* * *
ときは流れて。
アルスバルトは、ちょうど秋を迎えた所だった。
実りの季節の訪れを祝し、どの街もお祭り騒ぎのように活気であふれていた。
なかでも、王都であるトルアロンでは、いつもより多くの荷馬車や行商人が訪れており、常に客寄せの声がそこかしこと響いていた。そんな城下の賑わいをよそに、執務室ではペンを走らせる音と、淡々とした報告の声しかしない。
アルスバルトの王であるシュルドと、その補佐を勤める宰相のクロンドだ。
二人は、国内すべての街や村からの収穫状況や、税金の収集具合、新しい制度やその他色々を処理し、各官僚や部署に振り分ける作業をしていた。
「陛下、今年は果実類がおおむね豊作だと報告がとどいております」
「他には?」
「そうですね。穀物も上質な物が採れているようですし。ああ、岩風見鶏の卵が例年より少ないみたいですね」
「あの卵、美味いのになあ」
「どうやら山間部での降雨が、例年に比べ少ないようで、餌になる植物や昆虫が減少した事が原因かと思われますね」
「そうなると、今年は卵の乱獲を防がなければなあ。対策はあるか?」
「岩風見鶏の生息域付近に、入山規制を設ける予定です」
次々と挙がる報告に、シュルドは書類にサインをしながら時々相槌を挟んだり、意見を述べたりしていた。
そんな彼の手が、不意に空を切った。どうやら未処理の書類は手元のもので最後だったようだ。
「お、終わったー!」
大きく伸びをし、シュルドは椅子にもたれかかった。
よほど集中していたのか、彼の最大の特徴であるウサギの耳が、若干気が抜けて少し寝ている。それを見ると、クロンドは少し乱雑に積まれた書類をまとめ、簡単に目を通した。
微細な漏れ以外に不備がない事を確認すると、彼はそれを目的別の用具箱の中に仕舞い込んだ。
「今日の分はコレで終わりです。そうしましたら、二軍議会の準備を。今回は陛下が参加されると伝えましたら、ベリドラッド卿が大喜びしていたそうですよ」
「近衛の隊長か……あの人ちょっと苦手なんだよな」
少し言い辛そうに呟くシュルドに、クロンドは軽く咳払いをする。
同時に、執務室の扉が叩かれた。
クロンドが応対に向かうと、シュルドは大きく伸びをして窓の外を眺めた。
秋晴れの、澄んだ青が目に入る。
空を流れる雲を目で追っていると、クロンドが近づいてきた。
「陛下。セルヴァンスより、ロエル国王が崩御されたとの報告が」
「あそこの王様、ついに亡くなったかぁ」
「八十を超えての現役国王でしたからね。大往生だったそうですよ」
「そうか」
手紙を眺めながらクロンドが告げると、シュルドが感嘆の息をこぼした。
「あれ、でもあの国の王子は確か……」
「ええ、今年で十七になると聞いておりますが」
「まだ、若いんだな」
ほんの少し、表情を曇らせたシュルドに、クロンドはそれを見ないよう黙って手紙を読み進めた。そして、送り出しの儀と戴冠式の日取りを確認すると、クロンドはシュルドに声をかけた。
「陛下。戴冠式はひと月後、十一の月第二週目の紫色の日です。それまでに公務と移動の準備を進めますので、そのつもりでお願いします」
「準備?」
「そうです。あちらはすでに初冬に入りました。山道が続きますし、なにより雪山を越えなければいけません。厚手の靴や服の用意を始めないと」
「もう雪が降っているのか?」
「報告はまだですが、時期的にそろそろ振り出す頃合かと」
「雪か」
アルスバルトでは、王都近辺で雪は降らない。
北側の山沿い、それも極一部地域でしか見られないのだ。彼自身、実際に見たのは、幼馴染にねだって雪の降り積もる山に連れて行ってもらった時だけだ。その時のことを思い出し、シュルドは少しだけ目を輝かせた。
だが、すぐさまクロンドは一息に告げた。
「陛下、先に言っておきます。あちらの城に着くまでは、宿場以外で馬車を降りる事は出来ませんよ」
「なんだと!」
「道中は危険です。あそこは賊がよく出る道です。うかつに外に出て、命を落とす可能性」
「だったら、誰かと一緒にいれば」
「誰か、とは誰ですか」
「ろ、ロマとか」
一瞬の間の後、シュルドは幼馴染の名を出した。
