Act1-10

 

【遠野家】


遠野家の居間は、窓が割れていたり、ソファーが壁にめり込んでいたりと酷い惨状と化していた。
普通の人ならば賊が入ったと思うかもしれないが、ここ遠野家に賊が入ることなど有り得ない。
最強の人外であるあーぱー猫、殺し屋集団に所属するカレー狂を撃退するための罠がそこかしこに仕掛けられているからだ。
並の賊など、遠野家の入り口どころか、門から三歩先に辿り着くことすらできずに天に召されてしまっている。
では、誰が遠野家の居間をこのような状態にしたのだろうか?

「はあ…また随分と破壊しましたねー、秋葉様」

「…姉さん、絶っっっっっ対に掃除の手伝いしないで」

「あはー…」

この惨状を気にせずに、割烹着の少女とメイドの少女が居間に入ってくる。
その視線の先には、居間の真ん中で仁王立ちして荒い息を吐く、真っ赤な長い髪をした少女。
ここ遠野家の現当主にして、この惨状の犯人である遠野秋葉は、遠野志貴の義理の妹に当たる。
彼女は幼い頃から志貴を慕っているのだが、素直にその気持ちを表すことが出来ずにヤキモキしているのだ。
そんな秋葉が、志貴が女子校の多い麻帆良に向かったなどという話を聞いて、ブチ切れずにいられるであろうか。いや、ない。

「はぁーっ…はぁーっ…」

「秋葉、少しは落ち着きましたか?」

「…ええ、少しは、ね。まったく…あの朴念仁は…!!」

それまで真っ赤だった髪の毛が艶やかな黒髪へと変わり、少し離れた場所で無事なソファーに座って平然と紅茶を啜っているシオンの言葉に、まだ怒りの篭もった声で答える。
無事に残っているソファーに腰を下ろすと、琥珀がタイミングよく差し出した紅茶を一口飲む。
物に当たったことで少しは冷静さを取り戻したのか、その紅茶を飲む動作から優雅さは失われていない。

「シオン、早速で悪いけれど向かってくれる?」

「待って欲しい、秋葉。麻帆良といえば、私にとっては敵陣に潜り込むようなものです。…ついては、ボディガードとして、一人友人を連れて行きたいのですが、構わないだろうか?」

友人であるシオンからの申し出に、秋葉は少し不安げに表情を曇らせる。
秋葉は前回タタリによって異界と化した三咲町の中で、シオンと共に戦い、互いにその力を認めていた。
その彼女がボディガードを希望したということは、今回の一件が厄介なことになるかもしれないと考えている証拠である。

「…わかったわ、シオン。貴女の友人に望むものがあるなら、こちらで用意するから言って頂戴。
それと…何かあったらすぐ連絡をよこしなさい。出来る限り力になるわ」

「感謝します、秋葉。…琥珀、その友人を連れてすぐに向かうので、ヘリの準備をお願いします」


シオンがその友人を誘うために遠野家を出た後も、秋葉は居間に残り、腕を組んで思案気な顔をして黙り込んでいた。
ヘリの準備を頼まれた琥珀もおらず、この場には秋葉と翡翠しか残っていない。
しばらくして意を決したような表情で顔を上げると、後ろで何も言わずに控えていた翡翠に向けて口を開いた。

「…非常に不本意ですが、あの人外達の力を借りましょう。翡翠、アルクェイドさんとシエルさんに連絡を取りなさい」


〜朧月〜


【刹那】


「ねーねー、せっちゃん。ウチもその…志貴ちゃんに会ったことあるん?」

「えぇ、まぁ…ですが、幼い頃でしたからね。ほら、川で溺れた時に助けてくれた…」

「あ、その話は修学旅行の時に、このかさんから聞きましたね」

そう、お嬢様が川で溺れ、助けようとした私も溺れてしまった時、偶然にも黄理様と共に志貴ちゃんが来ていた。
自然の中で訓練している彼は泳ぎも上手く、溺れる私とお嬢様の二人を容易く川岸まで連れて
行ってくれたのである。
その後、あまり話す機会も無く、慌ただしく帰って行ってしまったけれど。

「あー、あの時助けてくれた人が、その志貴ちゃんやったんかー。あーん、覚えてへんー!」

「まぁ、幼い頃に一度会ったくらいじゃあ、覚えてなくても仕方ないわよ。…んで? その人、今どうしてんの?」

「え…。あ、それは…その、えっと…」

つい、口篭もってしまう。
そして、心の奥底から言いようの無い悲しみが湧き上がってくる。
泣き出すほど弱くはないけれど、それでも表情が曇ってしまうのはまだまだ修行が足りない証拠なのか…。

「…刹那さん?」

「えっと…マズイこと、聞いちゃったかな…?」

「せっちゃん…?」

お嬢様達が、急に黙り込んでしまった私を心配そうに見ている。
久しぶりに彼を思い出してしまったせいだろうか、感情を抑えるのに苦労する。

「あ…いえ、大丈夫です。その、彼は…」


川で溺れたお嬢様を助けることができなかったことを機に、強くなることを決心した私は、より一層剣の修行に打ち込んだ。
志貴ちゃんがあの時烏族から私を守ってくれたみたいに、私がこのちゃんを守る。
そんな決意を心に秘めて、京都神鳴流の技を磨いていた。
修行の日々が続いていたある日、道場で訓練していると、詠春様が顔を見せた。

