Elbereth
風邪をひいた。
いつもより鼻が詰まって、少し喉が痛くて、なんだか寒気がするのでひょっとするとこれは風邪なんじゃないかと思い始めた頃ついに頭が痛くなってきたので確信するに至った。
薬を探しに降りる。
メイドの姿は……ない。
納戸で内服液を見つけたのでそれだけ飲んで寝床に潜り込んだ。
眠くもないのに寝ようとするのは存外辛い。
いろんな思考が交錯して収拾がつかない。
そして何度も何度も寝返りを繰り返した。
ノックの音で目が覚めた。
「……あ?」
「ご主人様、お水をお持ちいたしました」
「ああ……入っていいよ」
「失礼いたします」
ドアを開けてメイドが入ってくる。
そう思い込んでいた。
だが、入ってきたのは別の人間だった。
「似てた?」
薄笑いを浮かべた柊柯が現れた。さっきのは声真似だったようだ。
「……さあ。ドア越しだったし、寝惚けてたし」
「そう」
柊柯は黄色っぽい液体の注がれたコップを無造作に机に置いた。
「それなに?」
「りんごジュース」
水を持ってきたというのは本当だったらしい。
「起きられるでしょう? それとも吸い飲みで飲ませてほしかった?」
「……スイノミ?」
「病人が寝たまま水などを飲むのに使う細長い口のあるきゅうす形の容器。飲めないのならこれは私があなたの目の前で美味しそうに飲むけど」
「……飲むよ」
のそのそと起き上がって未だに出してある半纏を羽織り、席に着く。
柊柯は勢い良くカーテンを開けてから窓際の揺り椅子を占領した。白いドレスに昼の陽射しが反射して眩しい。
ああ。昼か。
……メイドはどうしたんだろう。
「どうしてメイドが来ないんだろう、って思っているでしょう?」
「……なんでだよ」
「顔に書いてあるもの」
「…………」
ひりひりするほどにすっかり乾いた喉にりんごジュースを流し込む。じんわりと甘い後味が舌の上に残る。
「たまよにはね。病人のことは気にせず普段どおり仕事をするように言ったの」
「……なんでだよ」
「だってあなた、メイドが看病に来たりしたら甘えるでしょ? 付きっ切りになったりしたら、家の中が荒れるじゃない」
「そんなこと……」
そんなことは無いと言えるのだろうか。付きっ切りで看病をしろなどとは言わないが、もし付きっ切りで看病をされたら拒む自信はない。
「食欲は?」
「あんまりない」
「じゃあ少しは食べたら?」
「……うん」
「待ってて」
取り立てて急ぐわけでもない足取りで柊柯は出て行った。
部屋の中が急に静かになった。
コップは既に空になっている。
柊柯はなかなか戻って来ない。
どうにも手持ち無沙汰なので窓から庭を眺めた。メイドが居ないかと思ったのだが、やはり居なかった。
いつもこうだ。気が付けば自分はメイドの姿を追っている。その声を待っている。そばにいてほしいと願っている。
甘えているのだろうか。
甘える、か……甘える……甘える……甘えたい……甘えさせてほしい……?
駄目だ。急速に自分が嫌になってきた。死にたい。ひっそりと。
力なく、どっかりと椅子に腰を下ろす。程なくして柊柯が盆を手に戻ってきた。
「ただずっとそこに座ったまま待ってたの?」
「……まあね」
「それにしては辛そうじゃない? 寝ていてもよかったのに」
運ばれてきたのは白米、味噌汁、納豆、海苔。実に簡素な取り合わせだが、弱った心身にも気が楽な量だった。
柊柯は盆を机に置くと、再び揺り椅子に納まった。
「……まだ居るのか?」
「邪魔?」
「邪魔……じゃないけど……食べにくいじゃないか」
「あなたのごはんなんだから堂々と食べればいいのに」
「……なんだそれ」
「そうそう。お味噌汁、こぼさないようにね」
「うるさいよ」
仕方がないので我慢して食事を始める。しばらく自分の控えめな食事の音だけが部屋に漂う。
「それ、誰がつくったと思う?」
「……メイドじゃないのか?」
「メイドじゃないのだ」
「…………」
「私」
「……ふぅん」
「それだけ?」
「……ありがとう」
「…………」
柊柯は目を見開いて黙った。不思議なものを見るような顔だが、睨んでいるようにも見えた。
「もしも私がメイドだったら……」
「……はぁ?」
「あなたの態度も違うのかしらね」
そんなことを言われると、もう僕の脳は自動的にメイド服を着た姿を思い浮かべてしまう。
「……同じだよ」
「そう?」
「そっちの態度が同じならな」
「メイドになったらメイドらしくするけれど」
「メイドらしくってなんだよ」
「それはあなたの方がよく知っているんじゃないの?」
「違う」
箸を置き、柊柯に体を向ける。
「普遍的なメイドらしさなんてものはない。そんなものは幻想だ。それぞれが自分らしくメイドというものに対して真正面から向かい合うところにそれぞれのメイドらしさと呼べるかたちが生まれるんだ。傅いても敬っても、その人間自体が別の何かになるわけじゃない」
それっきり会話は途切れた。
僕が食事を終えると、ずっとうつむき加減で揺り椅子を揺らしていた柊柯が静かにやってきて盆を下げる。
ごちそうさまを言おうと思ったけれど、なんだか気まずくて言い出せなかった。
結局柊柯も何も言わずに部屋を出て行った。
余計なことを言ったか、間違ったことを言ったか、無意味なことを言ったかとしばらく思い悩んだ後、上手く答えが出ないのでそれらを投げ出してまた寝床に戻った。
寝てしまおう。もう一眠りして目覚めればきっと体調も気分も元通りになっているだろう。
……眩しい。
カーテンが開かれたままだ。
閉めたいけれど1度布団に潜ったので、もう起きるのが面倒になっている。
どうしようかと迷っていると不意にドアが開いて、三度柊柯が現れた。茶色の液体の注がれたコップを持っている。
「麦茶と薬」
何かと問おうとする前に答えられた。
差し出された左手には小さな袋が乗っている。
「粉薬か……」
「これが効くらしいから」
覚悟して袋を開け、毒々しくもあるピンク色の粉末を含み、麦茶で一気に流し込む。それでも舌の上にじんわりと苦い後味が残った。
こんな時こそ甘い飲み物にしてくれればいいのに。それともこれは嫌がらせなのだろうか。
「もしも自分を捨ててもあなたが望むようなメイドになりたいって言われたら……」
「……はぁ?」
「あなたは怒るのかしらね」
怒るのだろうか。自分を捨てて僕が望むようなメイドになれなんて言わないが……もし言われたとしたら、拒む自信はない。
なんだか急速に自分が嫌になってきた。
Elbereth
[ →柊柯、メイドを折檻する。 ]
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