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右近は数日で床払いしたが、しばらくは役宅で静養することとなった。寄合は少なくとも、いわば留守居役の本業は多忙である。右近が藩主・惣一郎に同道できぬ間も、登城や増上寺の参詣があったり、老中首座の家に祝い事あり進物の手配が必要だった。添役の小野田が右近のもとを訪れ、逐一指示を仰いだ。
剣術師範の滝川彦四郎は右近が稽古に来ぬことを訝り、早々に役宅へ様子を見に来たが、右近は梅雨時の体調不良として詳しい話はしなかった。目付の調べが進まぬうちに、憶測で彦四郎にいらぬ心配をかけたくなかったのだ。一方、仙之丞は惣一郎の命という大義名分もあり、右近の看病と称して半ば役宅に居着いてしまった。『御側仕え』の長屋へいずれ帰さねばならないが、主人の惣一郎が何も言わぬのなら、しばらく好きにさせようとおもった。
右近が留守居部屋に復帰したのは五月も終わろうかという頃だった。巳の刻(午前十時)、留守居部屋での執務が始まる前に、藩主・惣一郎にひとこと挨拶をと、少し早めに中奥へ伺候した。
右近が御座之間に入室すると、
「右近!」
脇息にもたれた惣一郎が、待ちかねたように叫んだ。
そのまま立ち上がり、自から右近の側へ歩み寄ろうとした。
しかし、
「殿」
右近は目顔でたしなめ、まずは入口で折り目正しく一礼した。
部屋の中ほどまで進んで着座し、右近は挨拶の口上を述べた。
「殿におかれましてはご機嫌うるわしゅう、祝着至極にござります」
「うむ」
そのような堅苦しい挨拶はいらぬと、惣一郎は焦れたように右近を見る。
右近は重々承知しながらも、
「季節柄、気をつけてはいたつもりが体調を崩し、長らくご無沙汰いたしましたこと、お詫び申し上げます」
惣一郎はすぐには答えず、物言いたげに右近を見つめたが、あくまで臣下の礼を尽す右近に、仕方なく合わせる気になったらしい。
自身も威儀を正し、
「うむ。仙之丞から逐一様子は聞いておったが…もう具合はすっかりよいのか?」
「はい、おかげさまを持ちまして」
右近は微笑を溜めて一礼した。
「殿がお届け下さった『人参』が効きましてござります」
惣一郎は感に堪えない瞳でうなずき、
「…案じておったぞ」
胸の奥から吐息をついた。
「殿」
廊下から仙之丞の声がした。
「武村様がお見えにござります」
惣一郎は指で脇息をとんと弾き、
「なに…?もう来たのか。少し早いのではないか、間の悪いやつめ一一」
いかにも迷惑そうに呟いた。
後ろに控える太刀持ちの小姓が、忍び笑いを堪えている。
江戸家老・武村と藩主の面談は毎日巳の刻と決まっている。
右近は気の毒な武村を思って苦笑したが、
「では私はこれにて」
退出の頃合をはからずに済んだことに感謝した。
瞳で追いすがる惣一郎とわざと目を合わさぬよう、右近は深々と一礼した。惣一郎には大切な話があったが、一日の執務がこれから始まろうという今は、その時ではない。
右近が御座之間から畳廊下へ出ると、入れ替わりに武村がやってきた。
「おお、これは櫻田殿。病と聞いておったが、お加減はいかがか?」
丸顔の武村が親身な声音で尋ねた。
「おかげさまを持ちまして、本復いたしました」
「それはようござった。お若いからと過信せず、身体をいとわれよ」
「お心づかい、痛みいります」
切れ者とはいえぬが人の好い重臣に、右近は素直に頭を下げた。
武村を案内してきた仙之丞は廊下に控えていた。
武村が御座之間に入ると、小声で右近に囁いた。
「後ほど…お召しがあるとおもいますが、本日の御予定は?」
(もう…お身体は大丈夫ですか?)
と、仙之丞は言外に尋ねたいのだろう。
右近は伏目がちに、
「御用があらば、未の下刻ごろ(午後九時)参上いたしますと、お伝えしてくれ」
と言い残し、中奥を後にした。
*
「酒の相手をさせるのは、まだ早いかの」
「いえ、多少ならば」
惣一郎は目を細め、塗りの盃を右近に取らせた。
右近は盃を押し頂き、惣一郎が酒を注いだ。
右近は白い喉をあおのけて飲み干し、惣一郎に返杯した。
「灘の生一本にござりますな?」
惣一郎は唇の端で微笑み、
「そのとおりじゃ。舌も本復したと見えるな」
「…のようにござります」
主従は軽い声をたてて笑った。
中奥・御座之間は藩主の居室だが、重臣との謁見の場でもあり、半ば公的な性格を帯びている。今、惣一郎が右近とくつろいでいる部屋は、御座之間の奥、寝所脇の八畳の小座敷だ。
行灯は灯心を起し、ほどよい明るさを保っていた。睡蓮を描いた軸を背に惣一郎が座り、右手の脇に右近が控えていた。ふたりの前には膳部が置かれ、夕餉の後のことゆえ、軽い酒肴が用意されている。
こうして水入らずで過ごすのは半月ぶりだろうか。
(そうじゃ、堀田様から初物の鮎をいただいた日じゃ。塩焼きをお持ちしたところ、大層お喜びで…)
炭火で焙った鮎に、惣一郎が不器用にかぶりつく姿を、右近はしんみり思い出していた。
右近は今宵、ふたりの今後にとって大事な話をするべくやってきたが、容易に切り出せる話題でもない。惣一郎もいきなり過日の事件には触れず、数日前、登城した時の笑い話でまずは座を和ませた。
さしつさされつ、しばしゆるりと時が流れたが、
「ときに右近」
惣一郎が貌(かたち)をあらためた。
「はい」
「過日のようなこと、二度とあってはならぬ」
自分とて再び毒を盛られるのは御免こうむりたい。
静かに首肯する右近に、
「わずかの奉公人と役宅に住まわすのは心配じゃ。見知らぬ者が出入りせぬよう、警護を増やそう」
惣一郎が命じた。
「そのような物々しいこと…お断り申し上げます」
微笑みながらも右近が小さく首を振ると、
「ならば中奥で暮らせ」
惣一郎はさらにとんでもない提案をもちかけた。
「殿…おたわむれを」
右近の目がおおきくなった。
惣一郎は至極真顔で続ける。
「余の側近くならば警護も厳重だ。食事も余と一緒に取るがよい。毒味役がおるゆえ安心じゃ」
「殿…」
「何せここは広い。そなたの部屋を設けるくらい、朝飯前じゃ」
目を輝かせる惣一郎に、
「殿、よもや本気ではありますまいな」
右近はすっと目を細めた。
「さような滑稽な話、聞いたことがござりませぬ」
「おかしいか?」
「世迷い言を申されますな」
「そうかな。ほれ、そなたの尊敬する田沼意次も、近頃は随分城泊まりがおおいと聞くぞ」
(なにゆえここで田沼様なのじゃ?!)
