「さっき、そこでヴィクとすれ違った。
お前、あいつとお話したか?」
タガーは、ミストフェリーズの尖った肩に、気安く腕を乗せてきた。

「お前は、あいつがお気に入りだもんなぁ」
他の二匹に聞こえないよう、ミストの薄い大きな耳に寄って、囁く。

あいつ。ヴィク。
タガーは、気安く彼女を呼んだ。

―――こいつがいるんだよな。
ミストフェリーズが、内心、決死の思いで詰めた彼女との距離を、タガーはあっさりひとっ跳びする。
他の二匹とはわけが違う。

タガーに熱を上げているのは、ヴィクトリアのほうだった。

―――こんなやつの、どこがいいんだ。
ミストには心底疑問だった。
見た目か? むしろそれ以外に、考えられない。

「お前、ヴィクを泣かせただろう。あいつの目が赤かった。
けっこう、やるじゃねぇか」

タガーはにやにやと口元をゆがめていた。
そんな風に言われたら、ヴィクトリアがどんなに嫌か、ちっとも分かっていないようだった。

「あんたの気のせいだろ。別に、だれも彼女と喧嘩なんてしてないよ」
「へぇ。ガキが、意地悪以外で女を泣かせたのか。
そりゃあ、もっと褒めてやらないとな」
タガーはミストの首筋をすっとなぞり上げた。

「やめろよ」
 タガーの手を退けさせると、ミストフェリーズは足を組んで壁によりかかった。

タガーはミストを見下ろすように、壁に手を突いてにやにや笑っている。

「別に、ヴィクトリアを怒らせるようなことは何もなかったよなぁ?」
 コリコパットは、傍らの黄色い猫に同意を求めた。
黄色い猫は、そうだね、と相槌を打ったが、相変わらずじっとりとミストフェリーズを見つめる。

「それに、女の子を泣かせたからって、どうして褒められるんだ?
 マンカスにばれたら、めちゃくちゃ叱られるぞ」

「分からなくもないけどな」
黄色い猫は、暗く呟く。
「だって、好きなやつを泣かせるのって、面白いよ」
まるでそんな経験があるように、黄色い猫はうっとりと遠い目をした。

「そうかぁ?
好きだから苛めるなんて、子供じみてないか?
そりゃ、自分のためにそこまで感情を動かしてくれたら、嬉しいのかもしんないけど、どうせ同じことなら喜ばせたいよな。
それができるのが、おとなの雄なんじゃねぇの?」

タガーは、子供っぽい恋愛論に少しも耳を貸さず、じっとミストフェリーズだけを見つめていた。

黄色い猫の陰鬱な声が、地面から這い上がるようにミストの耳に届いた。

「いっぺんでも、好きな雌にぽろぽろ泣きながら睨まれることがあったら、コリコだって俺の言うことが正しいと分かるよ」

黄色い猫は、何かを思い出すように遠くへ視線を投げていた。瞑目してそれを断ち切る。急に大きく伸びをすると、唐突に別れを告げた。
「俺、ねぐらに帰る。じゃあな」

いそいそと走り去る黄色い猫を見送りながら、ミストは思う。

―――あんな調子じゃ、絶対にヴィクとはうまくいかないよ。

まだコリコパットのほうが、黄色い猫よりはおとなだ。

「俺も、そろそろ今日の『お仕事』しとかないと、喰いっぱぐれる。じゃな、ミスト」
「コリコ!僕も手伝うよ」
「いいって。せっかくタガーもいるんだし。俺とはまた明日会えるだろ。狩りはそん時にでも、付き合ってもらうよ」

コリコもそう残して、自分のテリトリーへ風のように駆けだした。彼から見れば、ずいぶん年長の猫であるタガーに、遠慮したのだろう。

いつもどこに居るのか。コリコパットは、滅多にタガーを見かけることがない。集会にさえ、彼が現れるのはまれだ。
コリコパットにとってタガーは、年齢のかけ離れた雄猫で、「ミストの友達」だった。
 
―――ひさしぶりに会っただろうから、いつも一緒にいる俺は遠慮するかぁ。

そんなふうに考えているのだろう。
本当に、コリコは明るくて気が強いから気付かれにくいが、けっこうひとに気を使うタイプだった。
 
「で、あんたはいったい、何の用なんだよ」
ミストフェリーズは憮然としながらタガーに問いかけた。

「べつにぃ? ただ、お前に挨拶しに来ただけだぜ」
「さんざん街ですれ違っただろ。それなのに、今日だけわざわざ、面と向かって挨拶してくださるなんて、一体何の御用ですか、…って聞いてるんだ」
 
タガーは大笑いした。
「なんだ、気付いてたのか」

「こそこそ逃げまわってくれれば、こっちも視界にいれずに済んだんだけどな」
「気付いてて、それでお前も俺を無視してたわけか。
やっぱ、お前はいいよ」
タガーは心底嬉しそうに、ミストの頭を掴んで、自分の胸に引き寄せた。長い鬣を鼻に押し付けられて、ミストは呼吸困難に陥る。
タガーの手は、遠慮を持ちあわせていなかった。

