二の巻
「小鼓」2




by 戸田采女

 端午の節句の日。
夕闇が濃くなり始めた頃、上屋敷・奥の広間では燭台が皓々と灯され、宴の幕が上がった。

 緊迫感のある小気味よい鼓の音に乗り、高山藩主・結城惣一郎は母・宝寿院、正室・綾姫をはじめ、居並ぶ侍女や小姓たちを前に男舞を披露していた。

 男舞とは直面(ひためん:面なしのこと)で舞うテンポの速い舞のことで、通常は笛、小鼓、大鼓で演奏される。だが今宵の囃子は右近の小鼓のみ。

 惣一郎の見事な舞い姿もさることながら、端然と座し小鼓を打つ右近の姿に、部屋のあちこちから溜息が洩れた。

 凛とした美しい音色に誘われたか一一。
座敷にはあがれぬ身分の低い下女たちが、庭先からふたりの姿をひと目拝もうと必死だ。植え込みの背後に潜み座敷をうかがおうとするが、ひとり太めの者がいるらしく、ぽってりとした足下が茂みの下からはみ出ていた。

  今宵の殿はまことにご機嫌うるわしく…。
いつもながら、ほれぼれいたしますう。
しかしまあ、殿の舞と右近殿の小鼓とほれ、あのようにぴったりと一一。
寄り添って。
それはもう…ねえ。
『きんしつあいわす』、でございますから。
なかなか他の方ではあのようには…。
あれ、ぴったり寄り添うかと思えば、さきほどから何やら一騎打ちのごとく…。
激しゅうござりますなあ。
お染殿ったら、いやらしいですよ!
あれ、私、さようなつもりで申したのでは一一。


 浮かれていたところ、廊下をやってくる手燭の灯りに気付き、下女らは一斉に口をつぐんだ。

 摺り足で近づいてきた人影が、
「誰ぞ、そこにおるのか?」
廊下から鋭く尋ねた。
綾姫の輿入れの時、府中藩から付き添ってきた侍女の松島だ。
「あっ…これは松島さま」
黙って潜んでいればよいものを、太めの下女・小夜が思わず返答した。
松島は手燭をかざして庭先を照らし、
「さっさと出て参らぬか!」
萌黄色のお仕着せ姿の下女たちが、茂みの陰からわらわらと飛び出し玉砂利の上に平伏した。
松島はきりりと眉をつり上げて、
「そなたら…仕事をさぼり、斯様な所から殿のお姿を盗み見ようとは…不届きものめ!」
「申しわけ…ございませぬっ」
「お許しください!」
下女たちは口々に許しをこうた。

 どうせ見つかるなら宝寿院付きのお年寄、藤江のほうがましだった。主人には忠実だが、年を取って丸くなったせいか下の者には鷹揚なところもある。一方、綾姫付きの松島は四十前。世継ぎ誕生どころか、ろくに惣一郎に触れられてもいない主人を不憫がり、鬱憤のはけ口として下女に辛くあたるようになっていた。

「それともお目当ては家中一の美男殿のほうか?」
「め、滅相もござりませぬ」
太めの小夜がぷるぷると頭を振り、
「お手付きの右近様に思いを寄せるなど、そのような恐れ多いこと一一」
まさかの失言を繰り出した。
下女たちは顔色を失い、ひたすら地面に額を擦り付けた。
松島はこめかみ震わせ、
「お手付きだなどと…ええい、口にするも穢らわしいっ」
手燭を握りしめたまま、虚空を睨み据えた。

 座敷からはなおも右近の小鼓が鳴り響いている。
惣一郎の舞をひきたて、時には自らが導くがごとく、巧みに音の高さや音色を操る。
舞も終盤に差し掛かったか、鼓の音は切迫した調子を帯びた。
「ううっ…たまりませぬ」
懲りない小夜がうっとりと身悶えし、他の二名も口を半開きにして目を閉じた。
『穢らわしい』と罵った松島をあざ笑うがごとく、右近の芯のある澄み切った音色は奥御殿中に響き渡り、聞く者を陶然とさせた。




