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  第一章 第三話
  
  
  
  
 それから無事に着席した俺は、始業開始までの時間を、胸の高鳴りを抑える努力のみに費やした。
 すぐにクラスの担任が入ってきて出欠を取り始めた。
(うううぅ、早く消えろ……でも、消えるな……んぅ……!)
 俺は密かに顔色を変えずに悶絶していた。
 浅乃さんの手の柔らかさは絶品で、さきほど俺に絡んできた梅田カスミや難波サヤとは比べ物にならない。
 通常俺が感じる女性への苦手意識とは少し違って、優しすぎる天使に魂を包まれたような……喜ぶべきものなのだろうが、逆にそれが怖かった。
 慣れない幸せに対してどう振る舞ったら良いのかわからないのに似ている。
 まるで今でもずっと手握られているようで、気を抜くとそこに彼女が居るような――、
「奏瀬くん? 大丈夫!?」
「ん……あっ……」
 サラサラした髪をかきあげる彼女の顔が目に入る。
 至近距離から覗き込まれている。しかもそれは幻覚じゃなかった。
「ぅわああぁっ!」
 防衛本能もあって、思わず椅子を引いてしまう。
 周りの席の奴らは何度かこの光景を見ているので、呆れたような目で俺を眺めている。
「わかるわ。やっぱり体調がよく無さそう……奏瀬くん、保健室へ行きましょう」
「え、でも俺は別にどこもおかしくないから!」
「いいから早く」
 腕をぐいっと引っ張られる。
 忘れかけていた感覚が即座に蘇り、尾底骨から脳天までが甘く痺れたようにされてしまった。
「え、あ、あああああああぁぁぁっ!!」
「ほら、全然駄目じゃない。先生! ちょっと彼を保健室へ連れて行きます」
 よく通る彼女の声に担任が首を縦に振る。
 俺は女子に腕を惹かれる形で、情けない気持ちのまま教室をあとにする。
「は、恥ずかしいから腕を離してもらえないだろうか!」
「もうこの時間は誰も居ないから問題ないでしょ? それよりもしっかりと歩いて」
「うううぅ、わかった……」
 命令に逆らえずに廊下を歩く。
 彼女は学級委員であり、保健委員も兼任している。
 それが浅乃さんが委員長と呼ばれる理由でもあった。
「失礼しまーす。まだ先生来てないかな……」
 保健室には人の気配はなかった。
 俺は彼女に促され、ベッドに横たわる。
 清潔なシーツの香りがした。
「もう大丈夫だからさ……委員長は授業に戻っていいよ」
「駄目よ、おとなしく寝てなさい。あと委員長って言わない!」
「うっ、ごめん……でも朝からそんな大げさにしなくても」
 これじゃまるで俺は病弱で休みがちな生徒みたいじゃないか、と言いかけた時――、
ぎゅっ♪
「はうううっ!」
「いいから言うとおりにしなさい」
 イった。左手が完全に脱力させられた。浅乃さんの手のひらに、完全に参らされてしまう。
「ひっ! ひゃう、あ、はぅ……」
「いちいち変な声出さないで」
「んぁ、すんません……」
 ぴとっ♪
「!!!!」
「ん~、お熱は無さそうね?」
 さらに彼女は体温計を手際よく用意して俺の脇に差し、ついでにおでこで検温。
 手首に指を当てて脈拍を……委員長、前世はナースだったのかな。
「ひぅ! あの、手を……ッ」
「脈は……少し速い、かな? なんか汗かいてるね。暑い? 暑いの?」
「ちょ、ちょっとだけ……」
「ふ~ん」
 要領を得ない回答に彼女は困った顔をするが、俺のほうはそれどころではない。
(体温、めちゃめちゃ上がってますううううう!!!)
 今までも心配されたことはあった。
 でも保健室まで連行されたのは今日が初めてだ。
(しかも浅乃さんと二人きりの空間とか!)
 ベッドに横たわったままで少し見上げる角度。
 何故かいつもと違って、どこか神々しい感じがして……それも心拍数を乱す一因になっている。
  
