目を開ければ、闇の中にひとり。
周りを見渡しても、誰もいない。
「――イオスさん?」
慣れ親しみつつある名前を呼んでも、返事はない。
「ルヴァイドさん。
ゼルフィルドさーん……」
声は遠く、消えてゆく。
音もなく、光もない空間。
は途方に暮れた。
ふと、後ろに気配を感じて振り返る。
しかし、そこには誰もいない。
また、気配が。
でも、誰もいない。
じわじわと胸の奥から湧き上がる不安に、は胸の前でぎゅっと手を組み合わせた。
ふいに、目の前に何者かが現れる。
「……………………!?」
顔を上げて、は凍りついた。
そこに立っていたのは、虚ろな、濁った瞳をした男。
薄く開かれた唇の端から、紅いものが流れている。
服装は、も見慣れたもの。
――“黒の旅団”の、兵士の制服だった。
「あ……」
そこで初めて、男の顔に見覚えがあることに気がつく。
ゼラムを脱出しようとした聖女一行を捕らえるために、三つに分けられた部隊。
そのうち、自分と同じようにイオスの指揮する第二部隊に配属された兵士の一人だ。
――突如現れた“悪魔”の、犠牲者だ。
男は、ゆっくりとに向かって手を伸ばしてきた。
つくりもののような白い手が触れる前に、は身を翻して駆け出した。
男の気配が、自分を追いかけてくる。
背中を走る嫌な気配が、それを教えてくる。
「はぁ、はぁっ……!!」
駆ける足は重く、全力で走っているはずなのにちっとも速さが出ない。
それでも、男の気配は遠ざかる。
離れたかと思い、がちらりと振り返れば。
「…………!!」
――追いかけてくる屍は、ひとりだけではなかった。
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第21話 囚われた者
「ぅ……うぁ……」
ついたての向こう側から、少女のか細いうめき声が聞こえてくる。
イオスは書類の上を走らせていた手を止めて、立ち上がった。
行軍中のテントに備えられる簡易的な造りのベッド。
その上に横たわる少女が、苦しそうにうなされていた。
額にはじっとりと脂汗が浮き、黒絹のような髪が張り付いている。
イオスはそっとその髪をどかして、手近にあったタオルで額の汗を拭ってやった。
「……ぃや……たすけ、て……」
「――――!?」
少女の唇から零れた言葉に、イオスは顔色を変えた。
「!
おいっ、!!」
イオスは少女の名を呼び、細い肩に手を置いて揺さぶった。
「……ぅ……ん……」
固く閉じられていた瞼がうっすらと開き、瑠璃色の瞳が僅かにのぞいた。
「……イオス、さん……?」
「気がついたか!?」
ぼんやりと熱に浮かされたようにたどたどしく言葉を紡ぐに、イオスは心底安堵する。
は虚ろな目をしばらく彷徨わせていたが、すぐにビクッと身体をこわばらせて、イオスにしがみついた。
自分の服を握り締める手が震えているのに気付いて、イオスはそっとを包み込んで、頭を撫でてやる。
「恐い夢でも……見たのか?」
耳元でそっと囁けば、返事の代わりにしがみつく手にさらに力がこもる。
「……みんなが」
胸元に顔をうずめているために僅かにくぐもった小さな声が耳に入る。
「悪魔に殺されたひとたちが、おいかけてくるの……」
「……!」
の言葉に、イオスの顔がこわばる。
先日の作戦――ゼラムを脱出する聖女一行を捕らえようと、森の中に待機していたときのことが、の心に深い傷跡を刻み付けている。
突然現れた見知らぬ連中に、仲間が目の前で次々と殺されてゆく。
そんな光景を目の当たりにしたのだから無理はない。
しかもそいつらは、が元いた世界の“悪魔”だった。
その事実が、この心優しい少女にさらに苦しみを与えている。
「あたし……やっぱり、ここにいちゃいけないのかな。
みんなに、迷惑かけてるのかな……」
「――そんなことないっ!!」
涙声のをぎゅっと抱きしめて、イオスは思わず大声を上げていた。
声を荒げられたことでの身体がすくんだのが、彼女を包み込む腕に伝わる。
「……君がいてくれることで、僕達は救われているんだ。
だいじょうぶだから。
僕が、そばについてるから。
だから……もう、自分を責めるんじゃない」
つとめて優しい声でそっと囁くと、はイオスの背に腕を回した。
すがりつくようにしてしゃくり上げるを抱きしめながら、イオスは静かに目を伏せた。
* * *
ゼラムを脱出した聖女一行との戦い。
今まででいちばん激しいものとなったその戦いで、『黒の旅団』の多くの兵士が負傷した。
この2日ほど、軍医や回復の術を使える召喚師が奮闘している。
彼らの仕事が多いのは、それだけ怪我を負った者が多かったという事だが、同時に怪我を治療する必要があるだけの生存者が多かったという事も意味する。
そう、死者は出なかった。
聖女一行と戦う事のなかった、イオスの率いた第二部隊を除いては。
「の調子はどうだ?」
書類の提出のためにルヴァイドのテントへと入ったとき、上司の口から真っ先に出た言葉はそれだった。
イオスは小さくため息をついて、首を横に振る。
「夢見が悪いらしくて、しょっちゅううなされています。
起きたら起きたで泣いてばかりですし……
時々死んだように寝ていますが、やつれていっているのは確かです」
「そうか……」
ルヴァイドも呟きわずかに俯いた。
第二部隊が遭遇した不幸な一件については、イオスが事細かに説明したため、ルヴァイドもよく知っていた。
状況や敵の数、力量から考えれば、生存者があれだけ居たというだけでも上々だと思う。
正直イオス自身も、が居なければ間違いなく死んでいただろう。
しかし、『生存者が居たのだから良い』というのは軍人ゆえの判断なのだろうか。
にはその考えは受け入れられないようだった。
割り切って受け入れられるのなら、死者に追いかけられる夢など見ないだろう。
その上さらに、彼らを殺したのがリィンバウムには存在しないはずの“悪魔”だったことで、はさらに自分を責める。
がふさぎこんでテントから出てこないのは、兵士たちも心配していた。
駐屯地は火が消えたようになってしまった。
イオスが外を歩くと、必ずといっていいほど兵士たちがの様子を尋ねてきた。
いちど見舞いに行きたいという話は出たのだが、却下した。
最初に数名が言い出したときには、イオスも「ぜひ励ましてやってくれ」と言えたのだが。
話を端で聞いていた他の兵士が「じゃあ俺も」と言い始め、俺も俺もとその場に居た兵士がほとんど全員行くと言い出した。
しかもそのままわらわらと、決して広いとは言えないイオスのテントに押しかけようとしたものだから、さすがにイオスも慌てて止めた。
「おまえら、逆にを怖がらせるつもりか!?」などとうっかり怒鳴りつけてしまい、兵士たちはすっかり萎縮してしまったものだから、しばらくは誰も寄りつかないような気がする。
「とにかく、については私の方で何とかしてみます」
「そうだな……よろしく頼むぞ、イオス」
イオスは小さく頷くと踵を返した。