「母屋の北側の棟は用人や若党らが使います。三郎ぎみのお供の方々は、客間に近い東のお長屋をお使いください」
引っ越しについてきた惣一郎の小姓、竹弥に案内されながら、源蔵たち供回り一行は磨きぬかれた渡り廊下を進んだ。
「な、なんだか立派なお庭ですね…」
「うむ、夢のような景色じゃな…」
先々代藩主の作った中屋敷は庭が自慢だった。御三家の庭園にも比肩するといわれ、上屋敷よりもさらに優美な赴きだ。冬場のことゆえ百花繚乱とはいかぬものの、池はもちろん流水を巧みに引き込んだ庭に、深紅の椿や咲き始めの白梅紅梅が色を添えている。風除けをした一角には、藁囲いで被った色とりどりの冬牡丹。延石の隙間からは、可憐な福寿草が顔をのぞかせている。
あまり風雅を解さぬ源蔵や倫太郎たちからも思わず溜息が洩れた。
『ほーほけっ…』
「お、今のは鶯か?」
源蔵が耳をそばだてると、
「さよう。まだ鳴き始めゆえ、下手くそにござる」
竹弥が形のよい顎を少し持ち上げて微笑んだ。
倫太郎が思わず見蕩れているのを、源蔵がめざとく見つけた。
「竹弥殿もしばらくこちらに御滞在か?」
源蔵は横目でちらりと倫太郎を見ながら尋ねた。
「いえ、私は本日皆様を案内するお役目でして…。夕方には藩邸へ戻ります。こちらには平岡仙之丞が用人として留まりますので、何かございましたら遠慮なくお申し付けくださりませ」
さすが将来のエリート予備軍といわれるお小姓。
たかが源蔵相手でも竹弥の応対は丁寧なものだった。
「さようか。寂しくなりまするな。のう、倫太郎」
源蔵はにやにやしながら、肘で隣の倫太郎をこづいた。
一瞬の間があったのち、
「い、いかにも」
『宗道館』の麒麟児とよばれた若武者、倫太郎の頬が朱に染まった。
竹弥が倫太郎のほうを向き、
「また、藩邸よりお使いで参りますゆえ…」
切れ長の瞳で優しく微笑んだ。
まともに目があい、倫太郎の喉が鳴った。
「これきりではござりませぬ」
竹弥の桜色の唇が柔らかく綻び、貝のような白い歯がのぞいた。
硬直する倫太郎の横で、これは春まで退屈せぬわいと、源蔵が喉を鳴らして笑った。
*
中屋敷の客間は賓客をもてなすことも想定したのか、屋敷の中でも一番陽当たりと眺めの良い部屋であった。渡り廊下で母屋と結ばれており、惣一郎が以前居室として使っていたのは母屋のほうだった。三郎は今回、客間を居室として使うことになり、誠之進も同じ一角に部屋を与えられた。他の近習たちは適当に別れて東のお長屋へ入った。
誠之進が三郎の部屋で荷物を整理していると、
「誠之進…」
三郎が隣にやってきて、すとんと腰を降ろした。
「なんでござりますか?」
三郎は声を潜めて尋ねた。
「兄上の近習たちは…もしや我らのことを存じておるのか?」
誠之進は手を止め、
「はて…」
と、とぼけた。
惣一郎の近習どころか、堀田又座右衛門ら重臣のほとんどが知っているだろう。
「そなた…何か感じぬか?」
「私は…べつに」
「何やら…その、気をつかわれているように思えてならぬのだ」
肩を丸め小声で呟く三郎だった。
確かにこの部屋割り、夜はふたりで心ゆくまで…といわんばかりである。
「ならば皆の親切、ありがたく頂戴いたしましょう」
「誠之進!」
慌てる三郎がおかしくて、誠之進は朗らかな笑い声をたてた。
どうせばれているのなら、今さら取り繕っても仕方あるまいと、もはや誠之進はさばさばしたものだった。
(昔、吉原で遊びまくった惣一郎様のこと…。色恋には寛大なはずじゃ)
誠之進は改めて三郎と向き合った。
わずかふた月ほどの間に、三郎はまた一段と大人びた眼差しになった。
