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梅の実売りの声が市中にひびく季節となった。
この春から高山藩邸では剣術指南を迎え、週三回、邸内道場にて夕稽古を行っていた。指南役は浅草の直真影流『滝川道場』の婿、滝川彦四郎である。彦四郎は高山藩士の家に生まれ、留守居役の櫻田右近らと少年時代を共に過ごしたが、兄が家督を継いだ後、単身江戸へ出て剣客としての道を歩む。(滝川道場の様子は『青嵐・初霜』にてごらんください)
長じて江戸詰めとなった右近と彦四郎は旧交を暖め、先頃、右近が彦四郎を藩の剣術指南役に推挙した。
梅雨時は足下が悪いこともあり、留守居組合の寄合はそう頻繁ではない。外出の回数が減ったことをこれ幸いと、右近は足しげく藩邸内の道場へ通った。久方ぶりに流す汗は爽快だった。
その日も朝から薄曇りで時折小雨がぱらついた。外出の予定もない右近は、定時に執務を終え稽古に加わった。藩士の素振りの指導が終わるのを待ち、右近は彦四郎に手合わせを願い出た。
藩校時代、右近と彦四郎の腕はほぼ互角、太刀筋の鋭さでは右近にやや分があったかもしれない。なれど、いまや右近が彦四郎から一本取るのは至難の技だった。
今し方も、突きを入れようと踏み込んだところ、逆にぴしりと小手を打たれた。
「ッ…参った」
右近は眉をしかめた。
(この身体の切れはどうじゃ。さもあろう。彦四郎は剣ひとすじに生きておるのだ。宴席続きでろくに竹刀を握っていない私とでは、今や雲泥の差…)
右近は一から出直しじゃと苦笑しながらも、打ち込み稽古が楽しくてしかたない。
「よし、もう一本!」
「よかろうっ」
ふたりはうなずき合い、すべるように後ろに下がって竹刀を構えた。
「鋭っ」
「応っ」
竹刀のぶつかりあう小気味よい音が、あたりに響いた。
彦四郎は一切遠慮をせず、右近も少年のような瞳で何度でも向かっていった。
端麗な留守居役が見せる意外な一面は、藩士たちの新たな興味をかきたてたようだ。
「留守居役殿はなかなかお強いのう」
「おぬし、知らぬのか。櫻田殿は一刀流の免許持ちだぞ」
「ほう…それはそれは」
「しかし、櫻田殿に一本も取らせぬとは…滝川先生は流石じゃな」
「さようか。俺には互角のようにしか見えぬが…」
「いや、あれは櫻田殿が攻めあぐねておるのだ」
「というと?」
「見ろ、打ち込んでもなかなか先生の懐に届かぬ」
「ふむ…そういうものかのう」
ともかく剣術の深いところなどわからずとも、右近の颯爽たる稽古着姿と竹刀さばきは、見物人の目を十分に楽しませた。
右近と彦四郎は四半刻(三十分)ほど打ち合ったが、師範の彦四郎が右近ひとりにかまけているわけにはいかない。挨拶を交し、右近は指導に戻っていく友の背を見送った。ひとりになった右近は満足げに息をついた。汗ばんだ首筋に手ぬぐいを当てつつ、道場の別の一角に視線を移した。
右近の部下、留守居添役の小野田が見なれぬ藩士と対峙していた。身の丈六尺を超える小野田と比べると男は小柄に見える、だが腰がどっしり座り、正眼の構えは鉄壁で隙がない。双方とも面をつけず、竹刀の先で互いの動きを探っている。
「もし、お尋ね申す。あそこで小野田氏と手合わせしておられるのはどなたか?」
右近は近くに居合わせた若い藩士に尋ねた。
右近は役職は留守居役と上位なれど、上屋敷へ戻って日が浅い。
面識のない者には、念のため丁寧な言葉使いを心がけていた。
相手は軽く右近に目礼し、
「あれは確か目付の…」
名前を思い出せぬのか、首をひねる男の脇から、
「矢田源八郎殿にござる。しばらくお目にかからなんだが、近頃江戸へ戻られたようで」
朋輩が口を挟んだ。
右近は納得したようにうなずき、
「目付けの配下にござるか…」
小野田と矢田にひたと視線をあてた。
間合いは二間。
ふたりの間で静かに闘気が高まっていく。
尋常ならざる緊迫感に気押されたか、周囲で竹刀を打ち合う音が徐々に止んでいった。
静寂が訪れてまもなく、
「鋭っ」
八双に構えた小野田が気合い声とともに踏み込み、先にしかけた。
矢田は正面から打ち込んできた小野田の懐に入るように身体をかわした。
そしてすれちがいざま、鋭く袈裟がけに小野田の肩を打った。
小野田の竹刀も矢田の銅をとらえたが、わずかに届かず。
右近は瞠目し、
「見事…」
小さく呻いた。
竹刀を取り落とさないのは立派だが、偉丈夫、小野田の顔は苦痛に歪んでいた。
*
井戸端で汗を流し身体を拭いたのち、右近は彦四郎を役宅へ招いた。中庭に面した右近の自室で、ふたりはゆったりと茶を喫した。気のおけぬ友人同士ゆえ、ふたりとも縁側で胡座をかいている。
「貴公、先程うちの小野田と打ち合った男、存じておるか?」
「ああ、矢田源八郎か。おとつい初めて道場に現れての。一応挨拶はしにきたが…」
