慣れていたと思ったはずなのに。
いざ現実を突きつけられれば。
違う自分に気づかされる。
Another Name For Life
第23話 異邦人の心
は、どこへ行くでもなくゼラムの街をふらふらとさまよっていた。
街のざわめきも、今のの耳には入ったそばから流れて出て行ってしまう。
もはや、どこを歩いているとか、屋敷を出てからどれだけ経ったのかとか、そんなことはどうでもよくなってしまっていた。
ただ、あのときのネスティに言い放たれた言葉と。
そのあとの、自分を引きとめようとした声が。
いつまでも耳に残り、頭の中でぐるぐると回り続けていた。
――なんだよ。
私だって、充分らしくないじゃんか――
はそっと、誰にもわからないほどかすかに自嘲の笑みを浮かべた。
慣れていた。
そう、思っていたはずなのに。
かつての自分さえ否定させるほど、この世界は居心地が良かったのだと、今更ながら思い知らされる。
重くひとつため息をついて顔を上げると。
「…………あ。」
どこをどう歩いてきたのか、目の前には蒼の派閥の本部があった。
ここに来たって、どうしようもない。
それどころか、もしあの“陰険なおっさん”にでも見つかってしまえば、自分たちがまだゼラムにいるのを知られ、またネスティたちが嫌味を言われる。
早々に立ち去ろうと踵を返したその時。
「…………おや、お前さんは……」
「……!?」
あまり耳慣れぬ、でも聞き覚えのある声に思わずはっと振り返ると。
「あっ……ええと…………ラウル、さん?」
「ほぅ、覚えていてくれたのか」
マグナ達の師匠にして、ネスティの養父。
ラウル=バスクが、微笑を浮かべて立っていた。
* * *
かちゃ、と。
上等な香りの茶が入れられた高価そうなティーカップが、の前に置かれた。
「さ、どうぞ」
「あ……いただきます」
ここは高級住宅街の一角にある、バスク邸。
派閥の前からすぐに立ち去ろうとしただったが、「せっかくだから、少し話でもせんかね?」と優しい笑顔で言うラウルの誘いを断りきれず、気づけば応接室のソファに座らされ、お茶まで出されていた。
「それにしても、屋敷へ戻ろうとしたときにお前さんを見かけたときは驚いたぞ。
もうとっくにゼラムを出たと思うておったからのぅ」
「まぁ、いろいろありまして……」
苦笑しながら、出されたお茶を口に含む。
香りもさることながら、味も一級品である。普通ならば確実に舌鼓を打つであろう。
「味の方はどうじゃな?」
「おいしい…………と思います」
たぶん。
味覚が未発達のには、香りの善し悪しは多少わかっても、味に感想を言えるほどではない。
お世辞でも「おいしい」と言い切らないに、ラウルは頬を緩めた。
「お前さんは、ネスと同じようなことを言うんじゃな。
あれも味に関して何か尋ねると、曖昧な返事しかくれんでのう」
そう言ってラウルは笑ったが、は『ネス』の名が出たとき、わずかに顔に暗さが生まれた。
その顔を見たラウルは、僅かに顔を引き締め、尋ねる。
「……何か、あったのかな?
