三の巻
「邪眼」3




by 戸田采女

 翌朝、雨が上がった。
右近の役宅でも、初夏の陽の光が中庭の笹竹をきらきらと照らした。
右近はまだ床についていたが、重湯を啜る程度には回復した。

 右近が布団の上で半身を起すと、
「さ、右近様」
仙之丞が軽く右近の背を支え、重湯の碗を握らせた。
「すまぬな。いつまでも世話をかける。今日はだいぶん気分がよい。もう中奥へ戻ってはいかがじゃ」
「いいえ、右近様が本復するまでお世話をするようにと、殿から言われております」
仙之丞は軽く右近を睨んだが、瞳はなにやら嬉しげに光っている。

(ま、まあ、おことの気持はありがたいが…)

 右近は面映く感じながら、
「身の回りの世話なら仁平がおる」
「仁平は今ごろ洗濯でおおわらわです。久しぶりの皐月晴れですから」
仙之丞が快活な声で言うと、右近の右手にさじを握らせた。
「さ、ゆっくり召し上がってください。」
「うむ…」
もはや逆らわず、右近は重湯を口に運んだ。




 午前中は庭を眺めたり、疲れればうつらうつらして過ごした。身体に力が戻ってこぬのを、右近はもどかしく思う。

 夕べ、仙之丞からことのあらましを聞いた。医師の見立てでは、食あたりというより、毒物が水や食事に混入した恐れありという。

(遠回しな言い方だが、要は一服盛られたということか)

 倒れた時の状況から、単なる食あたりではあるまいと感じていた。

 当然『誰が』『何のために』という疑問がわくが、今の右近にはそれを突き詰めて考えるだけの、気力も体力もなかった。

 陽が高くなった頃、仙之丞が薬湯を持ってあらわれた。
「人参です。薄めに煎じてありますので、飲み易いかと」(朝鮮人参のこと)
「さような高価なものを」
「奥医師がお飲ませするようにと。さ、どうぞ」
恐縮する右近に、仙之丞が目顔でうながした。 

 おそらく惣一郎からの指示だろう。
右近は茶碗を押し頂き、ここ数日顔を見ていない主人のことをおもった。
「殿は…いかがお過ごしじゃ?」
「日々のお務めに励んでおられますよ。さぼらぬよう、竹弥がしっかり見張っております」
冗談めかした仙之丞の口調に、
「ならばよいが…」
右近は思わず笑みを洩らした。

 仙之丞と和やかに語りつつ、薬湯を啜っていると、 
「お頼みもうす」
玄関で野太い男の声がした。

 仙之丞は薬湯を飲み終えた右近から茶碗を受け取った。
「どなたでしょう、見て参ります」

(小野田の声でもなかったし…いったい誰じゃ)

 上役ならばきちんと迎えねばなるまい。
右近は念のため、寝間着姿ではあるが、布団から出ると裾をさばいて正座した。

 ところが仙之丞はなかなか戻ってこない。

(いかがした…?)

 訝りながらも、右近は自分が玄関まで出るべきか、決めかねていた。




 来客は目付の矢田源八郎と名乗った。仙之丞には初めて見る顔であった。

「殿の命とはまことか?」
「いかにも。大目付の前島様に直々にお申し付けになった。此たびの件、内密に調べるようにと」
「で、ご貴殿が」
「さよう、当面はそれがしひとりが動くようにと、前島様に命じられてきた」

(そのような話、殿から聞いておらぬぞ…)

 仙之丞は矢田を胡散臭く思ったが、惣一郎は右近が倒れた時、『毒を盛られたなら、すぐにも犯人を探しだす』と息まいていた。後で目付に指示を出したというのは、あながち嘘ではないだろう。

 されど、仙之丞は目の前の男に対し、お世辞にも良い印象は持てなかった。

 年の頃は四十前後か。顔は四角く顎が張り、目は常に睨みをきかせているようだ。体格は中肉中背だが、ときおり袖口からのぞく二の腕は逞しく、よほど鍛えていると見える。態度もどこか尊大で、仙之丞が若輩ということもあるが、人を見下したような物言いをする。

「まずは台所を見せてもらおうか」
矢田は仙之丞が答える間もなく、勝手に歩きだしていた。

 矢田は台所に入るなり、水瓶の蓋をとってのぞきこんだ。
「櫻田殿が倒れたのは一昨日の夜だな」
「いかにも」
「あれから二日もたっておる…。瓶の水は入れ替えてしまったのだろうな」
「季節柄、当然でしょう」
淡々と答える仙之丞に、矢田は向き直り、
「こういうことはな。事が起ってすぐに動かねばダメだ。見ろ、二日もたったのでは、証拠はきれいさっぱり消えてしもうたわ。今ごろ調べろと言われてものう」
「水瓶に…毒が仕込まれていたと?」
矢田はふんと鼻を鳴らし、
「お小姓上がりは呑気で困るのう」
仙之丞はかちんときたが、ぐっと腹の底におさめた。
「奥医師に話は聞いてきた。櫻田殿は夕餉の後、しばらく書き物をしておられたとか。とすれば、食事というより、その後の茶に何か細工をされた可能性が高い。水か、茶碗か…」
矢田は片手で顎をさすった。

