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大手橋近く、内藤邸。
昨夜小雨が降ったものの、明け方にはやみ、午後には雲の合間から薄日が射し始めた。湿気は残っているものの、気温はさほど高くない。露に濡れた草の匂いが、かすかに室内にも漂っていた。
内藤家の若い当主、弥一郎は自室で知行地の役人あての書状をしたためていた。
過日、弥一郎が知行地の視察に出かけたとき、ある村の庄屋から陳情があったのだ。隣村との堺にある畦道の管理権を巡り、争いが起こっているという。訴え出た村を仮に甲村とする。洪水の際、この小高い畦道がさながら堤防の役目を果たし、甲村は床上浸水を免れてきた。ただし、くだんの畦道は隣村の田地の中にある。こちらを仮に乙村とすれば、乙村の側では畦道を切り開き水を通ことで、出水時、浸水を免れる。畦道は乙村の境界内、しかし甲村は代々畦道の管理をしてきたのは当方だと言って譲らず、双方の利害と主張は真っ向から対立していた。
甲村の庄屋は訴訟を起こしたものの、一向にお調べが進まぬのに業を煮やし、過日、新領主の弥一郎が視察に赴いた際、意を決して秘かに直訴してきたのであった。
弥一郎はしかと検分を進めるよう、役人に申し付けてきたのだが、ひと月たっても何の報告もないため、進捗状況を尋ねるべく書状をしたためていた。
「弥一郎様」
障子戸の向こうから、内藤家の用人、朝倉の野太い声がした。
「うむ」
さらさらと筆を走らせながら、弥一郎が応じた。
「ちとお耳に入れたいことが」
「申せ」
「三郎ぎみが…御門前に」
「なに?」
弥一郎は思わず手を止め、
「門前とはどういうことじゃ、お通ししておらぬのか?」
「それが、供を一人連れておいでですが、御門前で何やら行ったり来たり…。門番が不思議に思い伝えて参りました」
「それは異なこと」
「いかがなされます?」
「是非もない。私が出て、お声をかけよう」
弥一郎は筆を硯に置き、すっと立ち上がった。
小袖の衿のあたりを整え、急ぎ衣桁から羽織をとって身にまとう。
弥一郎は廊下に出ると、控える朝倉を見やった。
「彩之介は?」
「ちと使いに出ております」
「さようか」
「ならば朝倉、そちが茶室の用意をいたせ」
「かしこまりましてござりまする」
「掃除は…できておろうの」
「ご心配なく。今朝も若様のために彩之介殿が心をこめて??」
朝倉は厚めの唇の端に、好色な笑みを浮かべた。
「…早うゆかぬか」
弥一郎は軽く朝倉をひとにらみすると、廊下を早足で玄関へ向かった。
*
「三郎ぎみ、弥一郎殿に御用があるなら、さっさとお会いになればよろしいものを」
「うるさいぞ、色々考えておるのだ。少し黙っておれ」
「…ようございます。それがしが門番に一一」
言いながら、源蔵は門番のほうへと歩みよっていった。
「源蔵!」
三郎が怒鳴り付けたところ、立派な檜造りの大門が内側から開き、きちんと羽織を着た内藤弥一郎が現れた。
「三郎ぎみ」
深々と一礼され、
「う、弥一郎…」
三郎は頬を赤らめて身を固くした。
(なんとみっともない…)
相手に見つかるくらいなら、源蔵の言うようにさっさと訪いを告げておけばよかった。
ばつの悪さに目があげられない三郎に、
「当家のものがお姿を見かけたと申しまして。お急ぎでなければ茶など一服差し上げたいのですが」
弥一郎は穏やかに語りかけた。
「では…少し立ち寄らせてもらおうか。別段、急いではおらぬゆえ」
三郎は目を伏せたままなずくと、
「さ、こちらへ」
促す弥一郎に従い、三郎は内藤家の門を潜った。
源蔵は門前で待つつもりで、その場を動かなかったが、
「源蔵。おまえも入るがよい」
弥一郎が振り向きざまに声をかけた。
「え、それがしも?」
丸顔に埋もれがちな源蔵の目が、こぼれんばかりに見開かれた。
三郎は弥一郎の気づかいに感謝し、
「すまぬな、弥一郎」
「いえ、源蔵は今や三郎ぎみの一の側近、お側に伴われるがよろしいでしょう」
「聞いたか、源蔵」
三郎がいたずらっぽく笑いかけると、源蔵は瞳を潤ませてこくこくとうなずいた。
*
弥一郎はふたりを庭つたいに茶室へと案内した。
源蔵はきょろきょろと辺りを見回しては感嘆の声をあげた。
樹齢百年をこえる松に圧倒され、築山や池の風情に目を見張った。
池にかかる橋を渡るとき、源蔵は思わず足を止め、優雅に泳ぎ去った鯉を指差した。
「立派な鯉ですねえ…こんなの本丸の御池にもいませんよっ」
三郎はくすりと笑い、