もちろんクロンドも、彼が誰の名を出すのかは、質問した時点で想像がついていた。だからこそ余計に、クロンドは肩を落として溜息をついた。
「陛下。そう毎回毎回彼を頼る癖、何とかならないのですか」
「だが、ロマがいればたとえ狙われていても、すぐにやっつけてくれるだろ?」
「確かに彼は、我々と縁が深い方です。だからこそ、彼一人を贔屓するのは良くありません」
シュルドが言葉に詰まった所で、クロンドは畳み掛けるように続けた。
「何のために近衛がいるのか、何のために騎士団が存在するのか、何のために協会があるのか。この意味を理解してください」
彼の迫力に気圧され、シュルドは悔しそうに唇を噛み締めた。
そのまま痛いほどの沈黙が続く。
そんな中、再び部屋の扉が叩かれた。
応対したクロンドは、書状を持った若者に二言三言伝えると、シュルドの方に向き直った。
「陛下、お時間だそうです」
「ああ」
シュルドは短くそう答えると、彼の顔を見ることなく、始終俯いたままで執務室を後にした。そんな王の姿を見送ったクロンドは、先ほどまで彼が仕事をしていた机に向かった。
乱雑ではあったが、ある程度まとめられた資料や書類に目を通しつつ、再度セルヴァンスからの書状を眺めた。
その時、コンコンと小気味良い音を立て、執務室の扉が叩かれた。
「どうぞ」
「やあクロンド、久しぶり。ずいぶん宰相っぽい顔つきになったじゃない」
「――……ロマか」
書類をまとめながら声をかけると、よく見知った顔が入ってきた。
それは、先ほどまでシュルドが頼りになると豪語していた人物。魔術使用者協会の若き長、ロマ=ウェンデルだ。
立場的には下の彼が、なぜ気さくに話しかけているかというと、彼らは幼馴染で、さらに言えば二人の家がそれぞれ本家と分家の関係になるため、親戚なのだ。
旧知の仲と言う事で、クロンドの表情も少し和らいだものになった。
「元気そうでなによりだな。相変わらず本家の人間はお前の宮仕えを諦めていないようだがな」
「あー、何度も断ってるのにねえ。うち、弟二人居るし、叔父さんも色々手を出してるから、人材には事欠かないのに」
事実、ロマには弟が二人、妹が一人居る。
父方、母方の親戚も共に健在だ。
すでに絶縁になったロマを除いても、家督を争うにも、宮仕えをするにも十分な人数が居る。
だが、若くして全ての魔術師達を束ねる協会長を務める手腕と、さまざまな事を兼業で行える器用さを、彼の家が黙ってみている事はなかった。
何かあるたびに、何とかロマに権威を復活させ、城でその腕を存分に振るえるようにと、何度もクロンド他、大臣達に打診していた。
結果は、目に見えて明らかだったが。
「まあお前が城仕えになれば、陛下は喜んで仕事をするだろうな」
「文書の丸写しできる相手がいるからね。すぐばれて怒られてたのに、懲りないんだから」
「まったく。あの方を甘やかしすぎるから、ああなったんだ」
「そうだね。それはちょっと誤算だったなあ」
ふっ、と目を細めて小さく笑うと、ロマは当初の目的を思い出した。
「あ、そういえばシュルドは? 姿が見えないようだけど」
「陛下は今、軍事会議に出席している」
「あれ、珍しい。ああいう堅苦しい場所大嫌いだったのに」
「最近やっと、そういうことに関心を持ってきたようでな。怪我の功名といった所か」
今度はクロンドが溜息と共に小さく笑った。
同時に、大きな音を立てて扉が開いた。
「クロンド。スエンがな、今度の戴冠式の打ち合わせに――ってロマ、来てたのか!」
一瞬驚きで目を丸くしたシュルドは、すぐに満面の笑みを浮かべた。
そんな彼に、ロマも楽しそうに笑った。
「やあシュルド、久しぶり。元気そうだね」
「そんなの当たり前だろ! それより、どうしたんだ。協会で何かあったのか?」
少し期待の意味が込められた視線に苦笑しつつ、ロマは懐から小振りの箱を差し出した。
「はい。調整に時間がかかったけど」
「やっと出来たのか!」
嬉しそうに箱を受け取ったシュルドは、さっそくその蓋を外した。
中には、綺麗に磨かれた、赤子の拳くらいの大きさの丸い赤石に、皮を縄状に編んだ紐を通しただけのシンプルなペンダントが入っていた。
