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第一章 第ニ話
ほとんど無言で志穂は歩く。
俺は必死でそれに追従していく。
だが同じ速度で足を動かしているはずなのに、少しずつ距離に差が出る。
その度に俺だけ小走りになる。
こいつ俺より脚がなげーんだ……なんか悔しいぞ。
「なんとか間に合うペースね」
「はぁはぁはぁ……そ、そうか?」
学園の正門をくぐるまでに彼女が発したのはその一言だけだった。
結局、始業開始のベルが鳴る前にはお互いの教室にたどり着くことができそうだった。
俺と志穂は同じクラスではないので別の教室になる。
「悠真、忘れ物はない?」
「お、お前……今更それを聞くかよ!」
「心構えの問題よ」
呆れたように志穂が言う。
腰に手を当てて見下されるのも慣れているのだが、学園内でも幼馴染っぽく振る舞われるのは好ましくない。
「あ、ああ……たぶん大丈夫だと――」
「やっぱり忘れてる」
「へ?」
志穂の右足が一歩前に出て、俺の左耳に彼女の整った形の唇が近づいてきた。
「ふううぅぅ……♪」
「あっ……」
耳の中に温かい吐息を吹き込まれ、膝の力が抜けて崩れ落ちそうになる。
慌てて手を伸ばすと、志穂は俺の上半身を受け止めてくれた。
「今朝もあなたのイキ顔、情けなくて可愛かったわよ。じゃあね」
「こ、このヤロ……っ!」
凄んでみても俺の情けなさに変わりはなく、志穂はほんの数秒間だけ俺を抱きしめてから、何事もなかったように自分の教室へと向かった。
「はぁ……」
あいつは時々こういう悪戯をする。
しかも誰も見ていない場所で、全て計算した上で、俺をからかってくるのだ。
本当に質が悪い。
だが今日はいつもと違って、運悪く目撃者が現れた。
「おはよー、奏瀬」
「今日もラブラブだったじゃん?」
放心状態から回復した頃、声をかけてきた二人の顔を見て俺は心の中で舌打ちする。
片方は梅田カスミ、もう片方は難波サヤ。
「な、なんだよ……近づくな」
「ひっどーい! なにそれ?」
「傷つくわー、本当に訴訟もんだよね!」
「あ、いや……」
カスミのほうは背が高く、サヤのほうはカスミよりも胸が大きい。
二人ともそれなりに可愛いのだろうが……俺にとっては触れ得ざる存在。
性格的な問題ではなくて、女性であるということが問題なわけで。
「そりゃあウチら、志穂よりは見劣りするかも知れないけどさ」
「生物的には一緒なんですけど!」
「べ、べつにお前らが嫌いなわけじゃなくて……」
問題なのは二人ではなく、俺の体質だった。
勝手に名付けた「絶対敏感」のせいで、俺は女子と触れ合うことはできない。
これは小学校の頃からずっと治らない。
手を繋げば気絶する、と考えてもらうとわかりやすい。
だがこのカスミ達にとってはそれが楽しくて仕方ないらしい。
「ふっふーん、知ってるよ? 敏感肌なんだよね」
「あっ、おい! やめ……」
二人がジリジリと近づいてくる。
無意識に俺は後退りするが、すぐに背中に冷たい壁の感触を味わうことになる。
この狭い通路に逃げ場など、ないに等しい。
「やめなーい。ほらぁ、スリスリスリ♪」
「あっ、ああああぁぁ!」
カスミが急に俺に飛びついてきて、左側で腕を絡ませてきた。
こいつ、背が高いから振りほどけない!
