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第三章 第五話



 俺は一分近く、彼女の言葉を頭の中で繰り返した。
 それでも、真意が何なのかを掴みきれずに居た。

「ルルカ、今のは冗談じゃなくて本気で言ってるんだよね」
「はい。私たちには備わっていない感情なので、真面目に知りたいのです」

 その言葉通り、こちらを見つめてくるのは真剣な眼差しだった。

 サキュバスが悲しみを知らない。
 それは喜怒哀楽の一つが欠けているわけだ。
 いつも陽気に男を犯し、性的に弄ぶ悪魔という印象が、俺の中で僅かに揺らぐ。

 ルルカに限らず、サキュバスは情交を好む。
 だがそれは、決して明るく楽しく、自分たちの繁栄のためや享楽のためではなく、悲しみを知らぬがゆえの行為だとしたら……。

「……ここは、悲しみの都と呼ばれているんだよな」
「そうですね。初代の女王様が命名したと聞いています」
「初代のリリスが? なぜそんな名前にしたのだろう……」

 謎が深まる。
 言うまでもなくリリスはこの世界の王であり、すべてを知っているはずなのだ。
 俺が関わっている現在のリリスも、普通に話が通じるものだと思っていた。

 黙り込む俺を見かねたのか、ルルカが語りだす。

「選定の儀が行われると聞いて、私たち三騎士は喜びました。リリス様から、この世界で悲しみについて知っているのは女王のみと言われていたからです」
「やはり、リリスは悲しみを知っているんだ……」
「はい。そして悲しみこそが、女王の力の源であると私達は信じて、憧れているのです」

 嬉しそうな表情のルルカを見て、俺の疑問が少し解けた。
 サキュバスが悲しみに憧れる理由を彼女が教えてくれたからだ。
 女王の美しさの秘密が悲しみにあると彼女たちは信じて疑わない。

「ルルカも悲しい気持ちを知れば、もっと強くなれると思ってるの?」
「はい! 正しく理解できれば、きっと素晴らしい魔力を手に入れられるのだと信じています」
「そっか。今回の選定の儀には、悲しみを理解することも含まれているのかな」
「いいえ、そこまでは。ですのでこれは私の独断です。じつはユウマ様に尋ねる前に、香織にも同じことを試みたのですが……」

 ぺろりと舌を出しながらルルカは右手の人差し指を立ててみせた。

「香織さんは教えてくれた?」
「いいえ、それが……教えてもらえませんでした。代わりに彼女は『私もルルカみたいになれたらいいな』とはぐらかされてしまいました」
「なるほど、彼女らしいな……でも、そのことを俺に伝えちゃっていいの?」
「はい、ここまでの会話はすべて香織の意識に残るようにしています」
「そうか。じゃあ俺からの回答は少し待ってほしい。ルルカが仕える女王本人に確かめたいことがあるから」

 俺がそう言うと、ルルカは静かに頷いた。
 実際問題として悲しみを知らない相手にその感覚を教えるのは難しい。
 それ以上に、もしかしたらこの世界では悲しみを知ること自体が禁忌なのではないかとすら思える。

 俺はルルカを伴って、リリスのいる場所へと転移した。







「概ね正しい」

 俺の話を聞いたリリスがゆったりと美脚を組み替えながら鷹揚に頷いた。
 そして俺の隣にいるルルカに目配せをすると、彼女はそっと身を引いてこの場から姿を消した。

「ここから先の話は淫魔の世界では極秘事項ゆえ……結界を張るぞ」

 リリスの指先が空中に星を描くと、ぼんやりとした青いカーテンのようなものが俺たちを包み込んだ。

「やはりルルカには聞かせられない話だったのか」
「ふむ。まあいろいろと事情があってな……さて、なにから話そうか」

 リリスは自分の正面を指さして、大きめの椅子を出現させた。
 そこへ俺に座るよう促した。腰掛けてすぐに彼女から話を切り出した。

「我らの世界の秩序を保つため、妾がリリスの名を継ぐ遥か昔に、悲しみそのものをサキュバスという種族全体から奪い去ったのじゃ」
「種族全体って……どんな魔法か知らないけど、感情を奪う事なんてできるはずがない!」
「そうじゃな。故にこれは魔法ではない。呪いじゃよ」

 呪いという言葉を聞いて俺は黙り込む。もはや人間には想像できる話ではない。
 リリスの言葉を静かに待つことにした。

「初代のリリスがどんな姿だったのか、その記録はない。しかし記憶は引き継いでおる」
「じゃあ歴代のリリスの記憶を……?」
「うむ。その昔、リリスは恋に落ちた。そうすることで相手の能力をコピーして、より強大な魔力を獲得することができたからだ」

 相手の能力をコピーするためには吸精が必要だという。
 つまりエッチするたびにサキュバスは強化される。
 おそらく後継者に記憶を受け渡す力もその過程で手に入れたものなのだろう。

「しかもただ一人に恋をするのではなく、複数の……それこそ数え切れぬほどの恋をした。リリスが得た能力と魔力を用いて、魅了を重ねればそれは容易いことだった。しかし、ただ一つ誤算があったのじゃ」

 そこまで語ると、リリスは深い溜め息をひとつ吐いた。

「私欲のために重ねた恋ではあったが、思いの全てが偽りだったわけでもなく、むしろ真の愛を感じることも少なくなかった。その結果、数え切れぬほどの恋人たちとの別れを、彼女は体験することになる」
「初代リリスが恋人に振られたという意味?」
「違う。リリスの魅了術は完璧。故に死ぬまで解けることはない。リリス自身、または恋した相手が死ぬまでは……な」

