まさにその場を立ち去ろうとしている機能得限止を確認したのだ。
 止めに行ける様な距離ではないし、何より、機能得限止と言う人物を良く知らない絡繰茶々丸は彼を見ただけであった。
特に関心もなく、目の前の試合と、横に居る少年のほうに心捉えられていたからである。
だが視た。見てしまった。絡繰茶々丸は、今でもその表情の変化を忘れてはいない。
記憶中枢から削除する事も出来ない。何故出来ないのか、その原因も解らないが、恐らく、その表情の変化は人間ならば、間違えなくトラウマとなるだろう変化だったからであろう。
絡繰茶々丸が見てしまった面構えの変化は、それほど"心"に深い傷を作る、そんな抉り出すかのような笑みだったのだから。
 その変化は先ず神楽坂明日菜の変化より始まる。
突如として身体が大きく揺れた神楽坂明日菜。その一瞬後、神楽坂明日菜の眼に涙が浮かび、持っていたハリセンが巨大な剣になって、桜咲刹那の顔面目掛けて叩き落された直後であった。
桜咲刹那は避け、神楽坂明日菜は正気を戻したが、その一瞬。絡繰茶々丸は観たのだ。
見てはいけないものを見た気分を、絡繰茶々丸は初めて味わった。
胸の奥に湧き上がった正体不明の不快感。
横に居る少年を事を思ったのとは表裏逆に位置する、しかし、表裏逆でありながらさらに深いもの。
 それは、恐怖だったのだろうか。
そう、絡繰茶々丸は恐怖と言うものを感じたのかもしれない。
彼女がその表情の変化を見たのは一瞬であった。一瞬で観て、一瞬で眼を離した。
だが覚えている。否、その記憶中枢に焼き付いたかの様に刻まれている。
眼は見えなかったが、耳まで割けたかのような笑み。
何を見て笑ったのか。機能得限止なる人物が何を望んでいて、何を見れたから笑んだのかは絡繰茶々丸は理解できていない。
だが、その時の笑み。中等部生活の間、機能得限止なる人物の授業を受け、時折声を交えた程度の時でさえも、一度として表情を崩さなかった機能得限止の表情の変化を見たが故、絡繰茶々丸は、機能得限止に苦手意識を懐いていたのかもしれない。


「着席」

 入り口付近から声がした。見開いていた冊子を閉じ、机の中から授業道具を出す。
他のクラスメイトも、一切の口を紡ぎ、無言の内に教科書等を用意していく。
 教壇に登った機能得限止の表情に変化はない。
虚空を睨みつけるかのような視線のまま、起立、とだけ告げ、日直がソレに従い、3-Aの全生徒を起立させ、一礼、その後座らせる。
 それを見届けてから、機能得限止は毎回点呼を取る。
副担任の仕事なのであろうか。絡繰茶々丸が知る三年間で、機能得限止は一度としてこの活動を止めた事はない。毎回の授業で必ず点呼を取り、必ず出席確認を取る。

「出席番号一番―――欠席だな。次二番」

 彼は普通とは違うが、普通の人間だ。幽霊など見えない。魔法などと言うものにも、一切関わりない。
よって、存在はしているがソレが見えていない相坂さよの事など、眼中にすらないだろう。
だがそれでも点呼するのは変わらない。これも三年前から一切変わっていないのだ。
朝倉和美が、はい、と言う。普段の気さくな態度はなく、真摯な視線でのみ応じる返答。
機能得限止には冗談も何もない。彼女らが面白おかしな行動を取ろうが、機能得限止はまるで興味を示さない。
常に無表情にやった行為を流すのみ。それを知ったのは一年の頃で、今ではまったく機能得限止の前でお茶らけた3-Aを見る事はない。
 絡繰茶々丸をはじめ、多くのクラスメイトは、今尚覚えているだろう。Aクラスの人間が、初めて機能得限止と出会った時の事を。

 さまざまな質問が飛び交った。まだ小学校を卒業したばかりの彼女らにとって、新しい授業をやってくれる先生に興味を懐かないわけはないし、副担任であるというのならば、なおさらだ。
 だが彼は、機能得限止はたった一言で、それらの質問を切って捨てた。