よければ、話してみなされ」
「え、でも……」
渋るに、ラウルは微笑んでみせた。
「話してみれば、楽になることもあるかもしれぬ。
それに、ネス達のことならばわしは小さい頃から知っておるからの。力になれるやも知れぬぞ」
そう言われ、断ることも出来ず、はぽつぽつと話し始めた。
「実は――」
* * *
「――なるほどのう」
は、黒い兵士達やアメルのことなどを一切伏せ、簡潔に今置かれた状況を話した。
いろいろあって、ゼラムに留まり、少ない情報からあるものについて調査をしないといけない。
そのことがネスティを苛立たせていて、それを自分が更に怒らせてしまったのだと。
「私が、余計なことをしたのはわかってるつもりだけど。
でも、今までネスティにそんな風に言われたことなかったから。
――自惚れてたのかもしれない。
ネスティが自分のこと話してくれて、それで勝手にわかったつもりでいた。
結局、私は何もわかっちゃいなかったんだ――」
は俯いて手の中のカップに視線を落としていた。
かちゃかちゃとソーサーとカップの擦れる音が、見た目にわからないの手の震えを明らかにしていた。
「――ネスが、自分のことを……?」
ラウルはふと、の言葉の中にあったひとことに顔を上げた。
は俯いたまま頷く。
「この間、倒れたんです、ネスティ。
ラウルさんは……知ってますよね、ネスティの身体のこと」
倒れた、と言ったときにラウルは僅かに目を見開いた。
そして、問いかけには頷くことで答える。
「そのとき、私に、ネスティは自分の身体のこととか、話してくれたんです。
そういうこと打ち明けてくれて。
笑った顔とかも、見せるようになってくれて。
嬉しかったんですけどね、私は。
ネスティは、死にかけてこの世界に来た私を助けてくれて。
そんなネスティを、助けられたって、思ってたのに」
やっぱり、私じゃダメなんだって。
そう、思い知らされた気がして。
俯き目を伏せるに、ラウルは立ち上がり、肩に手をそっと置いた。
ははっと顔を上げて、ラウルを見た。
「――さん。
わしは小さい頃からネスのことを見てきたが、あの子は周りに感情を見せるということを、決してしてこなかった。
わしや、弟妹弟子のマグナとトリスには、多少なりとも心を開いてくれていたようじゃが……それでも、どこか堅さは取れぬ。
そんなあの子が、そこまで心をぶつけている。
わしには、さんは充分信頼されておるように見えるよ。
恐らく、お前さんは今最もネスの近くにいるはずじゃ。
ネスは不器用じゃからな。
きっと、今ごろお前さんに言ったことを後悔しとるじゃろうよ。
あの子のこと、許してやっておくれ」
「ゆ、許すもなにも……悪いのは私だからっ!
考えなしにいろいろ言っちゃった私のほうが……ッッ!」
慌ててまくし立てるに、ラウルは目を見開き、それから声を上げて笑った。
は、そんなラウルの様子にあぜんとして、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。
「大丈夫。
あの子を思いやってくれる、その気持ちがあるなら……あの子もわかってくれるはずじゃ」
「ラウル、さん……」
ぽんぽんと、あやすように頭に手をやるラウルに、は戸惑ったような視線を向けた。
「マグナやトリス、それに――ネスティのこと。
よろしく頼みますぞ」
「…………はいっ」
沈黙の後にうなずき、顔を上げたの笑顔を見て、ラウルも満足そうに微笑んだ。
* * *
「すいません、長居しちゃって」
「いやいや、わしもあの子達の様子が聞けてよかったよ」
玄関先で、深々と頭を下げるに、ラウルも笑った。
「――さん」
呼びかけに、は顔を上げる。
「がんばりなさい」
温かな言葉に、は力強く頷いてみせた。
「それじゃ、お邪魔しました」
挨拶を残して踵を返し、駆けていく後姿を、ラウルは見送っていた。
「――ネスは、いい子と巡り会えたものじゃ」
そう呟いて、満足そうに微笑みながら。
* * *
「――とは言うものの、どうしたもんかねぇ……」
は、同じ高級住宅街の中にあるギブソン・ミモザ邸には帰らず、なぜかハルシェ湖畔にいた。
今すぐに戻ったところで、ネスティはまだ忙しいだろうと、つい足を遠のかせてしまった結果がこれである。
何をするでもなく、湖畔の広場に設置されているベンチに腰を下ろし、湖をぼんやりと眺めていた。
暖かい日差しと、時折吹き抜けるひんやりした風が心地良い。
空を仰いでそっと目を閉じた、その時。
「――――っ!」
掛けられた声に目を開き、そちらに顔を向ければ。
「あ……」
息を切らして、こちらに駆けてくるネスティの姿が。
思わずベンチから立ち上がると、ネスティはの目の前で立ち止まり、膝に両手をついて肩で荒い息をついた。
「はぁ…………っはぁ……
…………や、っと……みつけた……」
息を切らしながら出てきた言葉に、は僅かに目を見開く。
「探して……くれてたの?」
「――ッッ」
恐る恐る尋ねると、ネスティは赤くなっていた顔を更に赤くした。
そして、ばつが悪そうに目をそむける。
「その……なんだ。
つまり…………」
ネスティは、何かを言いたそうに手を動かしたりしているが、なかなか言葉が出てこない様子だった。
も、黙ってネスティの顔を見つめ、言葉が発せられるのを待つ。
先ほどのラウルの言葉が、自然を気を落ち着かせてくれた。
「…………すまなかった」
ぽつりと発せられたのは、謝罪の言葉。
ネスティは、じっと自分を見つめるの顔を見下ろす。
「――君の言ったとおり、焦っていたんだ、僕は。
そのことで苛々して、君の言葉も素直に聞き入れないで……
それで、君に八つ当たりして……あんな、酷いことを……」
ネスティはそこまで言って、だらりと下がったままだった手を握りこぶしに変えて、ぎゅっと力を入れる。
「今更謝っても、遅いかもしれない。
だけど、あの時僕が言った言葉は、決して本心からじゃなかったんだ。それだけは……わかって欲しい。
僕は、君を疎ましいと思ったことなんてない。
むしろ、気遣ってくれて、受け入れてくれたことに感謝してる。
だから…………」
ネスティは、から視線を離し、俯いた。
固く握り締められた拳から、今にも血が滲みそうだった。
「ネスティ。
顔……上げてよ」
は、そっとネスティの肩に手を乗せる。
ネスティはびくりと肩をすくめ、おそるおそる顔を上げた。
そこにあったのは、温かいの笑顔。
「だいじょうぶ。
前にも、言ったでしょ?