 舞い終えたあと、満座の喝采を浴びた惣一郎はすこぶる上機嫌だった。
むろん賞讃の大半が、見事な小鼓の演奏に向けられたことなど百も承知だ。

 右近は惣一郎の好みに完璧に沿い、最上の音色を響かせた。

(流石じゃな…右近)

 右近は最初、残務があるからと宴に出るのを渋ったが、いざ皆の前で小鼓を打つとなれば、惣一郎に決して恥をかかせたりはしない。登城で疲れていることに加えて、本来『表』の役人たる留守居役を『奥』の宴席にまで狩り出すのは酷な気がしたが、母・宝寿院の「右近の小鼓が聞きたい」というたっての願いを断りきれず、右近に無理を言う結果となった。

「ささ、母上。お注ぎいたしましょう」
惣一郎が菖蒲酒をすすめると、宝寿院も満面の笑みで応えた。
「そなた、絵ばかり描いておるのかと思えば…舞の稽古も怠りないようですね」
「私とて色々と大名同士の付き合いがございます。いつどこで舞を所望されてもよいよう、時々はさろうておりまする」
宝寿院は目を細め、優雅な手付きで盃を口元へ運んだ。
「藩主の役目、立派に果たしておいでのようで…母も嬉しく思います」
「恐れいりまする」
惣一郎は優しげな笑みを浮かべて頭を垂れた。

 上段の間の親子仲睦まじい様子に、居並ぶ近習たちもほっとした表情を見せた。

「時に、右近」
「はっ」
右近は身体の向きを変え、宝寿院に一礼した。
「御用繁多と聞いていたが、今宵はよう顔を見せてくれた。見事な鼓であったぞ」
「もったいなきお言葉にござります」
「留守居役も板についてきたようじゃな。なかなか心きいた若者よと、先日さる筋からもお誉めの言葉をいただきました」
「ほう、さる筋とは?」
惣一郎が興味を示すと
「御老中の奥方じゃ…」
宝寿院は曖昧に微笑んだ。
「まだまだ若輩者にて、至らぬことばかりではござりますが」
右近は謙虚に頭を下げた。
「よろしく頼みまするぞ」

 間合いよく膳部が次々と運びこまれ、食事が始まった。
右近は軽く箸をつけながらも、退出の頃合を見計らっている。
隣の仙之丞は早くも料理に夢中になっていた。
「右近さま、この卵焼き、上品なお味にござりますな」
「宝寿院様のお好みで京風なのだ」
「なるほど。おお、こちらは生湯葉とふきの煮物…」
仙之丞も有能な側仕えだが、宴に招かれた時は自分も楽しんでしまえるお気楽さがあった。右近にはそれが時々うらやましく思えた。

「右近、ちこう」
上段の間から宝寿院が手招きした。

(やはり簡単には解放してもらえぬか)

 右近は内心溜息をつきながらも、社交用の笑みを浮かべ、席から離れて御前にまかり出た。

 右近が上段の間に膝行して一礼すると、
「盃をとらせる」
宝寿院の差し出した盃を、右近は恭しく押し頂いた。
控える侍女が酒を注ぎ、
「頂戴つかまつります」
右近は軽く仰のいて盃を干した。
作法にのっとり返杯すると、
「来年こそは和子の誕生を見たいものよ、のう右近」
いきなりの切り込みである。
「はっ」
右近は身構えたが、予想通りの展開である。
如才なく切り抜ける覚悟はできていた。
「そなたからも惣一郎によう言うてきかせてたもれ」
「はっ。家臣一同もお世継ぎ誕生を強く望んでおりますゆえ」
右近は惣一郎に向かって微笑み、深々と頭を下げた。
惣一郎が小さく咳払いをした。
「母上」
低くたしなめるような声音で呼びかけたが、宝寿院はそしらぬ顔だ。
「田安の兄上も心待ちにしておられる。わらわも早う孫を抱いてみたい」
宝寿院はこの時とばかりに思いのたけをぶちまけた。
「初節句には幟や武者人形、祝いの品で溢れかえるような…斯様な日が早う訪れぬものかのう」
「まことに。譜代の名門、結城家お世継ぎともなれば、初節句は盛大に祝わねばなりませぬ」
「ほんにのう…」
とんだ猿芝居だが、右近は極上の笑みを浮かべつつ、宝寿院に調子を合わせた。

