三の巻
「邪眼」2




by 戸田采女

 高山藩邸・中奥。藩主の御座之間。

「で、奥医師のみたては?」
「この時期のことゆえ、食あたり、水あたりも考えられますが、昨夜は一時お脈が弱まり、お気がつかれたのもつい先程…」
「されば、原因は何なのだ?!」
上段の間の主人が苛立った声をあげた。

「殿…お人払いを」
側用人・平岡仙之丞のもとめに応じ、結城山城守信元(惣一郎)は小姓達を下がらせた。
最後のひとりが退出するまで、仙之丞は目を伏せたまま微動だにしなかった。
惣一郎も周囲から人の気配が消えたのを確かめ、
「仙之丞、申してみよ」
仙之丞は眉を寄せ、重い口を開いた。
「殿、お耳を拝借」
仙之丞は一礼し、上段の間へにじり寄った。
身を屈め顔を寄せる惣一郎の耳元へ、鋭く囁きかけた。
「医師が申すには、食あたりにしてはあまりに症状が激烈である。『岩見銀山』ではなかろうかと…」
「な…にっ?」
惣一郎は掠れた声を発し、絶句した。
「右近様の老僕、仁平によれば夕餉の菜はその日買い求めた新鮮なものばかり。おまけに若党も同じものを食べたとのこと。むろん、若党には何の異状もござりませぬ。飲み水についても、『右近様には季節柄、白湯か湯冷ましをさしあげている、生水を口にされるはずはない』と、仁平の奴、それは頑固に言い募るもので…」
「…食あたり、水あたりではないと?」
「おそらくは一一」

 『岩見銀山』とは銀山で産出する亜ヒ酸のこと。当時、『猫いらず』の成分としても使われた。無味無臭ゆえ、水や食事への混入が容易といわれる。江戸時代、大名家や大奥で毒殺や堕胎に用いられた。食後しばらくして起った事態ゆえ、医師は岩見銀山の可能性を疑った。

「何者かが右近に毒を…?」
色を失う惣一郎を前に、
「かくたる証拠はございませぬが」
仙之丞は苦々しく呟いた。

 真に岩見銀山だとすれば、右近が口にしたのはほんの微量だろう。さもなければ今ごろ命はない。




 昨夜、小雨降るなか、右近の老僕、仁平が血相を変え、玉砂利を蹴散らし表御殿へと駆け込んできた。何事かと警備の侍が取り押さえたところへ、中奥から御長屋へ戻る途中の小姓、和馬が通りかかった。

『お留守居役の櫻田様がお倒れになった。はようお医師を呼んでくだされっ!』

 声を枯らして仁平が叫ぶのを聞き付け、和馬が慌てて中奥へ引き返し仙之丞に知らせたのだ。仙之丞は宿直の奥医師をともない、右近の役宅へ急ぎ走った。

 右近の様子を見た医師は、なんらかの中毒の可能性を疑い、とりあえず胃の中のものを全て吐かせた。後はひたすら安静にと言われ、正直、他に手立てはないのかと仙之丞は苛立った。夜半、朦朧としながら喉の乾きを訴える右近に水を飲ませ、仙之丞は仁平や医師とともに、まんじりともせずに夜を明かした。

 辰の刻(午前八時)を過ぎた頃、ようやく右近の瞼が開いた。
仙之丞はこみ上げる安堵に目を潤ませながら、
『お気がつかれましたか…』
右近の上に屈みこんだ。
目に力はなかったが、右近の瞳が仙之丞を捉えた。
『私は…?』
『昨夜、書き物をなさっている時、急にご気分が悪くなられた由にございます』
『…そうじゃ、思い出した』
医師が右近の脈を取りながら語りかけた。
『ご気分はいかがですか?』
『…少し頭が痛い』
『吐き気は?』
『…それはだいぶ収まった』
声は弱々しいが、右近はしっかりと己の状態を説明した。

『右近様…』
仙之丞の後ろから仁平が心細げに顔をのぞかせた。
右近は仁平の姿を認めると、
『おまえが知らせてくれたのか』
『へい…っ』
洟をすすり上げる仁平に、
『礼を言うぞ…』
右近は小さくうなずいた。 




 惣一郎は血の気の引いた顔で思案していたが、突然すくっと立ち上がった。
「殿っ?」
「見舞いにゆく」
そのまま上段の間から大股で歩き出すのを、
「お待ちくださりませ!」
仙之丞が大声で引き止めた。
「殿は軽々しく動いてはなりませぬ」

「間もなく巳の刻(午前十時)、武村様(江戸家老)がおいでになりますぞ」
藩主・惣一郎の決裁を仰ぐため、江戸家老は毎日この時間に書類を持ってやってくる。

「武村など待たせておけっ」
惣一郎は奥歯をぎりりと噛みしめ、
「…この一件、捨ておかぬぞ」
「殿?!」
「早急に目付に命じ、調べさせる」
「殿、それはっ」
仙之丞は頭を振った。
『岩見銀山』はあくまで可能性だ。
まことに右近が毒を盛られたにせよ、無事だった以上、いま事をあらだてるのは得策ではない。
「殿、調べるなら隠密理に一一」
「いや、右近に対し斯様な企みを持つもの、断じて見逃しにはできぬ!」
惣一郎のこめかみに青筋が浮び、握りしめた拳が震えていた。
常日頃、どちらかといえば鷹揚で、軽いものなら家臣の失態も見てみぬふりをする。
ここまで激昂する主人を仙之丞は見たことがなかった。

