胸の奥が、ざわめく。
時折、鈍い痛みが頭を駆け抜けてゆく。
かつて感じたことのない感覚。
それは、何への警告なのか。
Another Name For Life
第53話 かすかな予兆
結局あれから取り乱すアメルを何とかなだめ、泣き疲れた彼女が眠りにつく頃には、もう空が黄昏色に染まっていた。
ルウの提案で、彼女の家に泊まらせてもらうことになった。屋敷や道場と違って部屋数はないので、大部屋に毛布を持ち込んで雑魚寝である。アメルだけはルウのベッドを拝借して、ルウも一緒に大部屋を使うことにした。
ここまでやって来るのにも体力を消耗していた上に、疲労も色濃く浮かんでいる状態だったので、皆すぐに眠ってしまった。
寝静まった部屋の中から、誰かがそっと出てゆく気配がした。
は黙って身を起こし、暗い部屋の中でいなくなったのが誰なのかを見極める。そして床に寝転がっている他の仲間を起こさないように気をつけながら、静かに部屋を出て行った。
* * *
音を立てないように外に出てみれば、家の近くに転がっている古い枯れ木の幹に腰かけて、物憂げに空を見上げている人物の後ろ姿を見つけた。
案の定だと内心でため息をつきつつ、はその背中に声をかけた。
「――ネスティ」
僅かに肩を震わせて、ネスティは恐る恐る振り返る。の姿を見ると、ホッとしたように表情から緊張を解いた。
「眠れない?」
ネスティの隣に腰を下ろしながら尋ねると、ネスティはばつが悪そうに目をそらす。
「……別に」
「じゃ、考え事だね。むしろ悩み事って言った方がいいのかな、この場合」
言い当てるよりも確定事項の確認といった口調に、ネスティは眉をひそめてを見た。
「どうして……」
「んー、なんとなく。」
はあっけらかんとした調子で言い切った。
「ルウの話聞いてたときのネスティの雰囲気とか、今の表情とか見れば、だいたい想像はつくよ。
ひょっとして、ネスティ自身の事に、何か関わってるんじゃないの?」
「っ……!!」
ネスティが途端に険しい顔つきになる。は驚きもせずに、ネスティの瞳を正面から見つめた。
「ネスティ、あの時とおんなじ目してるから。
つらそうな、苦しそうな目。
だから、そんな気がしただけ」
自分の秘密をに話したときと、変わらない瞳。
その瞳を見るたび、はそこに途方もない悲しみと苦しみを感じ取る。
そこまで言って、は空を見上げる。ネスティは何も言わずに、目を伏せた。
ひんやりとした風が、少しだけ頬をくすぐった。
長い沈黙に耐えかねたのか、ネスティが躊躇いがちに口を開いた。
「……何も、聞かないのか?」
「聞いた方がいいの?」
問い返されて、ネスティは目を見開く。
「そりゃ、気にならないわけじゃないよ。聞きたいって思わないわけじゃない。
でも、ネスティが話したくないなら、私は何も聞かない。
つらそうだって思ったから、ここにいるだけだよ」
は微笑みを浮かべた。
「つらいなら、そばにいるから。
でもその方がつらいなら、もう戻るけど。
選ぶのは私じゃない。決めるのは、ネスティだよ」
言いながら腰を浮かせたの腕を、ネスティはとっさに掴んだ。
「……ここに、いてくれないか……?」
「うん、わかった」
掠れた声に頷いて、は座りなおした。ネスティは僅かに頬を紅く染めながら、ぽつりとに尋ねる。
「君は……どうして、僕にそこまでしてくれるんだ?」
は目を瞬いて首をかしげた。
「どうしてって……友達でしょ、私たち。友達が困ってたら、普通助けるよ」
「じゃあ、僕じゃなくて例えばマグナやトリスでも、同じようにするか?」
ネスティの問いかけに、はあっさりと首を横に振った。ネスティが僅かに目を見開く。
「だって……マグナとかトリスには、ネスティがいるから」