「こうやってお話するの初めてかも」
 不意に彼女がつぶやいた一言で現実に戻された。
「そ、そうだね……そうかな?」
「ふふっ、なんか悪い事してるみたい。二人で授業抜け出して、保健室なんて」
 向けられた笑顔を正視できずに目をそらそうと思ったけど、そんなもったいないことなんてできない。
 いつも横目で見るくらいがやっとなのにこんなチャンスを逃すなんて愚かすぎる。
「あの、わ、悪気はないよね、その話題……」
「どうしたの? 奏瀬くん」
 笑顔が一瞬だけ真顔に戻って、別の意味でドキドキさせられてしまう。
 自分の中にある女子の理想形に限りなく近い存在。
 それが委員ちょ、いや浅乃香織という同級生なのだ。
「ああ……いや、心配かけて申し訳ないなと思って」
「それは保健委員として当然の務めでしょ。気にしないでいいよ」
「ありがとう、浅乃さん」
「こちらこそありがとう。やっと名字で呼んでくれたね」
 そしてまた笑顔。浅乃さんは確実に俺を殺しに来てる。
 この部屋に閉じ込められてるだけでヤバイ。胸と頭のどちらかが先にイかれてしまう。
 もちろん本人は無意識で、善意で動いているだけの筈なのにそれがたまらなく心地よくて……。
「そう言えば、仲川さんと親しいんだっけ?」
 浮かれた気持ちに冷水を浴びせられる思いがした。
 志穂のこと、だよな。
「親しいってほどの関係じゃないと思うけど……どうして?」
「あ、うん。さっきの二人組が話してるのを聞いたことがあって……」
「梅田と難波が?」
「うん……カスミとサヤの二人ね、けっこう奏瀬くんのことを気に入ってるみたいだよ?」
「な、なにか言われてんの? 俺」
「こないだは『奏瀬のど……なんとかを、いつか奪ってやるー!』って言ってたから、監視対象としてマークしていたのよ」
「……」
 その、ど……なんとかについては深く考えないことにした。
 ほんの僅かな時間だったけど、珍しく彼女のほうが視線を外してきた。
「あとね、前から仲川さんとお友達になりたいんだけどお話する機会がなくて」
「へぇ……そう言えば学年末テストすごかったよね。あの時は志穂がトップだったけど、僅差で」
「たぶんね、私が一方的にライバルって思いたいだけなんだよ。彼女のほうがいつも順位は上だし」
 そこまで話してから、浅乃さんは少し寂しそうで、優しげな表情を浮かべた。
「それにいいよね、幼馴染って言葉の響き」
「響きはいいかもしれんけど、実際は大変なこともあるかもよ。」
「ん、そうなの?」
「家が近いから平気で俺の部屋に乗り込んでくるし、何かしくじると容赦なく責めてくるし、
 うちの親に俺が隠してることを暴露する時もある。それから――、」
 俺の中で暴露スイッチが入る。今こそ志穂のイメージを崩す時。
 別にそれで浅乃さんの気を引こうという意味ではなく、今朝の一件もそうだけど誰にも言えない事を吐き出す好機。
 でも彼女はそれら全てに対して笑顔で相槌を打ってくれた。
「ふふっ、やっぱり羨ましいなぁ」
「う、嘘だろ……こんな、ただれた関係が?」
「違うよ、そういう意味じゃなくて……仲川さんが」
 彼女の言葉を理解するために、今度は俺が黙り込む番だった。
「志穂が……ん? んんっ?」
「奏瀬くんと幼馴染っていう関係にある彼女が、少し羨ましいの」
「一生幼馴染のままなんだぞ!?」
「それでもいいじゃない。だって、例えば今の私が欲しがっても手に入らない関係じゃない?
 その時の自分の環境とか、色んな要素が重なって生まれた関係だから……憧れちゃうなぁって」
 そういうもんなのかなぁ……と納得仕掛けた時だった。
「そんな大それたものじゃないから」
「えっ」
 隣のベッドを覆い隠していたカーテンが勢いよく真横へ滑る。
「し、志穂~!?」
「どうやってここから抜け出そうか必死で考えちゃったわ……
 悠真、朝から私に頭を使わせるのやめてくれない?」
「……お前、どこから聞いてた」
「全部」
 がっくりと肩を落とす俺を冷ややかに見つめてから、志穂は視線を隣りにいる浅乃さんに移す。
「悠真が絡んできたのは残念でしょうがないけれど、
 通期学年トップの浅乃さんに私の名前を覚えて頂けていたなんて光栄だわ」
「あ、あのっ! 仲川さん、初めまして……」
 かしこまる浅乃さんに、志穂は笑顔を見せる。
 学園内ではクールな志穂が時々見せるこの表情……実は俺も好きだったりする。
 もちろんこの魔女みたいな幼馴染にはそんなことは伝えていない。
 こいつに弱みを握られたらそれこそ一年中いじられてしまう。
「ところでアンタ、何しにきたの?」
「あぁ!?」
「どうせまたアレルギーが出たんでしょ。迷惑」
「あとで覚えてろよ、志穂……!」
「ふん、強がっちゃって。珍しいわね、そんな顔で私を睨んでくるなんて」
 志穂の口元が歪み、涼しげな瞳が真正面から俺を写す。
 幼馴染として、経験からわかることがある。
 こいつがこの目をしている時は、だいたいろくでもない事が起きる。
 それもピンポイントで、俺に対してろくでもない何かが。
「浅乃さんにも正しく教えてあげないとね? 悠真のこと」
「えっ……?」
 そう言いながら、志穂は浅乃さんと反対側のベッドの縁に横座りになる。
 俺の胸元に手のひらを置きながら。
  
  
  
 
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