私は、何があってもあんたを認める、って。
あんたに嫌われたって構わない。
拒絶されたって、構わない。
私は、あんたを認めて、信じていく。ただ、それだけなんだ。
守りたいんだ。ネスティのこと。
あんたの心は、すごく繊細で傷つきやすいものだって、わかるから。
あんたによく似た顔を、私は知ってるから。
ひとりで、気を張り続ける者の気持ちは、よくわかってるつもりだから」
温かい、言葉。
あの時と、同じ。
いや。
もっと前から、知っていた?
この、ぬくもりを。
――――ど……て……………………絶しようと…………んだ?
――――…………いの?
――――そ…………ない…………けど……
――――…………でしょ…………は、…………認め…………って。
……して…………くて、繊…………の心を……守り…………
――――本当…………は変わって………………リア……
「…………ティ…………ネスティ?」
「――ッッ!?」
の呼びかけに、ネスティははっと意識をもとに戻した。
「どうしたの? 顔色、あんまし良くないよ?」
「いや……何でもない」
――あれは、祖先の過去の記憶か?
それにしては、とても曖昧で……しかもノイズがひどい。
薄れた、過去の断片だったのか……?――
己自身に問い掛けるも、唐突に心に響いた謎の声に関しての真相はわからない。
はネスティの様子に、首をかしげた。
そして、ネスティの手をとる。
「それじゃ、仲直りも終わったことだし、帰ろっか」
「え? !?」
「なに??」
つくっていた拳を開かれ、重ねられた手に戸惑ったネスティに、はきょとんとした顔を向ける。
この調子では、言ったところで聞いてはくれないだろう。
半ば諦めたように小さくため息をつき、そのまま手を引かれていくことにした。
「帰ったらさ、私も手伝うから」
「なにをだ?」
「何をって……決まってんじゃん。資料漁り」
今更何を聞くんだとでも言わんばかりのに、ネスティは僅かに目を見開いた。
「いやしかし、君が手伝うようなことじゃ……」
「ぬ、私邪魔?」
「そうじゃないが……」
眉根を寄せるに、ネスティはたじろぐ。
そんなネスティの様子を見て、はくすくす笑った。
「なら、いいじゃん。
私だって、文字読むくらいは出来るんだからね。
……それに、何だかんだで一番あの連中と関わってるの、私だし。
私が調べるのが一番いいんだよ、ほんとは」
の言うことは一理ある。
レルムの村に最後まで残り、先日のイオス達の襲撃のときも兵士達が村に現れた者と同種だと見抜けたのだから。
加えて、あれだけの戦闘能力。
培われた技量があれば、記録からさまざまなことを割り出すのも難しくはないだろう。
何かを考え込んでいるようなネスティの様子に、は覗き込むような形でネスティを見上げ、にっこりと笑った。
「前にも言ったでしょ?
私相手に、遠慮なんていらないんだよ。
人手が必要ならこき使ってくれて構わないし、辛いなら愚痴だって何でも聞くし。
ね?」
あれだけ酷いことを言って、傷つけた相手に、どうしてそんな顔ができるのか。
これが、の強さなのだろうと。
ネスティはそう思った。
「…………そう、だったな。
じゃあ、帰ったらさっそく手伝ってもらうよ」
そう言って浮かべられた笑顔は、普段のリラックスしている時のネスティのもので。
は、嬉しくなった。