 リリスが相手に振られることはない。
 それならば、ますます悲しみなど無縁のはずなのに……と、不思議そうな顔をしている俺にリリスは続ける。

「我らの寿命は長い。低級の悪魔に属するとはいえ、ほとんどの種族よりも長命なのじゃ」
「そうか! つまり、恋した相手の寿命が尽きて、どんどん先に死んでゆく……」
「ようやく理解できたようじゃな」

 やっと繋がった。
 リリスの悲しみは、相手に対する恋心に関係していたのだ。

「たくさんの別れを経験した初代リリスは心を痛め、仲間であるサキュバス達を不幸の連鎖に巻き込まぬよう、種族全体に呪いをかけようとした。悲しみなどいらぬ、悲しみなど……どこかへ行ってしまえと」
「それで、うまくいったんだね?」
「いや、それがな……彼女一人の魔力では、呪いを永続させることは難しかった。そこで生まれたのが、この魔道具なのじゃ……」

 リリスが手をかざすと、見覚えのあるものが俺の目の前に現れた。

「エスノート……?」
「この忌まわしき雑記帳こそ、淫魔王が背負った世界の歴史であり初代リリスの残滓。今まで誕生したサキュバスすべての悲しみが詰め込まれている……」
「これ、そんなにすごい代物だったのか!」
「そうじゃ。リリスの名を継ぐ者は抑圧された感情の解放と共に強大な魔力が付与され、エスノートの所有権と同時に深い悲しみを背負うことになる」

 そして今その次世代のリリスを選ぶ儀式に、俺は参加させられているというわけか。責任重大じゃないか。

「悲しみを知らない相手に悲しみを伝えるんだろう……アンタは心苦しくないのか」
「もちろん心苦しいさ。しかし伝わらないのだから悩んでも仕方あるまい」

 自嘲気味につぶやきながら彼女は続ける。

「なにより、三騎士だけでなく、サキュバスは悲しみに憧れておる。それこそがリリスが持つ妖艶な美の極致だと信じて」
「悲しみなんて、知らないで済むならそのほうが良いのに……」
「でもやはり気づいておるのじゃよ。悲しみを知らぬという事が幸せな反面、何か物足りないとオンナの本能に訴えかけてくるのじゃ……」

 リリスは静かに目を伏せてから、俺を見つめてきた。

「ユウマよ、改めてそなたに託す。リリスの継承者に悲しみを理解させてほしい」
「待って、そんな大役を俺が果たせるわけ無いだろう!」
「それは違うぞ。ニンゲンの中でも中庸であるそなたにこそ、この役目を頼みたい。悲しみを知るものとして、次世代のリリスを……この世界を導いてほしい」

 さらに深々と頭を下げられ、俺は困惑する。
 軽い気持ちでここへ来た。
 女性恐怖症とも言える自分の体質を改善できると聞いて、ホイホイついてきたのは俺の責任だ。
 しかし、

「いや、やはり俺には――、」
「な~んてな。気楽に構えるが良い。本当は誰でもよかったんじゃああああああっはっはっは!」

 リリスが破顔する。今まで必死で笑いをこらえていたのだろう。
 結界がなければこの宮殿中に響き渡るほどの快活な笑い声だった。
 そして涼しげな顔を見ている内に、俺の中の緊張感もキレた。

「てめぇ……いろいろブチ壊しだろ!」
「いやいや、そなたに頼もうと思ったのは本気じゃよ。悪い奴ではなさそうだし」
「それだけの理由で?」
「ふむ、そうじゃよ。悪いか」
「ふざけんな! そんなあっさり決めていいのか!?」

 俺の憤りなどどこ吹く風といった様子で、リリスは少し横を向いた。

「ふん、おぬしとて、もうメロメロになるほど好きなんじゃろ? ルルカのことが」
「!!」
「どんなきっかけであれ、妾の三騎士に好意を持って貰えたのならそのほうがいい。無垢な少女にちんこの形を教えるように色々話しかけてやってくれ。それだけでいい」

 軽やかに彼女は言い放つが、別の疑問がわきあがってきた。

「待て待て! 待ってくれ。そのあとはどうなるんだ」
「なんのことじゃ?」
「アンタ自身のことだ! 後継者が決まったらリリスとしての役目が終わるんだろう。そしたら……」

 もしかして現在のリリスはそのまま消滅する……なんてことになったら、それはそれで後味が悪い。
 やはり選定の儀には、これ以上関わりたくない。

「妾を案じてくれるというのか。良い心がけじゃが……ふん、余計なお世話じゃの!」
「可愛くねええええっ」
「まあそれは……全てが終わった後じゃ」

 リリスは立ち上がり、背を向けた。
 その雰囲気には、言うべきことを言い切った清々しさが見え隠れしていた。

「あの湖で出会った縁もある。そなたになら話してやっても良い。自分を助けてくれたニンゲンに恋をした人魚の話をな!」
「……恋?」

 彼女の一言に、俺はおとぎ話を思い出していた。
 人間に恋をした人魚が泡となって消えていく話だ。

 でも目の前の元人魚は泡になって消える気配はない。
 それにあの悲恋湖の逸話って、事実だったのか。

 いろいろと考えごとをしていると、不意にリリスがくるりと振り向いた。

「なんじゃ……こら、なんとか言え! 沈黙は苦痛じゃて」
「アンタ、自分から話しといて赤くなるんだな」
「や、やかましい! ほっとけ! 今のは忘れるんじゃああああぁぁぁ!!」
「ちょっと可愛い」
「やめろ!」
「可愛い可愛い可愛い」
「うわああああああああああっ!! 貴様、妾をおちょくる気かあああぁぁ!!」

 その数分後、金魚のように真っ赤になった顔が落ち着いてから、リリスは結界を解いた。



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