「おまえ、鯉の値打がわかるのか?」
からかうように眉を上げた。
「甘露煮したらうまそうじゃとか、大方そのような事で頭が一杯なのだろう?」
「三郎ぎみっ!」
思わず拳を振り上げた源蔵だが、
「では後ほど一匹お城へ届けさせましょう」
弥一郎がさらりと言ってのけた。
「ええっ、そんなもったいない! 恐れ多くていただけませんよ?」
「ばかもの。煮て食うのではない。城の池に放ってはと申し出ておるのだ」
呆れたような三郎の解説を聞きながら、弥一郎は軽い笑い声をたてた。
「三郎ぎみ、まこと、よろしければ」
「いや、住み慣れたこの池から離すのは、鯉が気の毒じゃ」
三郎は笑みを浮かべつつ、首を左右に振った。
「この池にあってこそ、鯉たちは幸せなのじゃ」
弥一郎も目を細めてうなずくと、再びふたりを促して茶室へ向かった。
*
内藤家の茶室は、弥一郎の曾祖父の代に作られたという。
ひなびた中にも落ち着きと品を感じさせる空間が心地よい。
素朴な籠に生けられた、淡い桃色のささゆりが、三郎の目をひいた。
亭主の席についた弥一郎は、三郎と源蔵のために茶を点てた。
微塵も迷いのない、なめらかな動きに、三郎は思わずみとれた。
「茶の湯は祖父から習いました」
一瞬遠い目をすると、弥一郎は薄く微笑んで、三郎の前に茶碗を置いた。
作法にのっとり茶碗を手にした三郎は、一口目を口に含んだ。
薄すぎず濃すぎず、少し熱めの加減に目をみはる。
(さすがだな…)
正直、茶の湯の席で茶が「うまい」と思うことは滅多にない。
皐月とはいえ、薄曇りの午後。
内藤家の門前を行きつ戻りつしていた間に、身体が冷えていたのだろう。
喉の奥が心地よく暖まり、三郎はほっと息をついた。
三郎は最後まで飲み干すと、満足げに茶碗をへり外へ戻した。
それを見届けた弥一郎が、柔らかく微笑んだ。
弥一郎は新たに柄杓で湯を汲むと、源蔵の茶を点て始めた。
しなやかな茶筅の動きに、三郎は再び見入った。
やがて源蔵にも茶が供され、
「頂戴します」
源蔵は一礼すると、借りて来た猫さながら、かしこまって茶碗を手にした。
茶席に招かれた時の作法くらいは、源蔵も誠之進から習っている。
まずは無難な所作で飲み干すと、
「結構なお手前でした」
かちこちに緊張しながらも、弥一郎に向かって笑みを浮かべた。
粗相もなく茶を飲み終えた源蔵は、手の中の茶碗を眺め、
「三郎ぎみ、このお茶碗も見るからにご立派な…どなたのお作でしょう?」
何を調子にのっておるのじゃ、と三郎は内心頭をかかえた。
「よいから、おまえは黙って菓子でもいただけ」
「お尋ねしてはいけませぬのか?」
「知ったかぶりはかえって田舎者丸出しじゃ」
源蔵は一瞬むっとした表情を見せたが、
「…失礼いたしました」
ここが西の丸ではないことをわきまえ、弥一郎の前で三郎への口ごたえは控えたらしい。
弥一郎は面白そうにふたりを眺めた。
「まあまあ、そういじめずとも」
「いじめてなぞおらぬ」
憮然とする三郎に、
「乳兄弟とはよきものにござりますな」
弥一郎は目を細めた。
一応ほめられたものの、何やら面はゆい三郎主従だった。
弥一郎はふたりに向かい、
「その茶碗は、絵柄と釉薬の質感がすばらしく、それがしが好んで使っておりますが、無銘の品にござります」
「さようにござりますか」
源蔵が意外そうに目を上げると、
「名人が作った名器もあれば、名もない陶工が残した逸品もござります」
弥一郎は続けた。
「お心に響いたものを、素直に愛でられればよろしいのでは」
「そなたの言うとおりじゃな」
即座に同意した三郎の隣りで、源蔵は感極まったような目で弥一郎を見つめていた。
三郎は以前から弥一郎の穏やかさを好ましく思っていたが、江戸から戻って以来、弥一郎の人物がひと回り大きくなったような気がする。何がそうさせたのか、三郎は詳しい事情を知る由もなかったが、帯刀の閉門が解けて以来の大坂、江戸での日々が、弥一郎にとって大きな転機となったに違いない。
「祖父の代には、先々代の殿様のお成りを得て、当屋敷にて茶会も催されていたそうです」
弥一郎の物言いは決して自慢げではなく、祖父を敬愛する心がにじみ出ていた。
しかしそれは権力志向の父、帯刀への反発の裏返しでもある。
藩金流用で失脚した父・帯刀の隠居と引き換えに、内藤家は命脈を保った。
弥一郎は凛然と眼をあげた。
「微力ではござりますが、それがしが当主となった以上、過ぎし日の内藤家の品格を取り戻したく存じます」
