「あっ、ねえねえ!」
呼び止められて振り返ると、そこにはトリスが立っていた。
「今からアメルのお見舞いに行こうと思うんだけど、一緒に行かない?」
「構わないけど……邪魔じゃないかな?」
「どうして? アメルきっと喜んでくれるわよ!」
自信満々に笑顔で言い切られて、「それじゃあ」とも同行することにした。
Another Name For Life
第49話 遠い地の物語
「……アメル?」
ノックの音と控えめにかけられた声に、部屋の中からの返事はなかった。
「まだ寝てるのかな」
「だったら、起こすのも悪いわよね」
とトリスは顔を見合わせた。
「じゃあ、ちょっと様子を見るだけにして……」
言いながら、トリスが扉を開ける。
……すると。
「「……あ。」」
「――え?」
着替えている真っ最中のアメルが、ちょうど寝間着の上着を脱いでいるところだった。
「きゃあああああっ!!」
悲鳴を上げられ、二人の来訪者は慌てて退散した。
* * *
数分後。
「……そりゃ、いきなり着替えしてるところを見られたらびっくりするとは思うけどね。
あたしたち、一応女の子同士なんだけどなぁ……?」
ため息混じりにトリスが零した言葉に、アメルは複雑そうな表情をしている。
しかしまあ、あれだけ元気な悲鳴が上げられるのなら、体調のほうはもうだいぶいいだろう。
「あ、あの……っ」
ふいにアメルが呼びかけた。
「……見えちゃいました?」
「なにが?」
恐る恐る尋ねられて、思わずは聞き返してしまった。きょとんとした顔にアメルが調子を崩されることはなく、不安そうな声は変わらない。
「あたしの背中……自分では見えないんですけど、変な形のアザがついてるから、恥ずかしくて……」
確かに、あの時アメルは扉側に背を向けていた。言われてみれば、右の肩にそんなものが見られなくもなかったが、言われない限りは思い出さなかったようなものだ。
「変ですよね、やっぱり」
「ううん、そんなの全然気にすることないって!」
明るくトリスが言い放つと、アメルが目を丸くする。
「ホラ、あたしだってこことかこっちとか、傷だらけだもん。
それに比べたらアメルの背中、全然きれいだよ」
袖を捲ってみせたトリスの腕には、確かにちらほらと小さな傷痕が見える。
「ていうか、二人とも贅沢! それだけ綺麗な肌してるんだからいいじゃないさ」
「そんな、さんだって……」
腕組みをして憤慨してみせたに対して、アメルは苦笑まじりに返していたが、服の下に隠されたものを見たことのあるトリスは複雑そうな顔をしていた。
はおもむろにアメルの手を取り、掌を上に向けさせる。
自分の空いた手を同じように上に向けて同じ高さに並べた。
「ホラ、私はこんなだからさ。手とか肌とか綺麗だし、アメルとトリスが羨ましいよ」
アメルの手は家事のために多少荒れているが、普段から剣を振っているの掌は、どうしてもその習慣に適応したものになってしまう。手の皮は自然とタコやマメが増えて硬くなり、関節も普通の女性の手に比べればやや節が目立つ。
「……でもあたし、好きだよ。の手」
隣に立っていたトリスが、の手を両手で包みこんだ。
「あたしも好きです、さんの手。
今までずっと、あたしたちを守ってくれた手ですものね」
穏やかな声で、アメルが同意する。
が顔を上げると、トリスもアメルもにっこりと笑っていた。
「……ありがと」
ぽつりと呟いた言葉はとても小さかったけれど、確かにふたりの耳には届いてくれたようだった。
* * *
「ところで、もう具合はいいの?」
「ええ、大丈夫。いつでも出発できます」
「そっか」
トリスの問いに、アメルはしっかり頷いた。
「でも風邪はなかなかしつこい病気だからね。
出発の準備が終わるまでは、おとなしく寝てた方がいいわよ」