さも当たり前のことのように、は言った。
「マグナもトリスも、困ってるときにはネスティとかショウとか、誰か助けてくれる人がいるから。
だったら、私はそのうちの一人になればそれでいい。私が助けられるときに助けるだけでいいんだ」
でも、とは顔を曇らせる。
「ネスティは、いつもひとりで背負い込んじゃって、手放そうとしないから。
しかもそれを、誰にも見せないようにしてるから。
だから……なんか放っておけないんだ」
は、隣に座るネスティの存在を確かめるように、きゅっと袖の端を掴んだ。
「おせっかいかなって自分でも思うんだけど、つい動いちゃうんだよね。
前にも怒らせちゃったのに……」
「あ、あの時は本当に……すまなかった」
いつだったかの事を思い出してか、ネスティは心底申し訳なさそうに頭を下げた。
「そんな、謝らなくていいよ。あの時はむしろ私が悪かったんだし」
苦笑したは、空いた手をパタパタと振ってみせる。それを見たネスティは、さらにばつが悪そうな顔をした。
「……」
「なに?」
呼びかけに応えれば、ネスティは躊躇いがちに視線を彷徨わせてから、に向き直った。
「もし、話したら…………全てを話すことが出来ないとしても、聞いてくれるか?」
何を、とネスティは言わない。それでも、それだけでじゅうぶんわかる。
「もちろん」
即座に頷いたにネスティは僅かに微笑んで礼を言ったが、またすぐに表情に苦味が混じった。
「この先にあるあの森は……昼間にも言ったが、禁忌の森なんだ。
地図に記されていなかったことが、どうやら裏目に出たようだな……
もし最初からここが禁忌の森だと知っていれば、近づかせたりなど絶対にしなかったんだが」
「……マグナと、トリスを?」
静かなの問いには、小さく頷いて答える。
「禁忌の森に封印されている悪魔は、召喚師が誓約で喚び出すような半端なものじゃない。
結界が張ってあるとはいえ、近づくのが危険なことには変わりないんだ。だが……」
「あの二人は……行くだろうね、間違いなく」
マグナもトリスも、昼間のアメルの様子には心を痛めていた。彼女が納得するように、きっと森を調べようと言い出すだろう。
ネスティも容易にそれが想像できるのだろう。つらそうな顔のまま頷いた。
「正直言うとね」
ふいにが切り出す。
「私もあの森、行きたくない。
こう、胸の奥がざわつくっていうか……いやな予感がするんだ」
言いながら、は胸元に掌を押し当てた。
「今までどんな悪魔と対峙したって、ここまで嫌な感覚は経験したことない。なんなんだろうね、これ……」
「それだけ、あの森の悪魔が普通じゃないということだ。それを君は感じ取っているのだと、僕は思う」
「普通じゃない、ね……」
ネスティの物言いには僅かに苦笑した。ネスティの言う“普通”とはいったい何を指しているのかと、皮肉さえ浮かんでくる。
しかし彼が多からずとも心配をしてくれているのだということくらいはにも理解できる。わざわざその思いを踏みにじってしまうことは、したくなかった。
「ねえ、ネスティ」
胸に押し当てた手を下ろして、はまっすぐにネスティの瞳を見据えた。
「――約束する。
もしもの時は、私は絶対に力になってみせるから」
具体的になにがあるときとは、言わない。
何が起こっても不思議ではないのだから、非常時の形はいくらでも予想できるから。
「もし仮に悪魔が出てきても、みんなを守るよ」
微笑を浮かべて、それでも瞳だけは真剣なまま。
――この身体を盾にしても、守り抜いてみせる。
私には、それしかできないから――
最後の言葉は、声に出さずに胸の奥へとしまいこむ。
警告のようにいちどだけ、頭がずきりと痛んだ。