朝靄が街を覆う、夜明け。
宿泊施設に備えられた屋外の鍛錬場に、風を切る音が響いていた。
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第29話 そのままの君
槍を手にしたイオスが、舞うように得物を振る。
誰もいないその場所で、しかしその瞳は誰かを追っている。
一人でいるはずなのに、その動きはまるで誰かと対峙しているかのようだった。
「熱心だな、イオス」
ふいに後ろから声をかけられて、イオスは手を止めて振り返った。
「そう言うルヴァイド様も、鍛錬ですか?」
笑みを浮かべる上司に尋ねれば、肯定の返事がかえってきた。
「ああ。トライドラとの戦ともなれば、相当な手錬とも剣を交えることになるだろうからな。遅れをとるわけにはいかんだろう」
そんな事を言っているけれど、ルヴァイドならたとえどんな相手にも引けをとることなどないだろうに。
イオスの考えを読んだかのように、ルヴァイドは苦笑した。
「つい先日に、思い知らされたからな。
実力者というものは、どこかに必ず居るものなのだと」
どこか遠い目をして、ルヴァイドは呟く。
「それは、もしや……」
「お前も手合わせをしたのだろう? あいつと」
「――――ですか」
イオスが口にしたのは疑問ではなくて、確信。
「あいつには俺も手を焼かされているからな。あれだけの器量の持ち主は、戦場でもそうお目にかかることなどないだろう。
久々に、本気で戦いたいと思う相手を見つけられたのだ。その為にも、腕を磨いておかねばな」
ニッと口の端だけで笑ってみせるルヴァイドの瞳は、どこか楽しそうだった。
イオスがいつも見ているルヴァイドは、とにかく圧倒的な強さの持ち主だ。
それ故に、彼と対峙する敵は、その実力の全てを出し切ることもなく倒れてゆく。
虚しさを感じていたのだろうと、イオスはずっと思っていた。
そこへようやく、彼が満足に思えるほどの実力を持った戦士が現れたのだ。
右腕として仕えているイオスとしても、同様に嬉しさが湧き上がる。
……それが自分よりも年下と思われる少女だというあたりに、彼としては複雑なものを感じずにはいられないのだけれど。
それに――
「負けませんよ、ルヴァイド様。
私にとっても、あいつは好敵手なのですからね」
「ほう……俺と競うか、イオス?」
不敵に笑ってみせれば、ルヴァイドの笑みも深くなる。
ぶつかり合う視線が、俄かに火花を散らした。
……しかし。
「イオスさーん、ルヴァイドさーん」
幼さの残る少女の無邪気な呼び声が、緊迫しかけた空気を一瞬でかき消した。
「……?」
「おはようございますっ」
呆然としているイオスやルヴァイドの様子には気付いていないのか、はにこにこと笑顔を浮かべている。
「ど、どうしたんだ? こんな早くに珍しいな」
突然少女が現れたことにだいぶ驚かされ、イオスはわずかに上ずった声で尋ねた。
「ちょっと早く目が覚めたから、いろんなとこ歩いてたんです。そしたら、イオスさんがここにいるのが見えたから」
ちょっと迷っちゃったけど、とははにかんでみせる。
「ふたりとも楽しそうだったけど、何を話してたんですか?」
唐突な問いに、イオスもルヴァイドも目を見開いた。
二人は一度だけ顔を見合わせてから、イオスが口を開く。
「戦いたいと思う敵の話をちょっとね」
はきょとんと首をかしげた。
「前に、話したことがあっただろう? 敵だったっていう、僕の友達だ」
合点がいったのか、は「あぁ」と納得したような顔をする。そして、僅かに眉を寄せた。
「でも、前は戦いたくないって言ってなかったですか?」
「あの時はね。でも今は純粋に、彼女と技を競いたいと思ってるから」
何気なく口にした言葉だったのだが、は目を丸くした。
「――女のひと、なんですか?」
「あれ……? 言ってなかったっけ?」
尋ねると、はこくんと頷く。
「あっ、もしかして前にイオスさんのホッペひっぱたいたってひとのことですか?」
「……あぁうん、そう。そいつ」
色々と考えさせられた一件だったのは確かなのだが、そんな覚え方をされていたという事になんとも言えない情けなさを感じ、イオスはうなだれながら答えた。
に悪気がないのもわかっているのだが。
……後ろで顔をそらして笑いをこらえる上司には、内心で軽く怒りを覚えた。
「っていう名前でね。僕もルヴァイド様も苦戦させられたんだ」
「ほんとに? すごいんですね、そのひと!」
は素直に感心していた。実際に刃を交えた相手なのでイオスとしては複雑な心境にならざるを得ないが、のその素直さには頬が緩んだ。
「いちど会ってみたいなぁ。どんな人なんですか?」
「どんなって……うーん……」
次に会うとすれば、敵味方に分かれた戦場だろうに。
それでも目を輝かせて尋ねてくるの問いに、イオスは微笑を浮かべて答えてやった。
* * *
昼も過ぎ、そろそろお茶の時間にちょうどよさそうだという頃。
イオスはノックの音に顔を上げた。
読みかけていた本にしおりを挟んで、返事をしながら扉を開く。
そこに立つが手にしているものを目にして、イオスは呆気にとられた。
「……どうしたんだ、それ?」
彼女が手にしている盆の上には、クッキーやらカップケーキやら、さまざまな種類の焼き菓子が妙にたくさん盛られている。
「えっと、厨房の人たちがいっぱいくれたんです。持ちきれないって言ったらお盆とお皿も貸してくれて……」
嬉しさと共に少しだけ困ったような顔を浮かべながらが言った。
