―――怖かった…

ランペルティーザは小さな町の、古い通りを駆け抜ける。彼女が本気で疾走すれば、景色は形を失くし、色となって流れて行く。後方へ飛び去る。
ランペルティーザが足元をすり抜けたとき、背の高い人間は何が起こったのかわからず、つむじ風を探してきょろきょろしていた。

ランペルティーザは、らしくなく息を弾ませる。はぁはぁと、荒い息が胸から喉に這い上がり、耳元に篭もって繰り返された。

―――あんなに怖いジェリーロラムを見たのは、初めて。

彼を傷つける子猫とガスを会わせまいと、入り口に立ちはだかるジェリーロラムは悪魔のように恐ろしかった。今でも身震いする。
怒っているジェリーロラムの、顔いっぱいの笑顔。
今にも口が耳元まで裂けるかと…

一言謝るのには、本当に勇気が要った。

昔、ランペルティーザは群で一番綺麗な雌猫を、シラバブと言い争ったことがある。シラバブはジェリーロラムがだれより綺麗と主張したけれど、ランペルティーザは納得いかなかった。

『一番綺麗なのはボンバルリーナだよ』
 マンゴだって言ってた。ボンバルリーナはいい女だって。

『ちがうよ! 絶対ジェリーだよ!!』
『ジェリーロラムは丸顔で可愛いって感じだけど、ボンバルリーナは唇が色っぽくて、美猫だと思うな』

どちらも折れなくて、決着はつかなかった。結局シラバブを泣かせて、それでその話は立ち消えた。
でも。ランペルティーザは思いなおす。

ガスのため悪鬼のように怒り狂っているジェリーロラムは、本当に綺麗だった。あのボンバルリーナでさえ、ひょっとしたらかなわないのじゃないかと思うくらい。

―――そういえば、ジェリーロラムって舞台の「グリドルボーン」なんだよね。

稀代の悪女グリドルボーンだったら、確かにリーナとはるくらい美猫でも不思議じゃない。そうか。
ジェリーロラムってとても綺麗な猫だったんだ。

ガスのためなんだろうか、やっぱり。

ランペルティーザは、背の高い相棒をさがして街中を駆けずり回った。





「なんだよ、わざわざこんなところに…」
「マンゴ、見つからずに入る自信ないの?」

ランペルティーザが笑みを含んで挑発すると、すぐにマンゴは乗った。

「なんだと?! 誰に向かって言ってんだよ、俺はマンゴジェリー様なんだぜ?」

怒った口調を作ってみても、目の奥が笑っている。飛び上がって両足を打ち鳴らし、仕上げにばちんとウィンクを飛ばすと、彼はランペルティーザを追い越し駆けて行った。
閉館時間を過ぎて、美術館の門は固く閉ざされている。
 猫が侵入するのは容易かった。

「本当に……乗せやすい」
 
本猫は乗ってやってるつもりなんだろうけど、ね。
ランペルティーザは口をすぼめて笑った。マンゴに聞こえないように。
足の長い相棒を追いかけて、彼の二倍早く動かなければならない小さな雌猫は、樹脂の軽い感触を一歩踏みしめた。

深夜の展覧室には、こう掲げてある。
『古代ガラス展』





色とりどりの装飾品、杯、重し、大きな花瓶まで、ひっそり一列に並んで展示されていた。透明、あるいは半透明に色を透かせる。
モザイクの美術品もあって、猫の目にも美しい。

通路の真ん中に、棒のような展示ケースが直立していた。
ニ匹の猫は、その四角い頂点へ、ニ匹一緒に飛び乗る軽業を見せた。

明かりを消した真っ暗いガラスケースの中心に、また小さな白い台を設け、大事そうにたった一つの石が乗せられていた。
茶色い。丸い。半透明で、不純物が見える。

質感、形といい大きさといい、ガスの小さな勲章にそっくりだった。
マンゴジェリーは息を呑む。ランペルティーザは嬉しそうに笑い声を立てて、鈴のような音色を美術館に響かせた。