いつになく歯切れの悪い彦四郎だった。
「何だ」
「うむ。…どことのう一癖ありそうな、得体の知れぬ男よな」
彦四郎が他人を悪し様に言うことは滅多にない。
右近は意外そうに友の目をのぞきこんだ。
「愛想が悪いだけではないのか?」
彦四郎も失言と思ったのか、
「いや、すまぬ。それがしが苦手に感じているだけだろう。剣の腕はおぬしも見た通り、大したものよ」
慌てて声の調子を変えた。
右近はうなずきながらも、
「あれは既に何人か人を斬っておるな」
旧友を前に思ったことを口にした。
「おぬしもそう思うか」
「なんとのう、そんな臭いがした」
「役目柄(目付)…ありうる話しだな」
「うむ…」
目付とは表向きは藩の監察。
時に秘密警察の役割も果たす。
つまりは藩政の闇の部分と常に接点を持つ立場だった。
ふたりはそれきり口をつぐみ、しばらく無言で茶をすすった。
時の鐘が申の下刻(午後五時)を知らせた。
右近は夕餉を一緒にどうかと彦四郎を誘ったが、
「すまぬ、今宵は道場へ客人が来るのだ…」
「それは残念だな」
「舅殿の知己でな」
同席せねばまずいのじゃと、婿養子の彦四郎は照れくさそうに笑った。
「かまわぬ、またの機会にしよう」
友の立場を慮かり、静かに微笑む右近であった。
*
彦四郎を玄関まで送ったのち台所へ寄ると、老僕の仁平へがかまどに火を起していた。夕餉の仕度を始めるところらしい。
「おや、滝川様はお帰りになったので?」
「ああ、今宵は来客があるらしい」
仁平はがっかりしたように眉を下げ、竹籠に入った生きの良い鯵を見やった。
「てっきり夕餉はご一緒かと思い、多めにもとめてしまいました」
「かまわぬ、そなたや伊藤(右近の若党)らで食すがよい」
「もったいのうございますが…ではありがたく」
仁平は竹籠を押し頂き、右近に礼を言った。
老僕の仁平はかゆい所に手の届く、実に心きいた使用人だった。主人も思う気持ちも人一倍で、疫病が恐いこの時期、湯冷ましを飲むようにとうるさく言う。国許の孫作爺やを思わせるおせっかいぶりが、右近には懐かしい。
夕餉には贅沢ではないが右近の好物が並んでいた。
鯵の塩焼きにつみれ汁。ずいきと油揚の煮付けに胡瓜揉みの献立だ。
「おっ…今宵もうまそうじゃ」
膳につき目を輝かせた右近に、仁平は麦飯をよそいながら相好を崩した。
右近が寄合のない夜には、いつも心づくしの料理で和ませてくれる。先日、宝寿院から妻を娶らぬのかと嫌味を言われた右近だが、有能な家令や仁平のような老僕がいれば、実は男所帯が気楽で心地よい。
たまに一献付き合えと誘っても、仁平は固辞するばかり。諸事控えめな男だった。
食事を終えた後、右近は自室で書き物を始めた。
湿気には閉口するが、梅雨時の在宅できる時間は右近にとって貴重なものだった。
「右近さま、お茶をお持ちしました」
障子の向こうから控えめに声がかかり、仁平が顔をのぞかせた。
右近はさらさらと筆を走らせながら、小さくうなずいた。
「うむ、そこへ置いておいてくれ」
「かしこまりました」
仁平は盆ごと煎茶を畳の上におき、一礼して辞していった。
右近がしたためているのは関川普請についての意見書だ。明和三年にも一度行っているが、関川の流域は広く、まだまだ完成には程遠い。当時、交通路としても重要な大河川の普請は幕府の管轄であった。宝暦の頃までは『御手伝普請』といい、幕府が外様大名に申し付け費用も負担させていたが、時代が下るにつれ、河川流域の藩が幕府に普請の請願を出し、費用は藩の負担となった。工事そのものは、入札で町人が請負う形式が増えつつあった。
最前から国許の筆頭家老・溝口主膳に頼まれていた右近は、昨今の他藩の事例を調査し、めぼしい請負業者や入費につき報告するつもりであった。
右近はきりの良い所まで書き終えると、筆を硯におき、仁平の置いていった盆に手を伸ばした。
愛用の茶碗を手に取り、ゆっくりと喉を潤す。
仁平は茶のいれ方もうまく、右近は香りと味を楽しみながら最後まで飲み干した。
右近は満足げに茶碗を盆に戻し、再び筆を手にとった。
*
四半刻もたたぬうち、右近は食道から胃の腑にかけて灼熱感を覚えた。
(何事かっ…)
困惑するも、あれよあれよという間に激しい腹痛に襲われ、右近は腹を押さえてうずくまった。
「仁平…っ」
老僕を呼んだものの、声は弱々しく掠れるのみ。
口中が猛烈に乾き、たたみかけるように吐き気が込み上げてきた。
右近は畳に突っ伏しながらも、懸命にいざって障子戸の際まで進んだ。
音を聞きつけてくれることを祈り、力を振り絞って障子戸を乱暴に開けた。
(誰ぞ…っ!)
そのまま板敷の廊下へと倒れ込み、右近は昏倒した。
つづく
仁平のモデルは『鬼平』の彦十のとっつあん、江○家猫八さん♪
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