憮然とする右近に、
「将軍家の田沼への信頼篤く、片時も離さぬそうじゃな」
惣一郎が白々しく言ってのけた。
「殿…私をからかっておいでですか」
「いや」
それは言語障害があった、先代(九代・家重公)のはなし。
相良候(田沼)は近頃は単に御用繁多で、自邸に帰れぬだけのことだった。
(またご自分のいいように話をすり替えて…)
「殿。真面目にお聞きくださりませ!」
「余はいたって真面目じゃ」
「今宵は、私のほうにも大事な話がござります」
右近は居住まいを正した。
「此たびのことは私の油断です」
「右近…」
「奉公人には何の落ち度もござりませぬ」
惣一郎は一瞬沈黙したが、
「なれど、毒を盛られたことにほぼ間違いはなかろう?!」
先程ののどかな口調とは打って変わり、低く言い放った。
右近はまっすぐに主人の目を見つめ、
「目付の矢田殿に教えてもらいました。岩見銀山なら調べる方法もあるそうな。岩見銀山の入った水や汁に銀貨を落とせば、銀がたちまち黒ずむそうです」
「ならば、他の毒ならいかがする? トリカブトなぞ使われたら銀ではわからぬぞ」
惣一郎が沈痛な声でいった。
「それも私の運でしょう…」
右近は薄い笑みを浮かべた。
惣一郎の気持は嬉しいものの、右近が中奥で暮らすなどあり得ぬこと。家中の非難がいや増すだけだ。
惣一郎は手にした盃を力なく膳に戻し、
「右近」
胸底から重く息をついた。
惣一郎は立ち上がると、右近の正面に回って座った。
「殿…」
右近の目を見つめながら、惣一郎は右近の膳をぐいと脇へ押し退けた。
膝立ちの姿勢で一歩踏み出し、ふわりと右近を抱きすくめた。
「さような、投げやりなことを言ってくれるな」
右近は返事のかわりに、惣一郎の肩口にそっと頬を押し当てた。
「そなたを失っては生きられぬ」
「殿…っ」
惣一郎は両手で右近の肩や背を撫でさすり、
「少し痩せたな…」
寂しげに呟いた。
「知っての通り、此たびの一件、秘かに目付に調べさせておる」
「殿…」
右近に触れる惣一郎の手は優しかったが、
「そなたを害そうとしたもの、見つけ次第、生かしてはおかぬ」
恐ろしげな声でそう結んだ。
右近は惣一郎の胸に顔を伏せたまま、固く両目をつむった。
(やはり…容易には切り出せぬ。なれどもう、このままにはしておけぬ)
今宵こそは告げねばと思っていた。
『遠の昔に元服した家臣が、閨を勤めを続けるなど…やはり許されませぬ。若殿の頃ならまだしも、藩主となられた殿が、お世継ぎもできぬまま、藩邸で斯様にけじめのないことを続けるなど一一』
(何よりも、殿の御ためにならぬのだ)
惣一郎の長い指が右近の顎にかかった。
唇がゆっくりと降りてきて、右近の唇に柔らかく触れた。
惣一郎は時折角度を変えながら、優しく右近の唇を吸った。
「見舞いにいかなんだのを恨んでおるか?」
「いえ」
「仙之丞に軽々しく動くなと…止められた」
右近は口づけを受けながら、
「それで…よろしいのです」
吐息とともに呟いた。
惣一郎の唇が触れては離れるたびに、右近も自分から追いかけてしまう。
懐かしく甘い感触は、右近から易々と抗う意志を奪っていく。
「右近…」
鼓膜に響く惣一郎の声。
馴染んだ香のかおりに、慕わしさが込み上げてきた。
惣一郎の手が小袖の襟元に忍び込む。
胸の突起の周りをひと撫でされ、
「あ…殿っ」
身体中を一気に駆け抜けた官能に、右近は身をすくませた。
項に軽く触れる惣一郎の唇から、微かに笑う気配を感じた。
『今宵限りにせねば』と心で叫びながらも、右近は惣一郎の求めを拒めない一一。
つづく
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