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第二章 第一話



 悲恋湖から突然現れた自称人魚は不機嫌そうだった。
 世の中の鬱憤を全て吸い込んだような表情と言い換えても良い。
 眉毛の角度が半端ない。

「水中にガムを放り込むなど、鬼畜の所業じゃな!」
「……あの、何から尋ねれば良いのでしょうか」
「まずはキサマが名乗れ、小僧!」

 言われるがままに俺は渋々自己紹介をした。

「ふん、ユウマか……ありがちな名前じゃが、悪くなはい」
「あの、貴女は?」
「妾の名前か? ヴァヴル・サキュ・フローラ」
「ヴァ……早口過ぎてちょっと。あ、あれっ!?」

 名乗る彼女の姿が変化する。
 目の前でピチピチしていた尾ひれが消えて人間の脚になった。

「もう良い。リリスと呼べ! そのほうが妾も気楽じゃて」
「リリス……」
「あぁ!? 知っておるのか」

 ジロジロとこちらを見ながらリリスは言う。
 この人すごく綺麗な顔立ちをしてるけど、とりあえず気持ちを鎮めて貰わなきゃいけない気がする。
 控えめに言って人外。もしかしたらそこに変態も混じっているかもしれない。
 水の中で、こんな格好で潜っていたなんて。しかもずぶ濡れだったはずなのに、水滴がそれほどついてない。
 すでに俺の目の前にいるのは普通に綺麗な女性でしかない。
 しかしその威圧感は、眉毛の角度を無視しても半端ない。

「リリスって悪魔ですよね? いや、なんていうか……もっと、ねえ?」
「キサマ、失礼なことを考えておるじゃろ。けしからん!」

 するとリリスはその場でくるりと一回転してみせた。
 僅かに残っていた水滴が弾け、周囲の光を集めて神々しく輝き出す。

「うわぁ……」

 たったそれだけで俺は理解した。
 目の前にいるのが美の化身であるということに。
 それが神がかり的なものなのか、魔性のものなのかはわからないけど。

「あの、綺麗ですね?」

 次の瞬間には自然と彼女を褒め称えていた。
 褒めちぎったと言っても良い。
 語彙力はともかく、心の底からでた言葉だった。

「ははっ、理解したか! 良いのだぞ、もっと近くで見つめても」
「いいんですか?」

 既にリリスの表情には当初の怒りはなく、彼女は笑顔すら浮かべていた。
 俺は素直にその言葉に甘えた。
 吸い込まれるように近づいて、手のひらを彼女の肩に乗せて……、

「ば、ばかもの! 近づきすぎじゃああああ!!」

ビシイイィィ!!

「いっ、痛てえええっ!」
「はぁ、はぁ、はぁ……全く、人間の分際で妾をたぶらかそうなどとは、百年早いわ!」
「ひ、酷い……!」

 思い切り頬を張り倒され、冷静になる。
 たしかに馴れ馴れしい行いだった。反省する。
 しかし彼女の方も、さっきより顔が赤くなっている気がする。
 もしかしてリリスはとても純情なのか。

「ああ、すまんな……本当は先にお礼を言うべきなのだが、釣り糸ガムのせいですっかり忘れておった」

 リリスはそう言いながら一歩下がり、上品に微笑んだ。

「ありがとう、少年よ」
「えっ……」

 戸惑いを隠せない。
 感謝される理由がわからないのだ。

「じつは湖底で探しものをしていたんじゃよ」

 俺の顔色で心情を察したように彼女が語りだした。
 湖の中で考え事をしている最中に大切なものを落としてしまったという。

「まあ、結果的には見つからなかったけどな……」
「それは残念でしたね」
「うむ。だがしかし! 引っ張り上げてくれたことには感謝する。下手すればあのまま数十年単位で途方に暮れていたかもしれ……おい待て、ユウマ」

 リリスが俺の左下付近にあるものを見て顔色を変える。

「は?」
「何故ここにある! 妾の探しものが何故、ガラクタの中にあるのじゃあああ!!」
「え、えっ!?」

 瞬間沸騰湯沸かし器のごとく、彼女の顔が朱に染まる。
 わけもわからず俺は次の言葉を待つしかなかった。

 リリスは震える指先で、俺が釣り上げたもの……クーラーボックスの脇にある、小さな山を指差す。折れた枝やペットボトルに埋もれて、原型をとどめているものがある。

「もしかして、このノート?」
「それじゃああああ! よく見せてみろ」

 勢いに押される形でノートを手に取ってみて気づく。
 このノート、全然濡れていない!
 引っ張り上げてから乾いたのであるなら、どこか歪みが出たりするものだ。

「うむうむ、間違いない……感謝する」

 ノートをペラペラとめくりながら彼女は小さく頷いた。
 そして空中に手をかざすと、小さな宝石箱のようなものが突然現れた。

「御礼にこれをやろう」
「なんですかこれは?」
「玉手箱といってな……」
「それはパス! ノーサンキューです!!」

 俺は思わず両手をクロスさせた。

「説明くらいさせてくれんかのー!」
「だって開けたらお年寄りになっちゃいますもん」
「ぐぬ、知っておったのか……」

 少々がっかりした様子で、リリスは玉手箱を背後へ放り投げる。
 ポチャン、と小さな音がした。

「ではこちらを授ける」

 そしておもむろに、手にしていたノートを俺に差し出した。

「あの、お宝なんですよね? いいんですか」
「うむ……つい出来心で、ユウマを騙そうとした自分が恥ずかしくなった。これをやるから許せ」
「でも、なんだか縁起悪そうなノートですね……」

 手渡されたノートをじろじろと見つめる。表紙は黒い。中の紙は少し黄色っぽい。
 紙の質はツルツルしていて、油性のマジックじゃないと書き込めそうにない気がする。
 そして何より、名前を書いたら相手が死んでしまいそうだ。

「まあ、そう言うな。見た目はともかく、キサマのような年代の少年には役に立つと思うのだが」
「どんなご利益があるのです?」
「恋人ができる」
「えっ」
「もう一度言ってほしいのか。いくつかの縛りはあれども、そこに名前を書いた女性と、恋仲になれるという代物じゃ」

 あまりにも神がかりすぎるリリスの言葉に、俺はもう一度ノートの効果について問い返すのだった。






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