「だからどうした。その質問に答えて、一ミリでも己に利益があるのか」

 それでおしまい。機能得限止とAクラスの間に、致命的な溝が発生するには充分だった。
だが、その溝は一月経たずに狭まり、しかし、相変わらず溝は深く、より深くなっていった。
 彼の授業は理解しやすく、3-Aでも、他のクラスでも、他の教員からも定評は良い。
また、時折思い出したかのように紡がれる授業外の言葉も、よくよく考えてみれば教師として、生徒を案じる面が見えなくもないと言えた。
 だが何より良かったのが、副担任であり、担任が温和であった事であろう。
大抵の事は笑って許してしまうタカミチ・T・高畑が担任であり、殆ど何も語らず、担任に任せ続ける機能得限止。
担任がネギ・スプリングフィールドに変わっても、その状況に変化はなかった。
ネギ・スプリングフィールドと話している光景は見た事はないが、少なくとも、機能得限止はクラスのことは完全にネギ・スプリングフィールドに任せ、極力副担任としての仕事しか行っていない。
 これはAクラスの彼女らは一人も知らない事ではあるが、機能得限止はネギ・スプリングフィールドと、僅か二度のみ声を交えている。
だが、交えたと言ってもその二回は、一回目は始めて出会った時であり、二回目は集合写真を撮る時にかけられた声程度であった。
 しかも、機能得限止とネギ・スプリングフィールドが尤も長く話したのは一回目だ。
それも、長く話したといっても、ほぼ機能得限止からの一方的な独白。彼は、ネギ・スプリングフィールドにこうとだけ告げた。

『あのクラスはお前のクラスだ。
お前が担任で、己が副担任。担任常駐と言うのであれば、本来副担任は生徒と関わる事など無い。必要がないからだ。
必要な事は全て担任であるお前が教えてやれ。副担任である己は関しない。あのクラスの連中は、お前の生徒だ。全て担任であるお前に任せる』

 彼は副担任と言う立場を理解していた。
副担任と言うのは、所詮予備だ。必要以上に生徒と関係を持つ必要性は皆無だ。
担任こそが生徒たちの是となり、時に非となる存在であり、副担任など所詮は予備。担任が休んだ時など、一時生徒たちの前に姿を見せてその日だけ担任の仕事を受け持つのが副担任なのだ。

 彼は忠実にそうであった。
タカミチ・T・高畑が担任であった頃は何度かAクラスを受け持った事も合ったが、ネギ・スプリングフィールドに代わってからは殆ど、否、一度も副担任としてAクラスの前には立っていない。
ホームルームの時や、学園祭の決定の際ですら姿を現すことがなかった。
全てをネギ・スプリングフィールドと言う担任に任せ、副担任と言う予備と言う役割しか果たすような真似はしていない。それが正しいから立っていないのだ。
不必要に関わる副担任など不謹慎なだけ。
彼は、それを重知して副担任を言う職を行っており、そして、もう一つの職である生物教師として活動し続けた。

 だからか。Aクラスには彼を苦手とする人間は居ても、徹底的に嫌っているような人間は居なかった。
不思議と嫌えないと言うわけではない。
顔が良いからと言うわけでもない。あの石膏のような無表情だ。近寄り難い方が強いだろう。
性格が良い、と言うわけでもない。そも、機能得限止の性格など、だれが捉えられようか。
 さまざまな理由があっただろう。
それでも、彼を嫌う人間は殆ど居なかった、苦手とし、近寄りがたい雰囲気に圧される事はあっても、皆真面目に授業を受けていた。否、その様な雰囲気だからこそ、皆授業を真摯に聞いていたのかもしれない。

「番号三十一番を確認。出席三十名。欠席一名。提出物はなし。教科書五十四頁を閲覧。今日は其処に関係する授業を行う」

 告げると同時に、機能得限止は黒板に向けて英文を書き込む。
少々クラスは戸惑った。今日の今日まで彼が授業に関係しないものを黒板へ書き込んだ事などなかったからだ。
だが、しかし、それは授業にまったく関係ないものなどではなかった。
白炭で黒板に書かれた文字は『chime(a)ra』。
何処からどう見ても英文であり、しかし、英語担当のネギ・スプリングフィールドの授業でも見たこともないような、だが、英語を勉強しているのであれば、辛うじて読み取れる文でもあった。
機能得限止は英語学教師ではない。
彼の担当は生物。生命体の成り立ち、構築などの起源を伝える役割の人間だ。
その生物の知識の中にも英語で形成された専門用語のようなものはあるだろう。しかし、黒板に書かれた英語は少々異なったものだ。Aクラスの数人の人間はそう悟った。