 勝手口が音をたてて開き、薪の束を抱えた老僕の仁平が入ってきた。

 矢田は仁平を見るや、
「この者は?」
肩ごしに後ろの仙之丞に尋ねた。
「煮炊きや洗濯をしております、右近様の老僕です」
「ふむ」
矢田は検分するように仁平を眺めまわすと、
「おい、一昨晩、櫻田殿の茶をいれたのはおまえか」
「へい。いかにも儂でごぜえますが…」
中腰で縮こまった仁平の前に、すいっと仙之丞が割って入った。
「矢田殿、まさかこの男をお疑いか」
「現場にいたものは、一応疑ってかかるのが我らの役目よ」
仙之丞は眦を決し、
「これなる仁平は元留守居役、堀田又座右衛門様の御紹介じゃ」
「ほう」
「右近様にも誠心誠意仕えておる忠義もの。滅多なことを申されるな」
「なるほどな」
矢田は懐手で一応うなずいて見せた。

 引き続き、矢田はあたりを土間から天井まで眺め回していたが、
「お、うまそうな瓜が!」
洗い場の桶の中、井戸水で冷やしたまくわ瓜を見つけた。
ひょいと手を伸ばして取ると、羽織りの裾で軽く水気を拭いてがぶりと齧った。
「美味じゃのう」
瑞々しい果肉に舌鼓を打ちながら、ふたたび横目で仁平を睨んだ。
「煮炊きはおまえの仕事と聞いたが、他にここへ出入りするものは? 下女はおらんのか」
「おりませぬ」
仁平は言葉少なに答えた。
「他の奉行人は?」
「若党の伊藤様がおられますが、台所へは滅多に出入りなさいません」
哀れ仁平は蛇に睨まれた蛙のようだったが、
「お疑いなら、今後わしがお毒味をいたします」
唇を震わせながらも、きっぱりと言った。
「案ずるな、仁平。誰もそなたを疑ってはおらぬ」
仙之丞は仁平を宥めつつ、矢田に向き直った。

「矢田殿、右近様とお会いなさるか?」
「話ができる状態ならぜひに」
「承知した。案内いたす一一」

 矢田は食べかけの瓜を仁平に押し付け、仙之丞の後に続いた。




 随分と間があったのち、仙之丞ともうひとり、別人の足音が右近の自室に近づいてきた。
中庭に向けて開け放った障子戸の陰から、
「右近様、目付の矢田様がお話したいそうですが」
仙之丞が声をかけた。

(目付の矢田…)
 
 名前には聞き覚えがあった。
先日、道場で部下の小野田と手合わせした男だ。

「入っていただけ」

「どうぞ、お入りくだされ」
仙之丞が矢田を招きいれ、右近は布団の脇で手をついて挨拶した。
「櫻田右近にござる。矢田殿にはお初にお目にかかる。お見苦しい姿で申し訳ござらぬが…」
「こちらこそお初にお目にかかる」
矢田もていねいに一礼した。
年齢では矢田が上だが、役職では一応右近が上位だ。
「御病人のもとへ厚かましいとは思うたが、あまり先延ばしにもできぬのでな」
右近は上座を開けておいた。
矢田はちらりと一瞥し、そこへ座った。

「本日は櫻田殿に二三、お尋ねしたき儀あってまかりこした」
「お役目、ご苦労にござる」
右近は端座したまま頭を下げた。
「一昨夜の状況は、奥医師より聞いて参った。それがしも『岩見銀山』と見て間違いなかろうとおもう」
「さようか…」
「最後に飲まれた茶があやしい」

 嫌な空気を読み、右近は片眉をぴくりと上げた。

「茶をいれ、運んできたのは、あの老僕だな」
「それが?」
「何か細工をするには、一番やりやすかろうと思うてな」
右近は一笑に付し、
「仁平がやったのなら、とっくに逐電しておるはずじゃ」
「あの者をよほど信頼しておられるようで」
「あたりまえだ」
「では他にお心あたりは?」
「心あたりとは?」
「貴殿に毒を盛りたい人物の…だ」

「無礼だぞ、矢田殿!」
入口に控えていた仙之丞が、思わず腰を浮かせた。

 矢田は横目で仙之丞を一瞥し、
「さりながら、相手は一発で仕とめるつもりはなかったと見える。此たびのことは脅しだろう」
朗々とした声で続けた。
「…致死量には程遠かったからな」
右近は皮肉っぽく唇を歪めた。