穏やかな口調ながら、言葉の端々に、名家の誇りと父・帯刀への愛憎が見え隠れした。
友の心中を思いながら、
「うむ…殊勝な心がけじゃ」
三郎は静かに首肯した。
*
点前も終わり、三郎はそろそろ本題に入りたかった。
「して弥一郎、実は折り入ってそなたに話したいことがあったのだ」
「何でござりましょう?」
三郎はかたちを改め、
「私と共に、再び藩校へ通わぬか?」
「三郎ぎみが…再び藩校へ?」
弥一郎が目を見開いた。
「誠之進の勧めじゃ。分家の当主に収まれば、もはや気軽な身分ではおられぬゆえ、最後に羽を伸ばしておけということらしい」
三郎は苦笑してため息をついた。
弥一郎は三郎と目と合せ、くすりと笑みを漏らした。
「なんじゃ?」
「いえ」
弥一郎は襟元に手をやり、軽く居住まいを正すと、
「なるほど、誠之進殿のお気持ち、よくわかります。分家のご当主となれば、軽々しく軽輩の者と交わるわけにもいきませぬゆえ」
「ふむ、そなた誠之進とまったく同じことを言うのだな」
小首をかしげる三郎に、
「それが武家の常識です」
弥一郎が諭すように言った。
「…斯様に言われては、ひとこともない」
「そもそも藩校へいらしたこと自体が異例で、誠之進殿も型破りなことをなさると思いました」
「弥一郎…」
「もっともそのおかげで一一」
弥一郎はいったん言葉を切ると、
「こうして三郎ぎみとも親しくさせていただいております」
目元を和ませた弥一郎に、
「たしかにな…」
三郎は少し照れながらうなずいた。
弥一郎の父、内藤帯刀と、三郎の後見である誠之進の溝口家は、政敵の間柄。
藩校で出会わなければ、三郎と弥一郎が親しくなる可能性はなかった。
三郎は気を取り直して話題を元に戻した。
「して、いかがじゃ、藩校の件」
短い沈黙の後、
「それがしの退校は謹慎の意味合いもございました…」
「なれど弥一郎、それは帯刀のしでかしたこと。そなたのせいではない」
「ありがたきお言葉にはござりますが」
「いまだ正式にお役目にはついておらぬのだろう?」
「はい」
「ならば時間がないわけでは」
「退屈かとおっしゃりたい?」
表情は柔らかいものの、ほんのわずか、言葉に棘があった。
「そのような意味ではない」
慌てる三郎に、
「せっかくのお言葉なれど、それがし、正式に出仕が決まるまでは、知行地を治めることに専念したく存じます」
弥一郎は押さえた声音ながら決然と言いきった。
三郎ははっと胸をつかれた。
「お恥ずかしい話ですが、父があのような人物ゆえ、知行地の行政は役人任せで、色々とひずみが出てきております」
「争いごとでも起こっているのか?」
「はい。先日もある村より土地争いの訴えがあり、今、経緯を調べているところです」
「さようか…」
いかにも、誠之進の言ったとおりだった。
たったふたつしか違わなくても、弥一郎は既に内藤家当主としての自覚を持ち、己の責務を果たそうとしている。
もはや気楽な身分ではないのだ。
ふたたび共に藩校へ通おう、など、三郎の勝手な思い込みにすぎなかった。
『弥一郎がことは、そなたの許しを得る必要もないな』
『若っ』
『いかにも弥一郎は己の意思で藩校をやめたが、戻りたければそれも己の自由じゃ』
過日、誠之進にぶつけた言葉を思い出した。
一人前の口をきき、背伸びをすればするほど、己の未熟さを露呈する。
愚かにも弥一郎まで巻き込もうとした。
通ぶって茶碗の作者を尋ねた、源蔵のことを笑えた義理ではない。
「すまぬ…弥一郎」
三郎は膝上で拳を握りしめ、うなだれた。
「手前勝手なことを申した」
「とんでもござりませぬ。お顔をお上げください、三郎ぎみ」
弥一郎が暖かい声音で言った。
「お気持ちは、嬉しゅうございました」
小さく首をふる三郎に、
「藩校へはご一緒できませんが、いつでもお気軽に、わが屋敷をお訪ねくださりませ」
「弥一郎…」
「一度ぜひ、誠之進殿もお誘いください」
真っすぐに三郎を見つめる瞳は、清々しく晴れやかであった。
*
最後のひとことには、政治的な意味も込められていたのだろう。
三郎と懇意にしたい気持ちと、溝口家に敵対する意志は毛頭ないことを、弥一郎は改めて示したのだ。
茶室のにじり口から外へ出ると、陽は既に西の空に傾き、遠くに鴉の声を聞いた。
弥一郎に従い門へと向かいながら、一足先に大人になってしまった友の背を、三郎はまぶしげに見つめた。
つづく
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