「出席番号四番。これを読めるな。読め」

 命令形で、かつ白炭で指し示される。
だがしかし、既に三年もの付き合いだ。
最早彼のこの様な態度に文句を言うような人間はこのクラスにも、否。他の彼の授業を受ける人間にはいないだろう。
出席番号四番。呼ばれた綾瀬夕映は、渋々ながらといった顔立ちで立ち上がり、その黒板の英語を読む。

「…キメラ、です」
「正解。着席」

 綾瀬夕映の方へ向けられた白炭が下げられ、着席を促す。しかし、珍しい事に綾瀬夕映は席には座らなかった。

「何か問題でもあったか」
「いえ、ないです。ですけれど、生物の授業とキメラ、と言う単語は何か関連性が無いように思うです。キメラと言うのはファンタジー小説などに登場する―――」
「そうだ四番。お前の言うとおりだ。だからこれからソレを説明してやる。着席」

 立った時同様、渋々ながら綾瀬夕映が着席。
恐らくはそのときクラスメイトの、黒板に書かれた英語に反応した数人が持つであろう疑問を代弁して綾瀬夕映は語った。
キメラ。彼女の言うとおり、ファンタジー小説などで登場する事の多いモンスターの名。何故それが生物の授業で出てくるのか。数人は、それを疑問視していたのだ。

「この英文『chime(a)ra』はそのまま『キメラ』と読む。
キメラと言うものは確かに出席番号四番の言うとおり、多くのゲームや小説、幻想物語などで登場する怪物の名前として用いられているが、実際、生物学に『キメラ論』と呼ばれるものは存在している。
幻想物語などで登場するキメラの起源はギリシア神話に登場してくる獅子、蛇、羊、空想上ではあるが龍の合成した生命体が期限となっている。
だが、それとは別に生物学的に存在している『キメラ論』。
幻想物語上では合成された動物同士をキメラと呼称している事が多いが、ソレは正しくない。
生物同士の複合、ある個体と個体の、生物同士の融合理論は『キメラ』ではなく『モザイク』だ。
『キメラ』と呼称してよいのは生物界では植物界側のみ。植物と植物の融合が『キメラ』と呼称される生命体に該当する。
詳しく言えば、一植物体中に遺伝子型の違う組織が隣り合って存在している現象を『キメラ』、ないしは『キメラ論』と呼ぶ。

 接木と言うものを知っているな。
切り株に切れ目を加え、苗木を其処へ埋め込む事でその切り株を永らえさせる法だ。
この接木において台木と接穂が癒着してから癒着部で切断すると、そこから新しい芽を生じさせ、その切れ目には台木と接穂の細胞が色々な形で混同している。
また、接木以外にも体細胞の突然変異によっても自然発生する可能性がある。
なお全体を『キメラ』と呼ぶのではなく、組織混在の状態によって『キメラ』の呼ばれ方は変化する。
基準に従い区分けされている組織混在をしている場合は『区分キメラ』。
その切断癒着部の縁周りに組織が混在している場合は『周縁キメラ』。
基準に従い、かつ切断癒着部の縁周りに組織混在が発生している場合は『区分周縁キメラ』などに分類される」

 黒板に描かれていく図式。
『生物界』と言う文字の下には『モザイク』と、『植物界』と言う文字の下には『キメラ』。
そうして、その『キメラ』の文字の下に書き加えられていく『区分』『周縁』『区分周縁』。
 機能得限止は、あくまで淡々と授業を進行させていき、Aクラスの人間もまた、淡々とその授業を受け、ノートへ向かって黒板の内容を写し取っていくのみだ。

