『当たり前』が『当たり前』でなくなった。
今、この瞬間から。
もうひとつの物語が、幕を開ける。
with
第1話 Silent Girl
「ふぅ……」
川の岸辺にうずくまっていた青年が顔を上げる。
それに合わせ、明るい金色の髪がさらりと揺れた。
どうやら顔を洗っていたようで、水滴が頬を伝い零れ落ちていた。
それはどこにでもある、ごく当たり前な光景だった。
そう、今までは。
「…………!?」
大気がざわめいている。
辺りの空気がおかしい。
何がそうさせているかまでは判りかねたが、あまりいい予感はしない。
むしろ、何か良くない事が起こるような気がする。
経験により培われた勘が、警戒音を発している。
青年は思わず身構えた。
不意に、目の前の空間が歪んだ。
錯覚などではなく、歪みが生じたのが肉眼で判る。
――召喚術か……!?――
味方や敵の召喚師により、異世界から召喚獣が呼ばれるときの物とよく似ているような、それでいて違うような空間の歪み。
――近くに召喚師が潜んでいるのか……?――
周囲に警戒を走らせるも、人の気配は全く無い。
そうしているうちに、歪みの中から何かが姿を現した。
「な……っ!?」
現れたのは、ひとりの少女。
血に濡れ、意識を失っている。
さすがに尋常ではないと感じ、周囲への警戒を怠らずに、青年は倒れている少女へと近づいた。
抱き起こしてみると、痛みが走ったのか、少女がぎゅっと顔をしかめる。
よく見ると、肩に深い傷を負っていた。
いったい、何者なのだろう。
それを確かめるためにも、とにかく少女の意識を覚醒させる必要がある。
青年はそう判断して、気を失ったままの少女の頬を軽く叩いて声をかけた。
「……おい、しっかりしろ!」
しばらくそれを繰り返していたら、少女がうっすらと瞳を開いた。
そして、何か言いたそうに青年の服を握り締める。
そのまま、再び意識を手放したようで、くたりと青年の肩にもたれかかった。
「ちょっ……!?」
少女の手を離させようとするも、びくともしない。
このままでは、この少女も運ばねばならなくなる。
「…………どうしたものか…………」
これから、自分の所属している軍の駐屯地へと帰らねばならない青年――イオスは、深いため息をついた。
* * *
「――ルヴァイド様」
「イオスか。入れ」
テントの外から聞こえてきた声は、いつもよりも少々遠慮がちな雰囲気を感じる部下のものだった。
それに多少の疑問を抱きつつも、ルヴァイドはテント内に入るように促した。
「…………!?」
そして、目の前の光景に絶句する。
イオスが、少女を抱きかかえて目の前にいる。
あの生真面目なイオスが、『“黒の旅団”の駐屯地に「女」を連れ込んだ』という事自体すでに驚きなのだが、その少女の様子もまた、ルヴァイドの目を引くものだった。
まず、服装が風変わりだ。
変わった格好、という言葉しか思い浮かばないが、灰色がかった白いジャケットに同色のワンピース、手袋、ブーツ。
そのどれもが、見たことのない素材で出来ているようだった。
そして、モノトーンを紅に染める肩の傷。
まだ新しいものらしく、乾いていない血が妙に鮮やかで、目を奪われそうになる。
「イオス……その娘は?」
「それが……いきなり目の前に現れまして、起こそうとしたらまたすぐに気を失ってしまい、服を掴んだまま離そうとしなかったのでやむなくここまで……」
心底困り果てたようなイオスの声に、ルヴァイドの方もつられてため息をつく。
「とりあえず、その肩の傷をどうにかせねばならんな。
……今兵に知らせれば騒ぎになるな。お前に任せることにしよう」
「ですが……」
「何者かを調べるにしても、目を覚まさねばどうにもなるまい?」
「そう、ですね……了解しました」
言って、テントを出てゆくイオス。
その後ろ姿を見送ってから、
「……どう思う、ゼルフィルド?」
ルヴァイドは、傍らに控えていた機械兵士に尋ねる。
「……いおすガ戻ル少シ前ニ、強力ナえねるぎーヲ感知シマシタ。
異世界カラノ召喚獣ト思ワレマス」
抑揚の無い声がテント内に響く。
「やはりそうか……」
あの服装。
どう考えても異邦人というのは間違いなかった。
しかし、召喚されたのなら近くに召喚師がいるはず。
イオスなら、間違いなく気づくだろう。
だが、先程のイオスの様子を考えれば、召喚師の姿はなかったと思って間違いない。
だったら、あの少女は。
一体、どこから、どうやってやってきたのだろうか?