「これが、なんだっていうんだよ…」

いつも浮かべている、調子のいい笑顔を消して、マンゴジェリーは毒づいた。色は違う。けれど、展示ケースの中身はガスのガラスにそっくりだった。

「こんなに厳重に守られてるってことはさ、このガラス、誰かにとっては結構大事なものなんじゃないの?」

マンゴジェリーの脳裏に、鮮やかに一つのストーリーが浮かんだ。
異端の目を持つ、突然変異のお姫様。

閉じた世界のなかで、群からはみ出すのはどれだけ辛いことだろう。たまらず外へ飛び出して、そしてガスに出会い、身につけていたガラスを彼に手渡すなんてことが、本当にあったとしたら…?

宝石より大事に扱われるガラス玉を、ガスに贈ったのだとしたら……

長い回廊に、ひそやかな猫の笑い声が広がった。彼の相方、ランペルティーザだった。あまりに軽やかすぎて、人間には聞き取れないだろう。

「だからなんだよ。ガラスはガラスだろ」
「うん。ガラスだけど?」 

ランペルティーザは可笑しくてならないと目を細めている。つりあがった大きな目が、絹糸のように光っている。

赤毛の相棒を覗き込もうと、彼女が身をかがめると、マンゴジェリーは嫌がって台から飛び降りた。
びたんと音がした。ランペルティーザがびっくりして、注意するのを忘れるくらいだった。

「ガラスばっかりだな!! こんなにガラス集めて、何が楽しいんだか」

膝の埃を払いながら、マンゴジェリーは威張った。

「綺麗じゃない。でも、中でもこのガラス玉は特別なんじゃないかな。だって一番いい場所にあるよ」
「一番みすぼらしいつまんない石ころだ!」

マンゴジェリーは肩をいからせて先に帰ってしまった。
湯気を立てて怒っているマンゴジェリーを、呆れたオレンジ色の視線が見送る。ランペルティーザは、ジェリーロラムを思い出していた。

「本当に、雄猫ってしょーもない」

高い声が呟く。ガスもマンゴジェリーも、本当におとなげない。

頑固に怒っているガスも、むかっ腹立ててるマンゴジェリーも、照れ隠しなのはわかったからもうちょっと素直になって欲しかった。




マンゴジェリーには、何度も助けられた。
彼が居なければ、ランペルティーザはどんな苦しみを味わっていたことか。
でも、マンゴに教えてあげられることもある。

「けっこう真面目なんだな、あいつ。意外…」

誰かの大事なものを間違って盗んでしまったら、謝って返していい。
盗まれたら不愉快だろうけど、一晩たったらそれも忘れている。私たちの仕事は、そんなのがいい。

誰かが傷ついていると知りながら、棘だらけの宝物を抱え込んでいるなんて、ばかばかしいことだった。もっと軽やかに生きたい。

『欲しいものは選ばず盗む』 
確かにそれは、マンゴジェリーの誇りなのだろう。

でも、ちょっと融通を利かせたって、自分の「自分だー!!」という部分は、弱くなったりしない。消えない。
自分らしくいられる。

そのことを教えてあげられる。
今までで一番嬉しい。 いつも嬉しがらせてくれる彼に、してあげられることを見つけた。
ランペルティーザは、わくわくしっぽを伸ばした。背中を反らして、大きく伸びをする。脳裏には、ジェリーロラムの鉄壁の笑顔。彼女の秘密が、今少しわかった。




騒がしい泥棒の雄猫が消えて、窓のない部屋に静謐が残った。空気が動かない。展示品は、何百年もの月日を経たつわものばかりだ。
水をかき回すように、若いランペルティーザはひげを震わせた。

彼女にはわかっていた。
目を合わせなかったマンゴジェリーは、ガスの話を、もう疑っていないのだと。

ガスの大事な勲章は、もう誰にも傷つけられない。

そこには誰も居なかった。
美しいものだけがあった。
贅沢な空間の中で、小さな雌猫はうっとり歩き回り、展示品の数々を眺めた。





『勲章』
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2006.11.23