「刹那君…ちょっと、話があるのだが…」

「え…あ、はい」

詠春様は普段の穏やかそうな表情を曇らせながら、道場の裏庭へと歩いていく。
私はどうかしたのかと思いながら、詠春様の後をついて行く。

「あっ…」

その途中、ゴトン、という鈍い音を立てながら、志貴ちゃんのくれた短刀が床に落ちる。
志貴ちゃんがくれた短刀は、練習用と言っていながらも、見事なまでの切れ味を誇っていた。
文字通り、私にとっての懐刀として、肌身離さず大切に持ち歩いていた。
落としたりしないよう、しっかりと懐の中に入れておいたのに、その大切な短刀を落としてしまう。


――――何か、嫌な予感がした。


「詠春、様…?まさか…志貴ちゃんに、何か…」

信じたくなかった。
信じたくないから、言葉にして聞いてしまった。
ただ単に、私がうっかり短刀を落としてしまっただけで、単なる勘違いだと否定して欲しかった。
けれど、詠春様は無言のまま沈痛な表情を浮かべ、小さく、しかししっかりと頷いた。

「そん、な…」

「…昨夜、混血の遠野の襲撃を受けて、七夜の里は壊滅したらしい。彼の遺体は見つかっていないが、生存者は…絶望的だそうだ」

遠い昔に鬼と交わったという、混血の遠野。
鬼の強大な力を受け継いだ彼らが、退魔業から手を引いた七夜をなぜ襲撃したのだ。
あの優しい七夜の人達が、なぜ殺されなければならないのか。
なぜ、私に生きる希望を与えてくれた、あの強くて優しい少年が、死ななければならないのか。


…憎い。


憎い。


憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い――――――――!!!


その『遠野』という名が、私の心の中に憎しみと共に深く刻み込まれていく。
拾い上げた志貴ちゃんの短刀を握る手に、力が篭もる。
その時、ゴトン、という音と共に、鞘に納まったままの刀身が外れて床に落ちた。
柄の中に忍ばせてあったのか、刀身と共に小さな紙切れがひらひらと舞い落ちていく。
今まで何度か使用したことによって、紙切れでしっかりと納まっていなかった刀身が落ちてしまったらしい。
何だろうと思い拾い上げて見ると、志貴ちゃんの文字が短く書かれていた。


『せっちゃんが、幸せになれますように』


「…志貴、ちゃん…」

知らず、頬を伝う熱いものが次から次へと溢れ出してくる。
私は必ず強くなって、『遠野』に復讐を――――。

「ぁ……」


復讐して…幸せに、なれる…?


「そん、な…何で? そんな願いを、されたら…」


気付かなければ良かったのに、私は――――気付いてしまった。


「あ…ぅ…っ、うあああああああああああっっっっっ!!!!!」

泣いた。
天まで届けと言わんばかりに、大声を上げて泣いた。

復讐したら、幸せになんかなれない。
志貴ちゃんの最期の願いが――――さっきまでの私の深い憎しみを、霧散させていってしまう。
こんな、苦しい呪いを残すなんて…酷過ぎる。
私は、初めて、彼を憎んだ。

…わかっている。
私が勝手にその事実に気付いてしまっただけ。
気付かずに、復讐してしまえば良かっただけ。
けれど、私が憎しみで『遠野』を殺してしまえば、優しかった志貴ちゃんの姿が霞んでいってしまうから――――。


「…志貴ちゃんを守ってあげられなかった分、このちゃ…お嬢様だけは必ず守ろうって、心に誓ったんです。私にとっての大切な人を、これ以上失わないように…って、うゎっ?!!!」

やはり、少し涙が滲んでしまっている。
いなくなっても、やはり心のどこかに彼への想いが残っていたのだろう。
そんなことを思いながらゆっくりと目を開けると、お嬢様がテーブルの向かい側からこちらに乗り出してボロボロと泣いている。

「せっちゃん〜…。うぅっ、ふぇっ…ウチ、ウチ〜…」

「刹那さん…その、志貴って奴のこと、悪く言ってゴメン…。まさか、そんな事になってたなんて思わなくて…」

アスナさんはさっき言ったことを気にしているのか、バツの悪そうな顔をしている。
私は暗い顔をするアスナさんに、首を振って苦笑する。

「いえ、いいんです。彼は、私が幸せになれるよう願ってくれたんです。…私がいつまでも彼の死を引きずっていたりなんかしたら、きっと彼に怒られてしまいますよ」

「刹那さん…」

今、こうして優しく微笑むことができるのも、彼のおかげ。
彼が教えてくれた、幸せになるための大切なこと。
ふと窓の外に視線を向けると、既に陽は傾き空を赤く染め上げていた。


今はもう、届くこと無きこの想い…緋色の空遠く――――――――





□今日の裏話■


「うーん…ヘリって言っても、お金かかりますからねー…」

シオンからヘリの手配を頼まれた琥珀は、思案気な顔で廊下を歩いていた。
考えているのは、秋葉に渡されたお金をどう節約して自分の懐へ収めるかということである。

「…メカ翡翠ちゃん・ウェイブライダーモードでいいかしら。あー、でも友人も連れて行くって言ってたから、さすがに二人は乗せられないか」

メカ翡翠にプログラミングされているウェイブライダーの意味は、『大気圏突入』である。
琥珀はそんな怖いことを呟いていたが、大して策が浮かぶわけでもないので、仕方なくヘリを手配しに向かったのであった…。


「この前ファンネル装備も造っちゃいましたし…次はどうしましょうかねー」

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