「ゼルフィルド。
付近に不審者がいたなら、すぐに俺に知らせろ。いいな」
もしそれが召喚師なら、あの少女を呼び出した者かもしれない。
自軍に所属する召喚師なら、すぐに調べがつくが、部外者ではそうはいかない。
もしもの事態を考えて、ゼルフィルドに命令を下した。
「……了解シマシタ、我ガ将ヨ」
* * *
目を覚ますと、そこは少女にとって全く見覚えのない所だった。
もっとよくあたりの様子を調べようと身体を起こそうとしたら、肩に鋭い痛みが走る。
「〜〜〜〜〜〜ッッ!!」
あまりの痛みに、悲鳴も声にならなかった。
「……気がついたのか?」
声のする方を見てみると、金の髪をした綺麗な顔立ちの人物が立っていた。
――このひとが、助けてくれたのかな……?
でも、どうやって?
あの戦場から…………?――
戦場。
その言葉を思い出し、あの地獄のような光景を思い出し。
身体を強張らせた。
イオスは、少女の様子がおかしいと感じ、駆け寄る。
少女はイオスにしがみつく。その身体は震えていた。
何か、怖い思いをしてきたのだろうか。
少女の様子から反射的にそう考えたが、どうすればいいかも、正直わからなかった。
こういう時、相手を落ち着かせる方法には、詳しくない。
とりあえず、怪我をしていない方の肩に手を載せ、反対側の手でそっと頭を撫でる。
肩に触れたとき、少女が一瞬びくりと身体を強張らせたが、頭を撫でてやっているうちに落ち着いたらしく、身体にかかった力も弱まっていった。
「落ち着いたか?」
イオスがそう問うと、少女はこくんと頷いた。
それにイオス自身もほっと胸をなでおろし、少女が目覚めたらいろいろと聞かねばならないということを思い出した。
「お前の名前は?」
少女がきょとんと自分の方を見る。
そして、名乗ろうと口を開いたが。
「――――――……!?」
声が……?
発しているつもりであろう言葉が、全く出てくる気配がない。
必死で声を出そうと口をパクパクさせている少女の様子に、イオスも気づいた。
「……声が…………出ないのか?」
少女は半泣きでイオスを見る。
イオスはため息をつき、テント内にあった机から紙とインクをつけたペンを持ってくる。
「書けるか?」
差し出された紙とペンを受け取ろうとして、少女はつい怪我をしている右腕を持ち上げてしまった。
苦しそうな顔でうずくまってしまった少女に、イオスは血の気が引くのを感じた。
「す、すまない! 怪我をしているのは利き腕だったんだな……」
怪我をしている相手に、あまりにも配慮が足りなかった。申し訳なさで胸が詰まる。
少女は額にうっすらと汗を浮かべながらも、ふるふると小さく首を横に振って、気にするなと言いたそうな瞳を向けてきた。
なおも少女はイオスが手にしたままの紙とペンに手を伸ばそうとするので、イオスは彼女の手元に紙を差し出した。
それから少女の後ろに回りこむようにして、細い手首に手を添え、動きを拘束しない程度に支えてやる。
僅かに震える手をたどたどしく動かしながら、少女は名を記した。
彼女の世界の文字で。
『 』と。
書いてから、は紙とペンをイオスに返す。
イオスが紙を見たが。
「……これは、なんて書いてあるんだ……??」
「………………」
初歩的なミスだった。
よく考えれば、彼女はどこからか召喚された者なのだ。
リィンバウムの文字を知っているわけがない。
必死で話そうとしていたところを見ると、もとから喋れないという訳でもなさそうだ。
つまり、一時的なものなのだろう。
原因までは、わからないが。
いずれにせよ、このままでは何も聞けない。
しばらく様子を見ないといけないようだ。
(……ルヴァイド様に、報告しないと)
ベッドの端に腰を下ろしていたイオスが立ち上がろうとすると、がきゅっとイオスの服を掴む。
最初に抱き起こした時のように。
の目に浮かんでいるのは、不安。
「だいじょうぶだ。すぐに戻るから」
まるで小さな子供のようにすがりつくに、できる限り優しい声でそう言ってやると、服を掴んでいた手を離した。
そこでふと、何かを思い出したような顔をしたがくいくいっと、先程とは違う様子で服を引っ張る。
何事かと思うと、イオスの顔をジーっと見つめている。
「な、なんだ?」
イオスにはの意図がわからなかった。
にもそれが判ったらしく、まず自分を指差し、先程名前を書いた紙へと指を動かす。
それからイオスへと指を向け、首をかしげた。
「僕の……名前か?」
が言わんとしていることを予想し、尋ねてみると、通じたのが嬉しかったのか、笑顔でこくこくと頷いて見せた。
そこで初めて、そういえば名乗っていなかったななどと思い出した。
「イオスだ。
それじゃあ、ちょっと行ってくるからな」
そう言って、イオスは今度こそテントから出て行った。