信輝公が急死してから今日まで、兄の惣一郎が庇ってくれたとはいえ、三郎は宝寿院に遠慮し、息をつめて暮らしてきたに違いない。これが真冬でなければ、信輝公の四十九日の法要の後、すぐにも国許へ帰っていただろう。
なれど三郎は誠之進に愚痴ひとつ言わず、己の内面と向き合うかのごとく、静かに日々を送ってきた。兄・惣一郎が新たな藩主となり父がこの世を去った今、分家は許されたとはいえ、この先の自分の立場、身の振り方を深く考えているのだろう。
誠之進は誠之進で、信輝公の遺言を真摯に受け止めていた。
信輝公の遺言状により、誠之進は次の筆頭家老に任じられた。江戸藩邸の主だった家臣の前で発表されたのだ。今頃は国許にもご遺言状の写しが送られているはず。新藩主・惣一郎が強硬に異を唱えぬ限り、この人事は決まったものと考えてよい。
父が隠居し自分が溝口家の当主ともなれば一一。
三郎と誠之進はもはやひとつ屋根の下では暮らせない。
「誠之進」
「若…」
誠之進は一度は父・主膳に自分の廃嫡を願い出て、弟・慶次郎に家督を譲ろうとした。されど今は信輝公のご遺言に従い、国家老の役目を果たそうと決意していた。常住坐臥三郎に仕えることはできないが、どのみち三郎も分家して城下に屋敷を構えるのだ。会えなくなるわけではない。時折お互いの屋敷を訪れ、ふたりで夜を過ごすこともできるだろう。
西の丸の暮らしが終わりを告げても、三郎と自分はいついつまでも一一。
「誠之進…」
隣に座った三郎が、ぴたりと肩を寄せてきた。
誠之進は三郎の肩を抱いて、そっとこめかみに口づけた。
もう片方の手でゆっくりと前髪を梳いてやる。
三郎の前髪姿もあとわずか。
早ければこの正月にも元服かと思うていたが、信輝公のご逝去でまた少し先へ延びた。そのことを内心喜んでいる自分に誠之進は微苦笑を浮かべる。
「のう誠之進…」
大人しく誠之進に髪を梳かれながら、三郎が控えめに呟いた。
「…そなたが家老職をつぐとき」
何を言い出すのかと誠之進は訝ったが、
「後任を決めねばならぬな」
そ、それは、私の後釜探しでござりますか?!
「三郎ぎみ…っ」
思わず声がひっくりかえった誠之進を
「そなた、何を慌てておる?」
三郎が下から怪訝そうに見上げた。
「いえ、慌ててなどは…」
「わが屋敷の用人の話しぞ」
「はっ……」
三郎の肩を抱いたまま、誠之進は思わずかしこまった。人目を気にせずにすむ環境ができた途端、思考が邪なほうへ流れてしまっていた。
三郎はふたたび誠之進の肩に頭をもたせかけ、
「…松之助に来てはもらえぬだろうか?」
「なるほど」
誠之進は大きくうなずいた。
確かに筧松之助なら適任だ。松之助は三郎たちの年代では一の秀才と言われているが、幸か不幸か次男である。筧家の家督と勘定方の役目は嫡男の真之介が立派についでいる。松之助は部屋住みなので、三郎が召し出しても一向に差し支えなかろう。
(用人としてはちと若すぎる気もするが…。なに、松之助ほどの頭の良い者なら、うちの生島(溝口家用人)にでも指南させれば、すぐに仕事を覚えるだろう。補佐として年輩の心きいたものを付けてもよし…)
誠之進は三郎の目を見て、
「よいお考えかと存じますが」
しかとうなずいた。
三郎の頬に安心したような笑みが広がる。
三郎はふたたび誠之進の肩口に頬を押しあてた。
「誠之進…」
「なんでござりますか?」
誠之進は深い声でよびかけ、三郎の背に回した両腕にそっと力をこめた。
「宝寿院様にはなかなか好いてもらえぬかもしれぬが…」
「三郎ぎみ」
「父上亡きあとも、源蔵にお福、倫太郎…。私を支えてくれるものは沢山おる」
「…さようにござりますな」
「主膳も山崎の爺も藤十郎(堀隼人丞)もおる…」
「はい」
「そして兄上もっ」
三郎は誠之進を仰ぎ見ると、
「だから私のことは案ずるな」
「若…」