「なお、先ほども言ったとおり、『キメラ論』は生物界、植物界どちら共にも該当する。
単純に呼び方が『モザイク』、『キメラ』なだけであり、一個体中に遺伝子型……生物個体の特性を決定する遺伝子様式の違う組織同士が隣り合って存在している現象を『植物界』では『キメラ』。『動物界』では『モザイク』という呼称の違いが存在しているのみである。
さて、ここで一つ問いを出す。ある生物αの脳細胞を抽出し、生物βの受精後の卵への脳細胞にあたる位置と交換を行ってみる。
その生物は外見上は生物βのものであったが、その脳は紛れもなく移植した生物αの脳を持った生命体であった。
これはモザイクである。このモザイク生命体の頭頂部の毛髪は生物αのものであり、発声なども生物αのものであった。また生物αとしての生態癖も視られた。
ただし、それらの発声、生態癖は全て生物βの器官系、器官子系を用いていた。
さて、このモザイク生命体、生物の行動様式を定義づけるのが『脳』であると限定するのであればこのモザイク生命体は紛れもなく生物αと言える。
ここからが問いの本番だ。出席番号十五番に問う。このモザイク生命体は生物αとして生きざらるや否か」

 白炭が出席番号十五番、桜咲刹那に対して向けられる。
だが、指された瞬間に桜咲刹那の表情は若干曇った。
気付いた人間は数人。近衛木乃香、神楽坂明日菜、興味はなさそうであったがエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル、絡繰茶々丸の計四名。
その四名が桜咲刹那に知る事実とは何か。桜咲刹那の正体であろう。
もし機能得限止という人物が桜咲刹那の正体を知っていたというのならば、否、知っていたとしても、あまり対応は変わらないだろう。
機能得限止と言う人間はそう言う人間だ。だたし、彼の桜咲刹那に対する視線は一変する。
機能得限止が桜咲刹那の正体を知った場合、機能得限止は彼女の事を"人間"としては見ず、"モザイク"と呼ぶであろうからだ。
 桜咲刹那は烏族と呼ばれる種族とのハーフ。混血であった。
機能得限止の言葉を借りるのであれば、人間と烏族と呼ばれる機能得限止から視ての空想上の生き物との混血。
『人間』の遺伝子型と、烏族の『遺伝子型』を取り揃えた『モザイク』。
あくまで機能得限止と言う生物学教師の目から見ればの話ではあるが、桜咲刹那は『キメラ論』に該当する『生物』であった。
 それを機能得限止が知っている筈も無い。筈もないが、機能得限止は時折獣並みの勘と言うものを以って、質問を当てる事がある。
今回もその勘が働いたか否かは判断できない。だが、少なくとも桜咲刹那にとって、この質問は極めて現実的であり、かつ己の身を問われているかのようで複雑は心境でも合った。

「答えろ。出席番号十五番。このモザイク生命体は生物αとして生きざらるや否か」
「…生存は、可能であると思います。詳しい事は解りませんが」
「では何故そう思ったのかを返答せよ」
「……行動様式と言うものを決定するのが脳であると言うのなら、そのモザイク生命体の脳は生物αのものであるから、であると思います」
「結構。だが間違えだ。結論だけ上げれば、このモザイク生命体は瓦解する。生きてはいけない。確実に死亡する。
それは何故か。このモザイク生命体の脳は出席番号十五番の言ったとおり生物αの脳を補完した生物である。
だが、それはこのモザイク生命体の生存と実際は関係しない。あくまでこのモザイク生命体の"行動様式"を決定するのが"脳"であるだけであり、このモザイク生命体の生存に脳は邪魔者でしかないのだ。
いいか、このモザイク生命体は"脳"と言う部位を搭載した生命体βなのだ。
即ち、血液中に含まれている免疫抗体、遺伝子情報は生物βのものであると言う事だ。
生物βに内在している免疫抗体である組織免疫は生物β内の生物αの組織細胞を"異物"と判断して排除しにかかる。
皮肉な事に生物βと生物αは一個体の生命体であると言うのに、先天的な免疫は生物βではない生物αの脳細胞を外敵、あるいは抗原と認識、即ち同じ生物内でありながら生物βの遺伝子系は生物αを『"生物β"ではないもの』即ち"非自己"として結論する。
"非自己"として結論された生物αの脳細胞はこの矛盾により死亡する。
モザイク生命体にはこの様な危険性も孕んでいると言う事を忘れるな。尤も、この中から将来生物学者を目指す奴らが居なければ忘れても構わない」