彼の悪癖は、ミストの耳にも届いている。

タガーは初対面の猫でも、気に入れば溺愛する。構いまくって褒めちぎる。
そのかわり、飽きるのは早い。

「あんたの気まぐれにつき合わされるのは、まっぴらなんだよ」
簡単に言えば、気分屋だ。

ミストは濡れた鼻や舌に張り付いたタガーの長毛を、両手で擦り取りながら文句を並べる。

タガーは、自分のしたいようにしかしない。
相手と自分の距離感や、関係性を、維持する気がない。努力するつもりが毛頭ない。
お子様第三号だった。

今のタガーの、第一のお気に入りはなんといってもミストだったが、ミストはそれに振り回されるのはごめんだった。

―――こんなやつに、弱みをみせたなんて、うかつだった。

長老をとりもどすように、ミストをけしかけたのはタガーだった。




『そんなことできるわけない!! 僕に、そんな力はないよ…!』

うろたえるミストフェリーズを、ジャンクヤードの大広間に引っ張り出し、タガーはゴーサインを出した。
『さあ、やれ!』

大勢の猫の視線が、ミストフェリーズの小柄な黒い体躯に集まる。
ジェリクルムーンの丸い輝きが瞳に映りこんでいた。まるで、小さな対の月が、いくつもいくつも生まれたようだった。

ミストフェリーズの手にすべての輝きが集まる。
いくら聖なる力といっても、大きすぎて、黒猫の小さな手には余るほどだった。

暴れまわるドラゴンを押さえつけるように、ミストフェリーズは光を制御する。オールデュトロノミーの優しい瞳を思い描いて、マキャヴィティの虚空のなかから、彼を掬い上げる。

確かに手ごたえがあった。

ミストフェリーズは、赤いベルベットを胸に抱えながら、動くことが出来ずにいた。
光の力が駆け抜けていった身体は、まるで穴が空いたようだった。

消えてなくなってしまいそうだった。

動けない。

手にした力の巨大さを恐れて、それがもたらした結果に怯えるミストに、タガーの声が振り返る勇気を与える。そのとき、ミストはタガーを頼った。





「あんたも、ようやく僕に飽きたと思ったのに、いったい何なんだ?」
「俺はな、一度好きになったもんはけっこう変わらず愛し続けるたちなんだよ。俺のほうから嫌いになったりはしねぇ」
ミストの怪訝な瞳には、それは何の冗談だ、と書いてあった。
タガーは説明してやる。

「俺のほうは変わらずアイしてるんだぜ。
だけど、ちょっとひとりになりたい気分のときに限って、やれ会いたいだの、傍にいたいだの、いつもと違うだの付きまとわれるのがうぜぇんだよ。
それで冷める。
そんなことさえなきゃ、俺は一途に友情を保つ」

「要するに……あんたの都合のいいときだけ、一緒に遊べと、そういうことか」
「俺と、お前の気が向いたときだ。
俺は別に、お前がひとりになりたきゃ、尊重する」

「あんた、勝手なんだよ」

ミストはそそけだつような冷たい視線を当てたが、タガーには効かなかった。カミナリのひとつも落さなければ、彼にはこたえないのだろう。

タガーは細い眉を跳ね上げた。
「なんでだよ。嫌ならつきあうなよ」
 
ミストはため息をついた。
一番問題なのは、このおっさんをミストが決して嫌いではないということだった。

タガーは気さくで、年長者ぶるところがないくせに、時々はっとするほど「おとな」だった。長老を取り戻せたのは、半分以上タガーのおかげだった…。
知識も経験も、ミストとは桁違いだ。
派手な見かけも、雌に大もてな所も、実をいうと羨ましくもなくもない。

わがままなところが、また面白い。
自分の考え付かないことを考えている。

タガーは面白い。

「いいよ。コリコも帰っちゃったし、今日は僕もヒマになった。
遊んでやるよ」
他のおとな、たとえばランパスにこんな口を利いたら、どんなおしおきをされるかわからない。マンカスに言えば、悲しそうな顔で礼儀を説かれるだろう。

タガーは気にしない。
今年生まれたばかりのミストにつけつけ言われても、それが当然だという態度をとる。

おとなに対等あつかいされるのは、少年であるミストにとって、とても誇らしいことだった。他の猫のことを言えない。ミストも充分、おとなになりたがりのお子様猫第四号だった。ミストはたまに、タガーのように自由になれたらとさえ、考えた。

なわばりにも街にも縛られず、命も枷にならない。

いつ死んでもいいというのは、決して美しい心ざしではなかったけれど、タガーの覚悟が透けて見えるとき、ミストはいつもそれを羨ましいと思った。

自分にはできない。

大切な家がある。友達とずっと仲良くしたい。
命とひきかえて自由だけを愛せるほど、所有欲も薄くない。

けれど、だからこそ。

ヴィクトリアは、タガーを捕まえられないだろう。
彼女の失恋に、ミストはかすかに心を痛めた。




「僕も、あんたがそっけなかったときに、煩く纏わりつけばよかったのかな」
すこし後悔してみる。
そうしたら、こんな面倒な友情は終わりにできたのに。

「今度やってみろよ」
タガーは、ミストの背中を叩いて急かした。続けて言う。
「ただし、それで俺が今以上にお前のことを気に入ったとしても、そりゃぁ自業自得だけどな」

タガーの行きたい場所へ連れて行かれながら、ミストは呟いた。
―――それだけはごめんだ。





 ヴィクトリアの毛並みのように白かった雲が、ばら色に染められて行く。黄昏時を、二匹の猫は跳ねるように駆け抜けていった。
 






『空』
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2006.09.29