 惣一郎の端正な横顔が、夜叉のごとく歪んだ。
「見つけだし、予が成敗してやるっ…」
「殿、お気持ちはわかりますが、どうぞここは一旦お鎮まりをっ」

(しまった…)

 仙之丞は歯がみした。
愛しい右近が毒を盛られたとなれば、惣一郎が逆上するのは無理もない。証拠もあがらぬうちに、『岩見銀山』では、などと惣一郎に告げるべきではなかったのだ。

 仙之丞は惣一郎の袴に取りすがった。
「殿、この一件の始末、せめて右近様が回復されるまでお待ちください」
「はなせ、仙之丞!」

 被害者の右近本人の知略に頼らねばならぬとは。
仙之丞は未熟な己が情けない。
情けないが他に為す術がない。

「仙之丞、そこを退け!」
「なりませぬ!」
仙之丞は膝立ちになってなおも惣一郎を押しとどめた。
「ええい、邪魔立てするな!」
惣一郎が白扇で仙之丞の腕をぴしりと打った。
それでも仙之丞は怯まず、
「なりませぬといったらなりませぬ!」

 ふたりが大声で押し問答するのを聞き付け、小姓達が慌ただしく戻ってきた。
「いかがされましたかっ」
数人が黄色い声で尋ねるも、
「大事ない、そなたらは下がっておれっ」
仙之丞は肩ごしに前髪たちに一喝し、惣一郎に向き直った。
一旦後ろに身体を引き、改めて惣一郎の前に平伏した。
「殿、無用に騒がれぬことが、右近様のおためにござりますっ」
「仙之丞一一っ」
惣一郎は仁王立ちで深く眉根を寄せた。

 仙之丞は主人を見上げ、
「たかが食あたりで、殿が血相変えて右近様を見舞ったとなれば、皆の失笑を買いましょう」
「食あたりではないと、そなた先程申したではないか!」
仙之丞はゆっくりとうなずき、
「されど殿の慌てようからして、もしや毒を盛られたのではなどと噂が流れれば…右近様のお立場はさらに悪くなります」
「それはっ…」
「若くして異例の御出世。悲しいことですが、右近様は方々から妬みを買っておいででしょう」
「笑止な。予は右近の才覚に見合った役目を与えておるにすぎぬっ」
惣一郎は吐き捨てた。

「殿はそのおつもりでも、藩士たちのなかにはそう思わぬ者もおります」
「仙之丞…」
「毒を盛られたのは、殿の御寵愛を一人占めにした報いと…口さながいスズメどもが騒ぎたてるやもしれませぬ」
惣一郎はしばし沈黙し、
「…そなた、予が右近を追い詰めていると言いたいのか?」
抑揚のない声で問うた。
「いえ、さようなことは。なれど、これを機に一度よくお考えいただくのもよろしいかと」

「考えろ、とな」
惣一郎の表情が一瞬険しくなった。
「…右近の立場、そして予のなすべきことをか」
「さように…ござります」
仙之丞は首を垂れたまま続けた。
「恐れながら、今のままでは殿は家臣から軽く見られます」
「右近への耽溺ぶりゆえにか?」
多少投げやりに呟く惣一郎に、
「私はそれが口惜しいのです」
仙之丞が静かに返した。

「十四の時から、長年殿のお側に仕えて参りました。孝養を尽される殿のお人柄、我ら家臣への労り…そして右近様への真摯なお気持ちは、この仙之丞、誰よりもわかっておるつもりです」
無言で耳を傾ける惣一郎に、
「ならばこそ、殿が…右近様のことで藩主としての品格、御器量を疑われるなど、我ら側仕えには耐えがたく一一」
仙之丞は胸底から切々と訴えた。
「予はその程度の男やもしれぬぞ」
「いいえ、殿は…名君になれるお方と心得ます。右近様もそれをお望みのはず」

 仙之丞はこれまで冗談混じりに惣一郎を諭したことはあっても、真っ向から諫言したのは初めてだった。主人の不興を買うことなど眼中になく、ただ無我夢中で思うところを述べたが一一。

(私こそ立場を顧みず、出過ぎたことを申し上げてしもうた…)

 言うべきことを言い尽くした仙之丞は、ひたすら惣一郎の言葉を待った。

(お怒りならお怒りでそれも致し方あるまい)

 ややあって、仙之丞の頭上で惣一郎の溜息が鈍く漂った。

 再び面を上げれば、惣一郎は先程より幾分肩を落とし、
「あいわかった」
深い声音で呟いた。
「今日のところはそなたに任せる」
「殿っ…」
仙之丞は一気に身体の力が抜けるおもいだった。
目が合うと、惣一郎は口角の端をわずかに上げて微笑んだ。
「…こちらの仕事はよいから、しばらく右近の側についておれ。なれど、朝夕には必ず様子を知らせにまいれ」
「ははっ」

「そなた、右近に似て口うるそうなったのう」

 惣一郎は軽い笑い声をたてると、
「誰ぞ、履物を持て。庭へ出るぞ」
よく通る声で廊下に控える小姓に申し付けた。
「見舞いの花を切ってくるゆえ、そなたが届けてやれ」
惣一郎は溜息のように呟くと、そのまま仙之丞の脇を大股で横切り、御座之間を後にした。

 仙之丞は惣一郎の足音が消えるまで、微動だにしなかった。
畳に額がつくほど深く礼をしつつ、仙之丞は目頭を熱くした。


つづく


邪眼 1邪眼 3
浄夜・目次 | 書庫目次


背景は「kigen」さんからお借りしています。


Copyright © 2007 戸田采女
All rights reserved.
予予予予