「一応、クロンドの言葉を尊重して、本当に簡単な物にしたけどこれでいいかな」
「ああ、十分だ」
依頼どおりの仕上がりに、クロンドは満足そうに頷くが、シュルドは少し不満そうにそれを手に取った。
「もう少し、派手でもよくないか?」
「陛下。あくまで貴方の耳の力の抑制をするための物なのですから、余計な物をつけてどうするんですか」
「見栄えは大事ではないか」
「作るこっちは、この方が楽でいいけどね」
そう言って苦笑したロマに、シュルドは渋々ながらも、ペンダントを首にかけた。
そして、最大限まで耳に力を集中させてみる。
拾える声の範囲が、かなり狭まったことを確認すると、一気に力を抜いた。
その時、息も同時に止めていたのか、若干呼吸が荒い。
「違和感とかある?」
「大丈夫だ――今日からコレを下げていれば、もう、大丈夫なんだな」
シュルドが少し悲しげに目を伏せると、ロマとクロンドは互いに顔を見合わせ、神妙な顔つきで少し唇を噛む。
本来このペンダントは、ロマが先代国王、ゼナ=ジルドラ=アルスバルツに頼まれていたものだった。
だが、着工に取り掛かったところで彼が亡くなり、一度白紙に戻ったのだ。それから、何だかんだと色々な騒動があった為、ロマ自身もすっかり忘れていた。その後、魔術師が頻繁に城内をうろつく事を快く思わない臣下からの進言により、クロンドが彼に再度依頼をしたのだ。
「本当に、ここ最近急激に物騒な事が増えたな」
「そうだね。前もって防げるような物は、私とユラで潰しているんだけど、突発的な物はどうしようもないしなあ」
「前回みたく、内側から崩されるといかに弱体化するかが露呈したしな」
二人が重々しい空気で溜息をつく中、シュルドは居心地悪そうに何かを言いかけては止めていた。
最初にそれに気付いたのは、ロマだった。
「何、シュルド。どうかしたの?」
「あ、いや……うん。何か、すまないな。いつも……」
「そうですよ。暇だからといって、国家を揺るがすイタズラしかけてる場合じゃないんですよ」
「そうじゃなくて! 私が王でいいのか? 本当は、クロンドとかロマがなった方がいいんじゃないか?」
それは、彼が幼馴染として初めてこぼす本音だった。
正直、それは城内でたびたび噂される話ではあった。
王家を呪いだけで支えるのは、そろそろ限界が来ているのではないか。
他にもっと最適な人材がいるのに、なぜあれを王に据え置くのか。
時々そんなことを話す臣下が居るのを、シュルドも知っている。彼が意図しなくとも、勝手に耳に入ってくるのだ。
気にしないようにしても、まるで言葉が追いかけてくるような錯覚すら覚える。
正直、民の多くはそんな事を考えもしない。
適正な政治を行う者なら、誰が上につこうが気にすることはないのだ。落ち込むシュルドの肩を、ロマが軽く叩いた。
「あのね、シュルドは胸はってて良いんだよ。その背中は、私とクロンドで守るから。シュルドは、剣と盾と杖を持って、ふるって、堂々としていればいい」
そう言って、彼は笑った。ロマの視線が思いのほか真剣で、シュルドは少し気圧され、息をのんだ。
「――わかった」
まだぎこちないながらも、彼は口角を上げて笑って見せる。それを見て、クロンドは安堵したように息をつき、ロマは満足したように、二人に背を向けて執務室を後にした。
それは、執務室をでて数歩の所で起きた。
「おや、ロマ=ウェンデル卿ではないか」
すでに呼ばれる事のない敬称を使われ、ロマが怪訝な表情で振り返ると、恰幅の良い男が立っていた。
仕立ての良い、それでいて無駄な飾りの多い服を着たその姿を見て、つい最近羽振りのよくなった豪商か貴族の家人かと頭の中で予想を立てる。
生憎見知った顔では無いが、そんな事も慣れっこなので、ロマは得意の作り笑顔で応対した。
「何か御用ですか?」
「いやいや、卿の姿をここで見る事は中々無いのでな、ついつい声をかけてしまったよ」
快活に笑う男の声が、今のロマには若干耳障りに聞こえた。そこに含まれる真意に、気付いていたからだ。
一応伏せてはいるのだが、家柄ゆえに未だに時々父親への顔繋ぎを頼まれることがある。