「そなたと一緒には暮らせぬようになっても一一」
そう言葉にした瞬間、三郎の玻璃玉のような瞳があっと言う間に潤んだ。
(無理をして…)
「わかっておりまする」
誠之進は三郎の額に口づけた。
「誠之進…っ」
「屋敷は別々になろうと、こころは決して離れませぬ」
誠之進もまた、三郎のいじらしさに瞳を熱く潤ませた。
目と目を見交わす。
視線が絡み合った途端、三郎の双眸がえもいわれぬ艶を帯びた。
それを合図に誠之進は三郎の背を片手で支えながら、ゆっくりと畳の上に横たえた。三郎の両腕が上がり誠之進の首に絡み付いた。うぐいす色の小袖から三郎のしなやかな腕がのぞく。誠之進は露になった二の腕の内側に思わず唇を押しあてた。
甘咬みするようにゆっくりと肘から腕の付け根に這い登れば、三郎がうっとりと目を閉じた。次第に浅い息使いとなり、睫が時折微かに震えた。誠之進は半身を三郎の上にのりあげ、今度は甘く吐息を絡ませながら口を吸いあう。三郎の両手も誠之進の首から離れ、肩や背を狂おしくまさぐった
思えば江戸へ来て以来、やはり上屋敷では周りの目が気になり、滅多なことはできなかった。無論、信輝公がお亡くなりになった直後はそれどころではなかったが、誠之進も、そして三郎も、そっと手を握りあうだけでは飽き足らない、お互いの肌身が恋しい時期に来ていた。
ふたりで分け合う快楽を、身体が思い出してしまう。
急激に熱を持った下腹に誠之進が眉をしかめると、
「誠之進…」
三郎が胸を浅く上下させながら、掠れた声で呟いた。
「奥の間へ…連れてゆけ」
「若っ…」
それでもためらいの残る誠之進に、
「はよう…っ」
潤んだ黒目がちの瞳が懇願した。
(…かないませぬな、若には)
まだ陽が高いのが憚られたが、誠之進も昂った身体を鎮めるのは難しかった。
(とても夜までは…待てぬ)
「御意」
誠之進は柔らかく微笑んで一礼すると、三郎をすくいあげるように抱き上げ、座敷から奥の寝所へと向った。
いくら近習が皆、長屋で休息中とはいえ…。
真ッ昼間から大胆なことをしてしまったと、誠之進は今さらながら溜息をついた。
午後遅く、竹弥が上屋敷へ戻ると挨拶にきた。三郎と誠之進は情事のあとの浅いまどろみから覚め、ようやく身支度を整えたところだった。
(間一髪であったな…)
誠之進も三郎も冷や汗ものであった。
「では三郎ぎみ、私はそろそろ藩邸のほうに戻らせていただきます」
三郎は同年代の竹弥にむかい、
「うむ。大儀じゃ」
精一杯の威厳をつくった。
竹弥は整った細面の顔に、意外にも人なつこい笑みを浮かべ、
「何かお入り用のものがございましたら、平岡に遠慮のうお申し付けくださりませ」
「あいわかった」
大きくうなずく三郎。
脇に控えた誠之進も、
「竹弥殿、本日はご苦労であった」
背筋をぴしりと伸ばし、年若い小姓をねぎらった。
「では私はこれにて」
竹弥がふたりに一礼して立ち上がると、
『ほー、ほけきょ』
ふいを突いたように、鶯の声が座敷の中にまで届いた。
『ほーほけきょ、けきょけきょけきょ…』
竹弥は廊下へ出る手前で、
「おや…ようやく心ゆくまで鳴いておりますな」
ちらりと肩ごしに誠之進を振り返った。
切れ長の眸がいたずらっぽく光る。
「では、どうぞごゆるりと」
竹弥は誠之進に艶冶な笑みを向けると、あとは二度と振り返らず廊下を歩み去っていった。
*
「誠之進…」
竹弥が去ったのち、上座の三郎が小首をかしげた。
「はい」
「鶯のことじゃな?」
「いかにも。鶯のことにござりますっ」
若もそれは良いお声で鳴かれましたとは、口がさけても言えぬ誠之進であった。
おわり
このページのどこかに、マトリョーシカ人形のごとく『おまけページ』が隠れています。