 宝寿院が盃を口元に運び、一瞬会話が途切れた。
そろそろ退出したい右近は、

(そうじゃ、仙之丞に笛でも吹かせよう)

 肩ごしに振り返ったところ、仙之丞は至福の眼差しで伊勢海老の焼きものを頬張っている。
目で合図しようにも、こちらを見てもいない。
思わず眉をしかめた右近に、上段の間から惣一郎が小さくうなずいた。
「これ、せんの一一」
惣一郎が呼びかけたところ、
「ところで右近、そなたいつまで独り身でおるつもりじゃ?」
張りのある座敷中に通る声で、宝寿院が問いかけた。
小姓や奥女中たちは一斉に箸を止め、視線が右近に集まった。
「そろそろ妻を迎えてはいかがか?」
「…それがしが、でござりますか?」
これには右近も参った。
されど沈黙するわけにもいかず、
「御用繁多な毎日にござりますれば、さようなことを考える暇も…」
「そなた、もうじき三十であろう?」
「はい、今年二十八にあいなりました」
「どこぞに言い交わした者はおらぬのか?」
宝寿院は呑気な口調で語りかけてくるが、裏があるのは明らかだ。

 宝寿院は右近のかつての想い人が誰かを見抜いていた。無論、右近は言下に否定したが、宝寿院は得心せず、むしろ右近を焚き付けるような発言をした。(青嵐「暮春」4)

 それが一転して妻を娶れなどと、しらじらしいことを一一。

「残念ながら、さような者はおりませぬ」
右近は内心歯がみしつつ短く返答した。

『この身は殿に捧げておりますゆえ』
と、言い放ってみたい気はするが、それは綾姫の手前憚られた。
笑いを堪える前髪小姓たちの気配が背後から伝わり、はなはだ鬱陶しい。

「母上」
とうとう惣一郎が乗り出した。
「右近はまだ仕事が残っておりますゆえ、このあたりでお暇させてもよろしいでしょうか?」
「それはまことか、右近」
「はい」
「残念じゃのう」
宝寿院はもう少し絡みたそうな様子だったが、
「時おり奥にも顔を見せておくれ。そなたがおるだけで空気が華やぐわ」
「お戯れを…」
最後は大人同士、無難に笑みを交わした。
ようやく茶番の幕引きかと、右近はほっと肩の力を抜いた。

「ではそれがしはこれにて。本日はお招きありがとうございました」

 右近は左から、宝寿院、藩主・惣一郎と挨拶し、最後に右手の綾姫と目を合わせ、丁寧に一礼した。

「右近」
今宵はじめて、綾姫が口を開いた。
「殿の御ため、昼夜を問わぬそなたの働き、まことに大儀。わらわも感謝しておりまするぞ」
抑揚の少ない声で語り、こけしのように目を細めた。

 さほど大きな声ではなかったものの、綾姫が右近に声をかければ、皆が一斉に耳をそばだてる。しばし水を打ったように座が静まった。
 
 右近はここは動じず、嫌味にならぬ程度の優美な笑みを口元に浮かべた。
「恐れ入りたてまつります」
改めて手をつき一礼する。
「右近、よい機会じゃ。褒美をとらせよう。ちこうよれ」
右近が膝行すると、綾姫は懐紙入れから小さな包みを取り出した。
「唐渡りの妙薬じゃ」
「それはまた…」
右近は、なにゆえ私にと目で問うた。
「留守居は激務ときく。疲れたときに飲むがよい」
「お心使い、かたじけのうござります」
いぶかりながらも、右近は薬包を押し頂くように受け取り、懐紙にくるんで懐へしまった。
「では、これにて」
右近は三人に向かって礼をして立ち上がり、周囲に軽く会釈しつつ座敷を後にした。