 桜咲刹那の顔色は悪かった。
席についてから、近衛木乃香と神楽坂明日菜は桜咲刹那の顔色の悪さを何度か窺っていたが、この変化は劇的であり、見ていて辛くなるほどの変化であったろう。
 機能得限止は早い話が"キメラ生物は何時お互いの拒絶反応によって死亡するのかどうかが解らなくなる可能性がある"と告げたに等しい。
 桜咲刹那は烏族とのハーフ。
だが、自らの体内で完全にお互いの遺伝子情報が交じり合っているかなど、専門的な知識を持っていない桜咲刹那に解る筈もない。
皮肉な事に、桜咲刹那この授業の間に、何時如何なるとき死亡するかも解らない死刑宣告を受けたにも等しかった。
勿論、機能得限止にはその様な気持ちなど微塵もない。
微塵も意図せず機能得限止は桜咲刹那を指し、彼女の答えに対しての否定を執り行った。
そうしてそれは、そのまま桜咲刹那と呼ばれる『生物』の危険性を告げたにも等しかった―――

「き、機能得センセ!!」

 思わず、近衛木乃香は立ち上がり、かの生物教師の名を叫び、立ち上がる。

「質問は座ってでも出来る。だが聞こう。何か、出席番号十三番」
「そ、その危険性って・・・脳とかの移植やないと発生せえへんですよね?」
「否。この危険性は如何なる細胞同士でも発生の危険性は充分にある。
拒絶反応と言うものがあるだろう。ある人間の腕に別の人間の腕を移植した際に発生する抗原に対する免疫抗体の反応。
腕からでも生物βとは異なる遺伝子情報が別経路で進入した場合でも、これらのモザイク拒絶は発生する。
その際執り行わなければいけない事は、人間の腕同士の移植ならば、その移植された腕を切り落としてしまえば良い。
拒絶反応は急静止はしないだろうが、それでも悪化は防げる。
だが、先ほどの話であった卵胚状態で手を加えて誕生した生物αの脳を持つ生物βのような例。即ち、"先天性モザイク"と呼ばれる生命体であった場合はそれも難しくなる。
生まれながらにそうである生命体と言うのは絶妙な天秤にかけられた状態で生まれてくる。
突然変異でないのであれば、あるいは何れ、細胞組織同士の拮抗。拒絶反応は100%ない、とは断言できない。以上だ。着席」

 白炭が近衛木乃香へ向けられ、下げられる。
何時もどおりの着席を促す機能得限止の行為に、近衛木乃香は着席するしかなかった。
他に言うべき事などない。まさか、桜咲刹那が烏族とのハーフ。烏族との、先天的なモザイクなのだなど、言える筈もない。渋々、とは行かなくとも、桜咲刹那に匹敵するほど蒼い顔になっている点は否めない。

「このか…」

 神楽坂明日菜は不安そうな顔立ちで座った近衛木乃香と桜咲刹那の顔を見比べた。
お互いに蒼い顔。意図せずとは言えど、機能得限止は桜咲刹那に対し、ある種の結論を与えた。
何時来るのかも定かではない結末。正しいか正しくないかも解らない、一つの末路。
 神楽坂明日菜は機能得限止を観た。
石膏のような白い顔。変否の無表情で白炭を黒板上へ走らせていく姿には、罪悪感も何もありはしない。当然だろう。彼は桜咲刹那がモザイクなど知らない。
 尤も、知っていても機能得限止の出で立ちは変わる事はないだろう。
機能得限止と言う人間を知るAクラスの人間は知っている。そして、桜咲刹那の正体を知っている生徒は考える。
仮令機能得限止が桜咲刹那をモザイクと理解していたとしても、機能得限止は、一ミリの関心も示さないだろう事は。

 

 

「本日は此処まで。この後は担任教師の指示に従って行動すること。以上。起立」

 チャイムとほぼ同時に授業が終了する。
機能得限止の指示で日直が起立と明言。Aクラスの生徒は操り人形の様に立ち上がり、一礼。
その後席へと付き、機能得限止の体質と同時に、一気にため息と安堵の表情に切り替わる。
 だが、誰一人として機能得限止の事を話題にする人間は居ない。
機能得限止は三年間この様な授業を続けてきた。一分一秒開始が遅れたことはなく、一分一秒終了が遅れたこともない。
以外にも、これはAクラスの生徒にも当てはまり、彼の授業のときだけは、Aクラスの生徒は席に着くのが極めて早く、立ち上がるのも、機能得限止が去った後であった。
 明るい表情に戻り、今日の授業の完結を喜ぶ生徒。今から来るであろう子供担任に思い馳せる委員長。そんな教室の風景でありながら、一角では異様な気配が立ち上っている。
桜咲刹那の席。近衛木乃香は直ぐに立ち上がり駆け寄り、神楽坂明日菜、桜咲刹那の異変に気付いた龍宮真名もまた集う。