軍属の宿泊施設には、女性の利用者は多くない。しかものような子供など、まず見る事がない。
そもそも昔からの格式を重んじる旧王国では、女性の軍人そのものが稀少なのだが。
そんなわけで、ここで働く女中たちに、はすっかり気に入られてしまっていた。
今日のように菓子類をくれる事もあれば、話の輪の中に加えられている事もある。
戸惑った様子で目を白黒させていたの姿が、自然と思い浮かぶ。
「ちゃんとお礼は言ったのかい?」
尋ねれば、こくんと頷くことで答えられる。
「あの、でもね。
こんなにたくさんだと、あたしひとりじゃ食べきれないから、イオスさんにおすそ分けしようと思って……」
おずおずと盆を差し出すに、イオスは微笑んでみせた。
「そうか。ありがとう、。
せっかくだから、中に入って一緒にお茶でもどうかな?」
「いいんですか?」
きょとんとしたに頷いてやると、は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
* * *
が持ってきた菓子類は、当然といえば当然なのだが、二人で食べるには多すぎた。
イオスは甘い物が嫌いというわけではないけれど、大量に食べられるほどに甘味好きというわけではない。
加えて、は食べ物の摂取量が極端に少ない。
そのため、二人で食べた分量は全体の半分にも満たなかった。
しかしそれぞれに満足そうな顔で、イオスもも紅茶を口にしていた。
ぷは、と小さく息をついて紅茶を飲み干したを見て、イオスはくすりと笑う。
かすかに立てられた笑い声に気付いたが、きょとんと首をかしげた。
「あたし、どこかおかしい所ありましたか?」
「ん、いや。そうじゃないけど……美味しそうに飲むなぁと思って」
「だって、本当においしいと思うもの」
きっぱりと、は言い切る。
「イオスさんが教えてくれたことなの。
誰かとこんな風にお茶したり、お話したりっていうこと。
きっとひとりでこんな風にしてても、楽しくないし、おいしいと思えないから」
は、本当に嬉しそうに笑顔を浮かべた。
彼女の思いが伝わってくるようで、イオスも微笑む。
そしてふと、イオスはひとつの違和感に気付いた。
「あれ……?
、しゃべりかた……」
言われて、はきょとんとイオスを見つめ、それからハッと何かに気付いたように慌てて口元を押さえた。
「あっ、あたし……っ! ご、ごめんなさい!!」
ガバッと頭を下げられると、逆にイオスの方が面食らう。
「あたし、癖で……
思ったことそのまま言うと、きちんとしゃべるの忘れちゃって……!
だから、その……わざとじゃないの! ……じゃなくてっ、あぁもぅ!!」
耳まで真っ赤に染まったは、もはやすっかり混乱してしまっているようで、わたわたと弁解になっていない弁解をする。しかし伝えようとすればするほど言葉がまとめられないらしく、最後には珍しく声を荒げていた。
の言葉から、イオスはこれまでの彼女の言葉をふと思い出す。
そういえば、普段はたどたどしい敬語を使っていたが、時折今のような言葉遣いをしていることがあった。
さらに思い返すと、そんなしゃべり方をしているときは、彼女の気が動転していたり、特殊な状況ばかりだった。
未だ混乱している風のに、イオスはくすりと小さく笑みを浮かべる。
「落ち着いて、。
要は今みたいな言葉遣いのほうが、の元々の話し方っていうことなのかな?」
尋ねると、はしゅんと俯く。
「ごめんなさいです……ちゃんとしたしゃべり方するように気をつけなきゃっていつも思ってるのに」
イオスは落ち込んだ様子のの傍に椅子を寄せて、頭にそっと手を載せた。
「謝らなくていいんだよ。そんなつもりじゃないから」
絹糸のように細いさらさらの髪を指で梳くように撫でてやれば、は不安そうな瞳で恐る恐る見上げてくる。
「そうだな……がそっちの方が話しやすいなら、僕には今みたいはしゃべり方をして構わないよ」
イオスの提案に、は「でも」と困ったように眉を寄せる。
「いつも気にしてばかりだと、大変だろう?
むしろ僕は、が話しやすいように話してくれたほうが嬉しいな」
「うれ、しい? ほんとに……?」
はぽかんと口をあけてイオスを見つめる。
イオスはやわらかく微笑んで、大きく頷いた。
しばし視線を彷徨わせてから、やがてもこくんと頷く。
「じゃあ……イオスさんには、普通にしゃべるようにしてみる……」
無意識に話すときとは違って躊躇いがあるのか、普段のつたない丁寧語よりもさらにたどたどしい。
「ああ。でも無理に使い分ける必要はないんだよ。が話しやすいようにしてくれればいいんだから」
「はい、がんばるです……あっ。」
言った端から、普段の口調に戻ってしまっている。
自身もすぐに口に手を当てたが、イオスは堪えきれずに笑い出した。
「ぷっ……あはははは! 、言ったそばから……!」
「わ、笑うなんてひどいですっ! 急に変えるの、難しいんだから!」
失敗をこうもあからさまに笑われれば、さすがのも怒るらしく、真っ赤な顔でぽかぽかとイオスの胸元を小さな拳で叩く。
「だって、タイミングよすぎ……あはははっ……!」
「うぅ、イオスさんってば、そんなに笑わなくってもいいのに……!」
すっかり入り混じってしまった口調で、はぷいっとそっぽを向いてしまった。
イオスは「ごめんごめん」と謝りながら、先程よりもやや無造作にの頭を撫でる。
どうやら、しばらくは退屈しなさそうだ。
そして、背伸びをしたような丁寧語ではなく素のままの話し方をする彼女が、心もち年相応の雰囲気に近づいたような気がして、心のどこかが温かくなったような気がした。