 一見和やかなこの場面に、惣一郎は満足げにうなずくばかり。
家臣に気づかいを示すとは、なかなかによくできた正室じゃと、綾姫を評価したのかもしれない。




 宴が終わり中奥に戻った前髪小姓達は、さっそく詰めの間でおしゃべりに興じた。
宿直のものたちは夜食と称し、奥から持ち帰った柏餅をぱくついている。

「しかし、あれは恐ろしかったのう…」
「『昼夜を問わぬ働き』とは…その、閨のことも何もかもお見通しというわけか」
「和馬、さほどに深い意味でおっしゃったのだろうか?」
「いや、あれは絶対そういう意味じゃ!」
「実際のところ、いかが思し召しなのじゃろう」
「殿の右近さまへのご執心ぶりか?」

 うーむと全員が唸った。

「側室が和子をあげるよりましだろうか?」
「しかしのう、いくら右近様が美形とはいえ、男に殿を寝取られるとは女子としての誇りが…」
「何せあのこけし顔ゆえ、腹の読めぬお方よのう」
「いずれにせよ、殿もこのままではすまされまい」

 輪になった小姓たちは顔を突き合わせ、
「世継ぎが生まれぬでは…」
「御家の一大事じゃ」
「まことに。殿もご正室でその気になれぬなら、いっそ婢にでもお手をつければよいものを」
「これ!滅多なことを言うでない」
「殿はああ見えて一途なお方ゆえ、右近様に操立てしておられるのだ」
「なれど、いかにご執心でも右近様に子はできぬ」
「いかにもいかにも」
小姓たちの間でくすくすと忍び笑いが洩れた。

 前髪小姓なぞ、箸が転んでもおかしいお年頃。加えて好奇心も旺盛だ。仕事中はともかく、ひとたび詰めの間に下がれば、奥女中たちのノリとさして変わらない。

 来年には元服という先輩格の竹弥が、輪の外から思いあまって意見した。
「おことら、いい加減にしておけ」
「え〜、なれど竹弥様とて気になるでしょう?」
「おふたりのことを茶化すでないぞ」
竹弥は細面の頬を引きしめ、
「我らは無駄口をきかず、ひたすら殿のお幸せを考えてご奉公すればよい」
年少の者たちにしかと言い聞かせた。
急に大人びた口をきき始めた竹弥を、ある者は少し不服そうに、ある者は眩しげに見つめる。
「もう夜も更けた。当番の者以外は早々にお長屋に引き取るがよい」


***


 亥の刻(午後十時)過ぎ、右近は仁平が用意した菖蒲湯につかり、一日の疲れを癒していた。惣一郎の登城は恙無く終わったものの、やはり奥で過ごした半刻ほどが堪えたらしい。
菖蒲の香りを胸いっぱいに吸い込み、湯の中で大きく伸びをしたところ、
「右近さま」
引き戸の向こうから仁平の声がした。
「何じゃ」
「お小姓の竹弥様がいらっしゃいました。殿の御文を携えておられます」
「ほう…」
文などとは珍しいことよ、と右近は小首をかしげた。

 竹弥が来ているなら、とりあえずは玄関まで出ずばなるまい。芳香漂う湯に未練は残ったが、右近はすばやく湯船からあがると身支度を整えた。

 右近は着流し姿で玄関へおもむき、
「すまぬ、待たせたな」
軽く微笑むと、
「いえ」
竹弥も短く応じた。

 竹弥が恭しく差し出した結び文からは、馴染んだ香の薫りがした。

『今宵は無理を言うてすまなんだ。久々にそなたの鼓に聞き惚れたぞ。母上も御満悦であった。一両日中に改めて碁を打ちに参れ』

 労いの言葉に右近の目元が優しく和む。
「承知、つかまつりました、とお伝えしてくれ」
「はい」
竹弥は艶やかな前髪の下、賢しげな瞳でうなずいた。


***


 ようやく右近の身も心も手に入れ、惣一郎はわが世の春といったところだ。なれど心通わせるふたりの姿を数多の眼が注視していた。暖かく見守る瞳もあれば、下世話な興味津々の眼、そして仮面の下、嫉妬に凍てついた氷のごとき眼差しも一一。


小鼓 了


小鼓 1邪眼 1
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イラストは「薫風館」さんからお借りしています。


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