「せ、せっちゃん」
「刹那、大丈夫か? 顔が蒼いぞ」
「は、はい。大丈夫…です。ありがとうございます、お嬢様。…・・・ああ、大丈夫だ。すまない、真名」

 辛笑で応じる桜咲刹那の顔に、修学旅行終了からのあの明るさは立ち消えていた。
自らの肉体が抱える、自分さえも自覚できていなかった、思わぬ起爆剤。それを、意図せぬ人間に明言されたのだ。
意図して告げた、と言うのならまだ少なかれど反論などの余地もあろう。
だが、機能得限止には意図はなかった。彼は単純に授業を行って、単純に桜咲刹那を当て、彼女の答えに対し、間違いを指摘し、授業を普通に進行したに過ぎない。
だが、だからこそ、桜咲刹那が抱えてしまったショックも大きかった。
 俯き加減で蒼い顔の桜咲刹那を、見るに耐えなくなった神楽坂明日菜は駆け出した。背後から近衛木乃香の静止の声も聞こえたが、居ても立っても居られずにその場から、弾かれたかのように飛び出していく。
もう後五分もしない間に担任が来るであろうにも拘らず廊下へ飛び出し、生物準備室へ向かっていたであろう、職員室とは真逆の方向へ向かっていた機能得限止の背中を捉える。

「機能得先生!!」
「出席番号八番か。質問ならば授業中に行うのが良いぞ。担任も来る。時間にルーズな人間は将来使ってくれるような場所は少ないからな。尤も、人間的に生きる必要がないのなら、それでもいいが」

 珍しく意味のないような発言を行った機能得限止を気にする様子もなく、神楽坂明日菜は機能得限止の背後まで近寄る。
距離的には僅か一メートル。音もなく、幽鬼の様に振り返った機能得限止の冷淡な、石膏の様に無感情の顔を向けられるも、彼女はひるむ事もなく、真正面から言い寄った。

「あの、さっきのお話の中であった"モザイク"ってヤツなんですけど…その拒否反応って、どのぐらいの時間って言うか、か、確率って言うんでしたっけ? それで発生するんですか? 本当に予測立ては出来ないんですか?」

 使い慣れない単語を並べ立て、何とか伝えたい事を見繕う。
神楽坂明日菜が何を言いたいのかなど、機能得限止は興味を持ってはいなかった。
無用な話であれば切って捨てる気だったのであったが、授業の質問と言うのならば答えざる得ない。
それが機能得限止の考えであり、同時に、神楽坂明日菜に対して、唯一興味を持った瞬間を思い出した時でもあった。

「予測と言うのは不可能に近い。生物αと生物βの間に発生する免疫抗体の拒否反応の予測とはまったくの不可予知材料だ。
誕生したモザイク生命体が何時『免疫的自己』を発動し、生物βの遺伝子型が生物αの脳細胞、あるいは生物αの脳細胞遺伝子型が生物βの体細胞に対し"非自己"対象を結論付けるかは、もはやその細胞自体の意思に委ねるしかない。尤も、これは細胞に意思が存在していると言う仮定である。
生物では最早知覚不可能な領域の問題だ。
だが、出席番号八番。お前が何を危惧しているのかは知らないが、実際はあまり考えるほどの事ではないし、不安になるような事でもない。
そう、我々一般人間生命体を始め、多くの生命体も同じだと言う事だ」

 はて、と神楽坂明日菜は首をかしげた。
全ての生命体が同じ。それは、全ての生命体がモザイク生命体と同じ危険性を孕んでいる、そう言うことであった。
だが神楽坂明日菜にそれを理解できるほどの知識はない。よって首をかしげ、不可解をアピールする。

