遡ること三月、明和四年霜月。
「右近様、昨日、板橋宿へ入られた模様にござります」
「なに…」
待ち焦がれていた朗報に、私の胸は高鳴った。
右近が、とうとう江戸へ戻ってきたのだ。
稚児小姓頭の仙之丞は報告をつづける。
「ただ…冬場の旅はこたえたのか、相当お疲れの御様子とのこと」
「左様か…」
「小者の話によると、『上総屋』という旅籠に、旅装を解かれたよしにござります」
「うむ」
「若殿、お迎えの駕篭を差し向けましょうか?」
仙之丞も敬愛する右近に早く会いたいのだろう。黒目がちの瞳が期待に輝いていた。私が諾というのを、当然のごとく待ち構えている。
「若殿?」
私は手にした扇を軽くもてあそびながら、思案にくれていた。仙之丞は気をきかせたつもりだろうが、私には私の考えがある。無論、内藤帯刀から右近が吟味役を辞したと知らせをうけて以来、右近との再会を一日千秋のおもいで待っていた。本音を言えば、迎えの駕篭を差し向けるどころか、今すぐにでも自分から会いに行きたい。
なれど、私にも主人(あるじ)としての意地がある。
右近は、己の意志で私の元へやってこなければならない。
板橋宿に入ったからといって、右近が私の元に戻るつもりで出府したのか、別の意図があってのことなのか…それを確かめぬうちは、こちらから動くわけにはいかなかった。
*
年の瀬も近付いたある日、留守居役の岩田善次郎が、思いがけぬ話をこっそり耳打ちしてきた。岩田は糸のような目を何やら嬉しそうに輝かせ、もみ手をせんばかりに切り出した。
『国許におわす三郎ぎみと守役の誠之進殿…どうやら抜き差しならぬ仲だそうですぞ…。学問、武芸だけでなく、若君に閨の指南までなさるとは…まったくもって呆れた守役にござりますなあ…。それとも、こう申しては何ですが、お生まれがお生まれだけに…守役殿をたらしこんだのは、三郎ぎみのほうでござりましょうか…』
話の内容には息を飲んだが、私は朋輩をおとしめるような、讒言をする輩は好かぬのだ。虫酸が走る。
『岩田…見てきたようなことを言いおって。おもしろ半分に無責任な噂を流せば、身供が承知せぬぞ。ましてや我が弟、三郎をも愚弄するなぞ、聞き捨てならぬ!』
『そ、惣一郎さま…』
私の反応が余程意外だったのか、岩田は一瞬にして青ざめ、唇を震わせていた。
母上はともかく、私には、一度も会ったこともない三郎を、疎んじる理由などさらさらない。
『…なんたる下衆な物言い、そのほうこそ、恥じを知るがよい』
母上に取り入っている岩田は、まさか私に叱責されるとは思わなかったのだろう。
『お、おゆるし下さりませっ』
岩田は畳に額をすりつけ、私の前にひれふした。当然、口先だけの謝罪である。
私はそれをも承知で、
『岩田、斯様な下劣な噂、江戸藩邸で広まるようなことがあれば…、そのほう、腹を切らねばならぬぞ』
『は、ははあっ!』
『わかったら、もういけ…下がれ』
冷然と岩田を退けた。
*
私は岩田のような、阿諛追従だけが取り柄の男は大嫌いだ。こんな男が留守居役とは父上がお気の毒でならぬが、留守居役という仕事、実は清濁あわせのむ器量が必要らしい。藩主が登城するときは『お先詰め』といって、万事ぬかりなく段取りを整えておかねばならぬゆえ、頭の回転が早く、気ばたらきのできる者がふさわしい。
だが同時に、普段、留守居役組合の付き合いがあり、これを上手にこなさねば、藩のため、十分な情報収集ができぬと聞いた。くだらぬ酒食、遊興の会合にも欠かさず出席し、先輩留守居役の機嫌をとらねばならぬらしい。おそらく岩田はそちらのほうの能力を買われて、留守居役添役となっていたところ、前留守居役の堀田の爺が勇退したのを機に、後釜に座ってしまったのだ。
岩田の話なぞこれくらいでよかろう。
真偽のほどはともかく、正直なところ、岩田の話は衝撃だった。
誠之進と三郎が割りない仲に…?
もしそれが真だとすれば、右近は…。
***
右近が江戸へ入ってから三月。浅草の滝川道場とやらに居着いてしまったらしい。とうとう待切れなくなった私は、己から右近の前に姿を見せた。見張りにつけていた小者から、右近が湯島まで来ていると報告を受け、私はいてもたってもいられず屋敷を飛び出した。仙之丞が慌てて頭巾を片手に追い掛けてきた。
もはや、主人の意地などどうでもよかった。右近が自分から戻ってこずとも、見つけ次第、有無を言わせず中屋敷にひっさらって帰るつもりであった。
板倉摂津守の屋敷近く、蕎麦屋の屋台に愛しい者の後ろ姿を見つけたとき、胸の奥から、何とも形容しがたい、熱いものがせりあがってきた。
蕎麦を食する時でさえ、すっきりと伸びた背筋。形のよい頭にしなやかな項。羽織りの下、少し…肩の肉が落ちたような気がする。
無理もない。吟味役の激務に加え、心が粉々にくだけ散るような目にあったのだからな…。
一歩一歩近付きながら、私はおもった。
何ゆえ、すぐに藩邸に顔を見せなんだ?
何ゆえ、素直に私の手にすがろうとしない?
もしや、私が室を迎えたゆえ、心変わりしたとでも思うてか?
だとすれば、家中一の俊才と呼ばれながら、そなた、何もわかっておらぬな…。
ならば今いちど、しかと教えてやろう…。
もう二度と迷うことのないよう、しかと…教えてやろう。
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