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嵐が過ぎた。
右近の鬢は乱れ、汗の浮いたこめかみにほつれ髪が垂れ下がっていた。
胸は未だせわしく上下し、もはや指一本動かす気力もなかった。
惣一郎も流石に精魂尽き果てたと見え、右近の隣に大の字に横たわっていた。
互いの息の音だけが聞こえる、長い静寂が続いた。
役宅へ戻らねばと、なけなしの理性が訴えたが、どうにも身体が動きそうになかった。
「右近…」
溜息混じりの呼び声に、右近は首だけをわずかに惣一郎の方へ傾けた。
主人は天井を見上げながら、
「そなた、世継ぎのことは別として、生涯余の側にあると申したな」
「…はい」
疲労の極みにあったが、右近は迷いなく首肯した。
惣一郎は安堵したように右近の方を向くと、
「ならば、『お褥辞退』とは何ゆえじゃ」
もう何度も申し上げたではないかと、右近は心の中で小さく頭を振った。
惣一郎は右近に寄り添い、耳元で尋ねた。
「そなたは斯様なこと、一切できずともよいというのか?」
「それはっ…」
あれほど乱れた後で、答えられる質問ではない。
口ごもる右近に、
「いかがじゃ」
惣一郎が問いつめた。
右近は惣一郎に背を向けて、眉を寄せた。
「なれど…藩邸内で斯様なことを続けるのは一一」
「さように人目が気になるか」
ならないはずがない。右近の地位が上がれば上がるほど、周囲の目は厳しくなる。お世継ぎができねばなおのこと…。惣一郎も衆道に溺れるうつけ者と誹りを受けるだろう。
「ならば藩邸の外ならかまわぬだろう? 余もこれからは気をつける。それゆえ一一」
惣一郎は懇願するように囁くと、後ろから右近の身体に両腕を回し、きつく身を寄せてきた。
「殿…」
流されそうになるが、右近は惣一郎の二の腕を掴んで押しとどめた。
反転して正面から向き合う。
「人目もありますが、やはり何をおいてもお世継ぎです」
「右近一一」
惣一郎は瞑目し、再び肩で息をついた。
右近は貌(かたち)をあらため、
「恐れながら」
「何じゃ」
「殿と私とはお心がつながっておりまする」
惣一郎の瞼が開いた。
「殿は…そうは思われませぬのか?」
惣一郎は一瞬無表情に右近を見た。
答えない惣一郎に右近が再度迫った。
「たとえ閨を共にせずとも一一」
右近は言葉を継ぎ、
「私は…全てを殿に捧げ尽す所存。殿もそう思し召しでは一一?」
惣一郎は潤みを帯びた瞳で、ひたすら右近を凝視する。
(お答え…いただけぬのか)
不安がせり上がるなか、右近は一心に惣一郎を見つめた。
(おもえば長い年月、身体は殿に許しても、心は誠之進に捧げ続けた私だ。今さら、心が繋がっていると言われても…殿は戸惑っておられるのか?)
惣一郎の唇は未だ動かない。
目を見交わしたまま、どちらもが言葉を発しなかった。
右近のほうがこれ以上の沈黙に耐えかねた。
「家臣の分際で…恐れ多いことを申しました」
右近は頬を強張らせ、惣一郎の腕から抜け出た。
(愚かなことを言うた…っ)
後悔にまみれ、夜具から身を起そうとした瞬間、右近は思いがけない力で引き戻された。
「あ…っ」
再び背中から惣一郎の胸に抱き込まれた。
「もうよい、何も言うな」
「殿、私は…」
深い吐息とともに、
「本当はわかっているのだ。そなたの誠も、藩邸内でのそなたの立場も…」
惣一郎が頬を寄せた。
「殿…っ」
何かが堰を切ったように右近の胸に迫った。
「なれど、ようやく心をくれたそなたが、二度と触れてくれるなとは…あまりに酷な話しじゃ」
(それは私とて…っ)
右近は惣一郎に背を預けたまま、じっと首を垂れた。
『若い側室でも』と言った舌の根も乾かぬうちに、同じ思いにござります…とは、言えぬ右近であった。
「今宵は…ここにいてくれ」
心に沁み入るような声音で惣一郎が言った。
惣一郎は右近の身体に回した両腕に力を込め、肩にそっと唇を落とした。
「世継ぎのこと、ようわかった。少し…時をくれぬか」
「はい…」
右近は胸を熱くしながら、小さくうなずいた。
おそらく、この場の言い逃れではないだろう。惣一郎の声音から真摯に考えていることが伺えた。
正室の綾姫が子をなすのが一番穏便ではあるが一一。
(それは難しいやもしれぬ)
綾姫が輿入れして間もない頃、惣一郎は労りと義務感から奥へ渡った時期もあったという。それでも不首尾なら、綾姫には気の毒だが新手を用意せねばなるまい。
いずれにせよ側室選びは自分の役目ではない。お年寄りの藤江か、案外仙之丞あたりがうまく計らうやもしれぬ。
「右近…」
再び、惣一郎が耳もとで名を呼んだ。
「はい」
返事をしたものの、次の言葉はなかった。
「殿?」
訝り、背後の気配を伺えば、右近の耳に穏やかな惣一郎の寝息が聞こえてきた。
その安らかな寝息に、幸福感といくばくかの寂寥を覚えつつ、右近は瞑目した。
背中に惣一郎のぬくもりを感じながら、右近もいつしか深い眠りに落ちていった。
***
綾姫の薬包が消えたこと、結局、右近は惣一郎には告げなかった。
消えた理由を深く考えることは、そら恐ろしい何かに行き当たる気がして、右近は努めて思念の外においていた。
あれ以来、仁平は右近の口にするもの全て、毒味を買ってでた。むろん右近はその必要なしと言ったが、仁平は過日の事件の責任を感じ、涙ぐましいほどに右近に尽していた。
目付の矢田からも、今のところ犯人についてこれといった報告はない。惣一郎はもとより、仙之丞を始めとする周囲の者が冷静に振舞ったため、右近が毒を盛られたという噂が広まることはなかった。
右近はふたたび留守居役の仕事に追われ、日々は足早に流れていく。気がつけば梅雨空も終わりを迎え、江戸の夏を彩る祭り囃子が、市中のあちこちで聞こえ始めていた。
了
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