「今をときめく美貌のお留守居役じゃ。櫻田殿の栄達を妬む輩は山程おろう」
矢田は謡でも読むかのように続けた。
「はたまた、殿を寝取られた奥の恨みか」

 仙之丞が畳を拳で叩いた。
「矢田殿、いい加減になされよ!」

 矢田は仙之丞を完全に無視し、目を細めて右近を見た。
「奥方御本人にその気はなくとも、周囲の者の勇み足…といった可能性もある」

 右近は終始無言を通した。
「無駄口はきかぬお方じゃな」
「はて」
右近の反応をうかがっていた矢田だが、ふと肩の力を抜き、
「次は夜道で襲われるやもしれぬが…。とりあえず、口にするものには十分気をつけられよ」
「承知した」
「岩見銀山を見分ける方法はご存知か」
「いや」
「銀じゃ」
「飲み物や汁に一分銀でも落としてみよ、入っていれば銀が黒ずむ」

 右近は目を見張り、
「ご忠告、痛みいる」
矢田の知識に感心しつつ、素直にうなずいた。
「他の毒を使われたらどうしようもないがな」
「たしかに」
右近は力なく笑った。

「ではそれがしはこれで」
矢田は立ち上がると、
「少々『奥』をつついてみようと思う。何かわかればお知らせする」
矢田は片頬で微かに笑いかけ、
「御免」
足早に部屋を辞していった。
 
「矢田源八郎、敵か味方か…」
右近の呟きが鈍く漂った。




 矢田が去った後、右近はふたたび布団に入り、庭の葉ずれの音に耳を傾けていた。

 毒を盛られたという事実。恐ろしくないといえば嘘になる。何者かが邪悪な意図を持って右近を監視しているのだ。信輝公の死に際を思い出し、右近の背筋に冷たいものが走った。

 もしや…信輝公の時と同じ者の仕業か?

 毒を盛る手口は似ていても、信輝公の命を奪ったものが自分を狙うなど、動機が今ひとつわからない。信輝公の死因についての探索は正直行き詰まっている。相手方が真実が露見するのを恐れ、探索を打ち切らせるべく右近に脅しをかける…という筋書きもあるが、今、それをする必要があるかは疑問だ。

 結局、私的な怨恨からの行動と考えるのが、今のところは腑に落ちる。
なれど、まことに『奥』の恨みかといえば一一。
右近は綾姫の人形のような、表情に乏しい顔を思い浮かべた。

(奥方の本音は正直わからねど、毒を盛るほど苛烈な気性とも思えぬ…)

「考えても詮無きことか」

 右近は寝返りを打ち、そっと目を閉じた。
 
(いずれにせよ、藩邸内で殿と閨を供にするようなことは…終わりにせねばならぬ)

 惣一郎や右近を慕うものばかりだった中屋敷の暮らしと、様々な立場、思惑の者が棲む藩邸の暮らしは別世界なのだ。
 
 此たびのことで右近はそれを痛感した。中屋敷では許されることが、ここでは許されぬということだ。人目につかぬよう自重したつもりだが、奥でも表でも、一度噂がたてばなかなか収まらぬもの。しばらく江戸を離れていた矢田にまで知られているとは滑稽だ。

 自分が侮られることも辛いが、このままでは惣一郎の藩主としての威信に傷がつく。それだけは何としてでも避けねばならない。

 再び目をあければ、床の間の、惣一郎から送られた白い杜若が目に入った。

「殿…」

 あれだけ惣一郎のことを待たせたのだ。ようやく心の通った今、惣一郎の望むまま側に寄り添っていたい。右近の中にはっきりと、そう願う自分がいた。一介の武士同士ならお互いの誠を貫き、共に生きることもできたろう。

 されど惣一郎は高山藩十一万石の藩主。藩主に寵童はつきものだが、家臣が元服後まで、しかも要職にある者が閨の勤めをするなど、眉をひそめられても致し方ない。

 留守居役としては若輩なれど、全力で忠勤に励んでいる。

 己に責められることがあるとすれば、この一事に尽きた。

「一度、殿とじっくりとお話せねばなるまい」

(まずは回復することだ。殿に余計な心配をかけぬためにも、今はひたすら英気を養おう…)

 右近はけだるい眠りに落ちながら、己にそう言い聞かせた。




『唐渡りの妙薬じゃ………疲れたときに飲むがよい』
 
 端午の節句の宴のとき、右近は綾姫から薬包をひとつ賜った。体力の落ちた、斯様な時にこそ頂戴しようと思うたが一一。

 手文庫の中に大切に保管していたはずが、薬包は忽然と消えていた。

つづく


邪眼 2
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背景は「kigen」さんからお借りしています。


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