「でも、寝てるのってすごく退屈なんですけど……」
なんだか普段とは立場が違う。
むくれたアメルの顔は、年相応――もしかしたら、もう少し幼く見えるかもしれない。
「もうベッドから出たいなぁー、なんて」
「アメルぅ?」
「……はーい」
トリスに睨まれて、アメルはおとなしくベッドにもぐりこむ。
それからふと、の方を向いた。
「……そうだ、さん」
「何?」
「あたしが眠るまで……おはなし、してもらえませんか?」
アメルの言葉の意味がわからずに、は眉を寄せて首をかしげた。
「話って、何話せばいいの?」
「なんでもいいんです。さんの世界のお話、聞かせてください」
「あ、いいなそれ。あたしも聞きたい!」
二人分の視線を浴びて、は困ったように頭をかく。
やがて観念したのか小さくため息をついた。
「わかった、わかった。じゃあちょっとだけね」
嬉しそうに顔を見合わせるアメルとトリスをよそに、は傍らにあった椅子をふたつ引っ張ってくる。
ひとつをトリスにすすめて、もうひとつに腰かけた。
「それじゃあ……私の世界に伝わってる神話なんてどうかな」
神という概念の存在しないリィンバウムで生まれ育った聞き手二人は“神話”という単語に首をかしげていたので、民話や伝承の一種だと説明した。
「私の世界にはいろんな国があって、それぞれの地方に民話とか神話がたくさん伝わってる。
今から話すのはそのひとつで、ギリシアって国に伝わる神話だよ。
その神話の中で、最初に世界は“
混沌”だった。ドロドロした形のない塊で、天も地もなにもない状態――それが世界の始まり。
この“混沌”の中から、ひとりの女神が生まれるんだ。大地の象徴である大地母神ガイア。
やがてガイアは四人の子供を…………」
淡々とした口調では語る。
アメルもトリスも、静かに聞き入っていた。
その顔は、とても嬉しそうだった。
* * *
「ありがとね、」
アメルが眠りについたので、トリスとは静かに部屋を出た。
扉を閉めたところで、トリスがに礼を言った。
「お話、面白かったよ」
「どういたしまして」
「また、続き聞かせてくれる?」
トリスは自分よりも高い位置にあるの顔をのぞき込むようにして尋ねた。
「いいよ、機会があったらね」
「ホントに? 約束だからね!」
トリスは嬉しそうに満面の笑顔を浮かべた。
「それにしても、ちょっと意外だった」
並んで廊下を歩きながら、ふいにトリスがそんなことを口にした。
「意外って、何が」
「うん、あのね。
がああいう民話とかおとぎ話とかに詳しいなんて思わなかったから」
悪い意味じゃないんだよ? とトリスは念を押した。
「私の世界の“悪魔”っていうのは、つまりはさっき話した神話とかに登場する神様とかだからね。相手のことを調べたりしてるうちに、どうしても覚えるよ」
「え!? じゃあじゃあ、ゼウスとかアポロンとかにも、会ったことあるの!?」
「いや、さすがにそのあたりはないよ。ゼウスもアポロンも高位の神だからね。一介の召喚師がそうそう会うことなんてないさ」
「でも、他の神様とかには会ったことあるんでしょ? すごいなぁー」
素直に感心しているトリスの無邪気さは、自然とにも穏やかさを与えるものだった。
確かに会ったと言えば会ったのだが、それは必ずしもよい状況であったわけではない。けれどトリスの笑顔を見ていると、そういった複雑な心境も融けてゆくようだった。
「ねえねえ、本物の神様って、どんなだった?」
「あー……そのあたりは、また今度ね」
途端にむくれてしまったけれど、それでもトリスは「絶対だからね!」と念を押して、楽しみを待つ子供のような顔をしていた。
苦い思い出も、いつか遠い日のこととして話すことができる日は来るだろうか。
は、隣を歩くトリスに気付かれないように、僅かに拳を握り締めた。