基本は受け流すか、用件しだいでは取り次いでいる。
今回は日取りが悪かったと言う事で引き取ってもらおう。今日もまた、そんな風に考えていた。
「父への顔繋ぎでしたら、私より他のものに頼んだ方が確実ですよ」
「いや、今日はウェンデル卿、貴方にお話があるんだ。まあ、これはもらい物だが受け取ってくれ」
そう言って男に差し出されたのは、何枚かの紙切れだった。
よく見れば、それは国立劇場で行われる演劇のチケットで、演目はちょうど彼の太い指に隠され見えなかったが、このような場で出してくるものだ。よほど人気のあるものなのだろう。
「これはご丁寧に。家族の者に渡しておきますよ」
「そうかそうか。実はこれにね、私の娘が出るんだよ。だから特別に良い席が取れてねえ。喜んでもらえたようで何よりだ」
ロマがチケットを受け取った事で、気をよくした男は、下卑た笑みを浮かべ、顔を寄せた。
「ところで……卿は今より上の地位を目指さないのかね?」
思わず、チケットを握り締める手に力が篭った。
平静を装う顔も、僅かに口元が引きつっている。
だが、ロマは心の内を明かさぬよう、慎重に言葉を返した。
「一体、何のことですか?」
「そのままだよ。家柄、実力、民の信頼。全て兼ねそろえている卿が、一協会の長で終わるなんて勿体無い! そう、私は考えたんだよ」
「そうですか」
熱を振るう男に対し、ロマは一線引いた状態で答えた。
こんな話は今までも時々あった。
だが、大体は彼に王位を薦め、助力をした者として特別に引き立てられる事を期待しての、皮算用もいい所の話ばかりだった。
そしてこの男も甘い汁だけを吸いたいだけのようで、しきりにロマの長所を上げ、必死に持ち上げてくる。
あからさま過ぎるのに気付かれていないと思っている彼が、とても滑稽に思えた。
「そこでだ。今度の定例会議で、ぜひ卿の事を押そうと思うんだが……どうだね」
「私にシュルドを、陛下を裏切れと?」
「あの愚鈍な王ではなく、王の器にふさわしい人物が王座につく。それが自然の流れだ」
「だとしても。なぜその話を、僕に、持ってきたんですか?」
口調の変化に、男は眉をひそめつつも更に言い募った。
「ウェンデル卿、私は貴方の本当の身分を知っている」
瞬間、ロマの表情が凍った。
それを見て、男はニヤリと笑いながら口を開こうとした。
「おい、そこで何をしてる!」
まるで弾かれたように、二人は声のした方へ振り返った。
そこには、いかにも不機嫌ですと顔を歪めた壮年の男性が腕を組んでたたずんでいた。
それを確認した途端、血相を変えて男は逃げ出していった。
その姿が見えなくなった事に、内心安堵したロマは、改めて男性の方に向き直った。
「やあ、近衛隊隊長のグリンド殿じゃないですか」
「ふん、やはり貴様かロマ=ウェンデル。いけ好かない後姿が見えたから何をしていると思えば……」
「いえ、私も貴方に出くわす前に帰ろうかと思ったんですが、ちょっとたちの悪いのに絡まれまして。まあ、おかげで助かったんですけどね」
実際問題、グリンドが来なければ、今もきっと延々と、どうでも良い話を聞かされていたと思うと、たとえ反りの合わない相手であろうと感謝してしまう。
しかも内容が内容なだけに、下手をすればロマ自身も巻き込まれた事を考えると、本当に彼のタイミングは丁度よかった。
「そうかそうか私のおかげか。ならばもういいだろう、即刻城内から退去願おうか」
「嫌ですね、そんな邪険にしないでくださいよ」
「貴様がもう少し慎みと、礼節を持って接してさえくれればなんて事はないだがな。あとついでだ。貴様の所のもう一人のハイマスター、アイツの躾はしっかりしとけ」
「そんな、あの子は犬猫じゃないんですから、ちゃんと分別も節度もわきまえていますよ?」
「だったら、私に対しての態度にも礼節、分別を持つように伝えておけ! 分かったな!」
取り敢えず、言いたい事を言い切ったグリンドは、肩を怒らせながら元来た道を戻っていった。
その背中を、苦笑しながら見送ったロマは、ふとあることを思い出した。
「あれ、そういえば……もう戻ってきてもいい頃合なんだけどなあ、ユラ」