さらに反対側にもサヤが同じように身を寄せてきて、あっという間に俺は退路を断たれてしまう。
「あはっ、本当にフニャフニャになっちゃった!」
「噂通りだねー」
「はなれ、ろ……お前ら、俺をおもちゃに、する気……」
二人のクラスメートに挟まれ、身を寄せられた俺は弱々しく抵抗する。
「うん、そーだよ♪ メロメロのヘロヘロにして、楽しく授業を受けさせてあげたいなーって」
「ウチらマジで優しすぎ! キャハハハハッ!」
ちゅ、ぱ……
カスミは見せつけるように自分の指先を舐めて、それを俺の首筋に這わせてきた。
「ほらぁ、続きしよー……スリスリなでなで♪」
「ああぁぁぁ……ッ!」
くすぐったいのを通り越して、全身がゾワゾワしてくる。
女子二人に支えられていても簡単に膝が崩れる。姿勢を保てない!
志穂の時と違って、こいつらは幼馴染ではない普通の女子だから、俺にとっては猛毒。
ドキドキして性的な興奮を覚えるのと同時に、純粋な恐怖を植え付けられてしまうのだ。
これはもうイジメだ、イジメと同じなのに……端から見れば俺はただのリア充扱い。
理解者も、相談する相手はほとんど居ないのだ。
心が折れそうになる直前、カッとフロアに響く靴音が聞こえた。
「そこまでよ! 二人とも、おやめなさい」
「げっ、委員長……」
「ウチら奏瀬と遊んでるだけなんですけど? もしかしてヤキモチですかぁ~」
「そんなのじゃないわ。あなた達の行いは立派な性的虐待です」
彼女のあだ名は委員長。
しっかりした性格が普段の言動からにじみ出ているのだ。
俺の窮地を救ってくれたのは、浅乃香織(あさのかおり)という女子生徒だった。
クラスメートであり、学級委員……そして俺の憧れの同級生。
浅乃さんに厳しい表情で睨みつけられ、カスミとサヤは俺を弄ぶ手を止めた。
「せいてきぎゃくたい? そんな大げさな事してないよ」
「そうだよね、奏瀬だって喜んじゃってるし。ほら」
「あうううっ!」
サヤの手が、そっと俺の顎を撫であげる。
反射的にビクンと背筋が伸びたところを、カスミに抱きしめられた。
「決定的瞬間ね」
「え」
「あっ! それ、まさか……」
浅乃さんの左手には、小型のデジカメが握られていた。
「この動画を先生方に出せばどうなるか……わかるよね?」
「き、きったねーぞ委員長! この性悪女!!」
「ふふ、あなた達には敵わないけど……何を言われても結構」
「くっ……」
焦りを隠せないカスミとサヤに比べて、浅乃さんは余裕の表情だ。
やべぇ、これは惚れる……男じゃなくても惚れるわ。
「さあ、どうするの?」
左手に持ったデジカメをもう一度二人に見せつけると、カスミとサヤは無言でこの場を立ち去った。
「大丈夫? 奏瀬くん……」
「あ、ありがとう……委員長」
「キミまで委員長って呼ばないでよ。ふふふ♪」
何気なく差し出された手を握ってから気づく。
「あっ」
「どうしたの?」
「あ、あのっ! 浅乃さん……まず、い、これええええ!」
「えっ、えっ!? ちょっと、どうしたの。落ち着いて、ほら!」
ギュッ!
それは完全にトリガーと呼べる刺激。
「ひぎいいいいいいいいいっ!!」
オロオロする彼女の前で、俺は二度三度と体を痙攣させてしまう。
浅乃さんの手はとても柔らかくて、暖かくて……さっきの二人とはぜんぜん違う天使のような感触だった。
暴力的な女性の魅力ではなく、すべてを包み込むような優しさに、俺は簡単に蕩けてしまった。
「いっ、ひゃうううっ!」
「奏瀬くん? 大丈夫!?」
大丈夫じゃない。
彼女に心を、直接掴まれたみたいで息ができなかったのだから。
暫くの間、俺は俯いて呼吸を落ち着けることに専念した。
口には出せなかったけど、彼女に手を握られただけで射精してしまった……。
(すっげー気持ちいい……でも、こんなこと浅乃さんには言えないよ……)
始業開始のベルはまだ鳴っていない。
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