「解らんか。
良いか、モザイク生命体は生物αの遺伝子型と生物βの遺伝子型を持つ『キメラ論』により誕生した生命体だ。
このモザイク生命体は生物α、β両極端の遺伝子型を持つため、何時如何なるとき免疫的自己による"自己一部の非自己認定"を行うのかの判断は我々には出来ない。細胞遺伝学でも今だ解明の出来ていない状況だ。
生きている間に拒否反応は出ないかもしれない。移植と同時に拒否反応が出るかもしれない。と言う曖昧な判断しかつけられない。
だが、それは極論から言えば他の『キメラ論』に該当しない生命体でも同じ、と言う事だ。
解るか。モザイク生命体は何時体内で非自己認定による遺伝子型同士の拒否が発生するのか解らない。結果、発生してその生物が死亡するか、運良く生き残るかは定かではないが、それは『モザイク生命体』でなくとも考えられる、と言う事だ。
我々一般生命体が何時如何なるときも100%の安全を保障されているわけではない。
ひょっとしたら今日の帰り道、Aクラスの生徒の誰かが変質者に襲われて"死ぬかもしれない"。
ひょっしたら、さっきの授業中、飛行機でも隕石でも、何かが教室の中に突っ込んできてAクラスが全滅すると言う可能性は"否定できない"。
今もそうだ。人間の体内では毎日癌細胞が生成されている。
癌細胞とは体細胞の突然変異で増殖、転移を繰り返す悪性腫瘍だからな。いつ免疫機能が低下し、癌細胞がその悪性腫瘍と化して肉体を蝕みだすか、など"誰にも解らない"のだ。
いいか、モザイク生命体も、人間も、そうでない生き物も。"一秒後には即死するかもしれない可能性"と言うのは確実に内包しているのだ。
シュレディンガーの猫と言うヤツだ。生と死を同時に内包している。生き物は常にシュレディンガーの猫、の状態であると言えるのだよ。
未来など誰にも知覚できん。仮令未来を知っている、と言う人間が居ても決して信ずるな。自分で選んだとしても、それさえ違う可能性もあるのだからな。そう、だから―――」

 そのとき、神楽坂明日菜は思わず息を呑んだ。
今まで見た事がなかった表情の変化。それが機能得限止の顔に表れたのだ。
窓の向こうを眺める機能得限止の顔に過ぎった表情の変化。細められた目に宿った、軽い怒りのような。

「一先ずは生き残る事を優先しろ。何があっても自分を生かす事を思考するがいい。全力で生きる事。それが人間が最優先とすべき欲望だ。
全力ならざるものは死すべきだろう。中途半端な奴に、全力ではない奴に、ましてやいい加減な口調や行動しか取れない奴に生きている価値は無い。生きている奴への冒涜だ。死ぬべきだろう。
不平等な世の中だ。死ぬ事だけが等しく降りかかる、と言うのならばこの世に生有って生まれたお前を始めに我々は全力で生き抜くまで、と言う事だ。
出席番号八番。お前もそうするように努めろ。何があっても、だ。
生きたくても生きれないモノ。
死にたくても死ねないモノが存在している事を重知せよ。
お前の内には妙見の菩薩がいるようだが、それではダメだ。お前はまだ上を目指せるモノを内包している。
より生きる事に執着する存在。お前はそうなれるようにしろ。以上だ。担任が来るぞ」

 何時もと同じ顔立ちに戻った機能得限止はその場から、再び音もなく、幽鬼の様に踵を返して生物準備室へと向かいだす。
ソレと同時に、背後から近衛木乃香の呼ぶ声が聞こえた。どうやら、彼女らの居候にして、担任が来たようだ。
 神楽坂明日菜は機能得限止の言った事の半分も理解できていなかった。
だが一つ解った事は、生き物は何時か死に、その荷は何時降りかかるかもわからないのだから、モザイク生命体も人間もそうでないモノも、一日一日を全力で生きていけ、と言うこと程度だけが、神楽坂明日菜の胸裏に刻み込まれた。
 それともう一つ。機能得限止が、神楽坂明日菜自身の内には妙見の菩薩が在ると言った事。
これも彼女は理解していなかったが、少なくとも馬鹿にされたような気分ではなかった。
機能得限止も、馬鹿にして言ったつもりなど微塵もなかったのだろう。
だから、神楽坂明日菜は特には何も言わなかったのだ。
 振り返る事もなく、小さな担任の姿を確認した神楽坂明日菜は、桜咲刹那にどう説明して良いのかも解らず、教室へと駆け足で戻っていった。

第二十二話〜鋼性〜 / 二十四話


【書架へ戻る】